39. ヒールベリー
あの日唐突に終わりを迎えた雨の日々のあと、今度は逆に晴れの日が続いている。宿の女将さんが言うには、4月か5月の頃に一度、短期的に集中して降る期間というのは割と珍しくないらしい。
ちなみに女将さんの名前は『ヘルサさん』であることを以前本人から教えて貰ったのだが、何となく纏っている雰囲気からか未だに『女将さん』とシグレは呼んでいる。それは敬意を表した呼び方という意味合いが強く、それが伝わるのかシグレにそう呼ばれて女将さんも満更では無さそうだった。
宿に泊まってもう10日以上になる。毎日の朝食は必ず宿で頂くようにしているし、洗濯をお願いしたり、部屋の掃除をお願いしたりと女将さんに頼る機会は多い。その度に、料理も洗濯も掃除も、およそシグレから見て文句の付けようのない仕事をしてくれる女将さんは、純粋にシグレから見ても尊敬に値する職人であった。
「ヒールベリー、ですか?」
その響きを耳にして、まずシグレは(いかにも薬効がありそうな名前だなあ)といった印象を抱いた。今朝も美味しい朝食を頂きながら、女将さんの口から聞かされたその単語に、シグレはそのまま問い返す。
ベリーと付くからには、やはり小果実的なものを想像してしまう。日本人的な感覚からすれば、ベリーと聞いて最初に想像するのはブルーベリーのようなものだろうか。あるいは、次点でイチゴ―――つまりストロベリーのようなものも想像できる。
とはいえ、〝ベリー〟という単語を〝漿果〟という意味で捉えるのであれば、ブルーベリーにしてもストロベリーにしても、どちらも正確には別物であったような気もするが。
「小さな酸っぱい果実でね、一応季節を問わず通年採ることができるんだけれど、大体この時期から夏の初めぐらいまでが特によく採れるんだ。鬱蒼とした森林なんかの、日当たりがあんまり良くない場所のほうが、良く採れたりするかね。乾燥に弱い所があるから、水源が近い場所だと群生したりもする」
「ふむふむ。ベリーと言うからには、ジャムにしたりするのですか?」
「するね。この時期に一年分を纏めて作ったりする」
そういえば、この宿ではパンを自家製で焼いたりしている割には、ジャムなどを客に提供したりはしないように思う。
大抵は鶏肉料理が付いてきて、これをパンと一緒に食べる。朝の胃が目覚めない内からから鶏肉料理というのも凄い話だが、それを朝から無理なく美味しく食べさせてしま辺りが、この宿の料理の優れている証明とも言えるだろう。
「……自分に話したと言うことは、採ってきて欲しいということでしょうか?」
シグレが冒険者であることは、女将さんには割と初めの頃から話してある。
ギルドを介して冒険者に依頼を出すと、当たり前だが紹介料が掛かる。だから、親密な間柄であればギルドを介さず個人的に依頼を交わしたりすることもある―――そんな話を、カエデから聞いたのは数日前のことだったか。
宿には散々世話になっている。女将さんの依頼であれば、シグレに拒否するつもりは全く無かったのだけれど。シグレに訊かれて、女将さんはゆっくりと頭を振ってみせた。
「うちで使うワケじゃないし、そこまでではないね。うちでは朝食のパンは料理と一緒に供すると決めてるんだ、それは知ってるだろう」
「ええ、それはもう。理解させられてしまっておりますとも」
胃袋で。
「ただ、うちが小麦を買い取ってる農家の人が、この時期はいつも欲しがっててね。だから毎年この時期に宿に泊まってる冒険者の人には、依頼と言うほど積極的にじゃないけれど、話だけはしてるんだよ。もしヒールベリーを持ってきてくれれば、幾らでも買い取るからってね」
「……なるほど」
ジャムなどというものは材料があればあるだけ作る物だから、毎年の調達量というのは不安定でも構わないと言うことか。
冒険者ギルドを介さず、正式に依頼するでもなく、それも『持ってきてくれれば買い取る』といった消極的なスタンスであれば、かなり安く買い集めることができるだろう。
実際、こちらとしても悪くない話だ。事前にその『ヒールベリー』なるものがどんなものか把握してさえいれば、狩りのついでなどで容易に手に入れられる機会はあるかもしれない。それを、それなりの価格でとはいえ無尽蔵に買い取ってくれるというのは、些細な追加収入を齎してくれるかもしれないのだから。
「いつも美味しいパンを食べさせて頂いてますからね」
依頼ではないので〝受ける〟と答えるのも変な話だから。やや婉曲した返事で、そう答える。女将さんも満足そうな笑顔で頷いてくれた。
もちろん美味しいパンへの感謝は、主に宿を切り盛りする女将さんや、その旦那であるガドムさんに向けられるものではあるが。幾許かの感謝を小麦農家の人に捧げるのも悪くない。
(とりあえず、どういうものか把握しておかないとな)
何かのついでに採るにしても、その『ヒールベリー』なるものの見た目ぐらいはちゃんと理解しておかなければお話にもならない。
知識を得るのであれば図書館がベストだろうけれど……こちらの書物には写真がなく、絵図が付いていること自体、あまり多いとは言えない。仮に植物図鑑のようなものがあったとしても、理解するための絵図が各々に付けられているような詳細なものは期待できないだろう。
とすると……さて、どこで知識を得れば良いものだろうか。
◇
『―――シグレさん、いまお話ししても宜しいですか?』
カグヤから念話で話しかけられたのは、ちょうど宿を出て冒険者ギルドに向かっている最中のことだった。
結局、知識を得るための良い方法は浮かばなくて。判らないことは他人に訊こうと、とりあえずギルドに移動しようとしていたのだ。窓口のクローネさんであれば、良い方法を教えてくれるかもしれないと思ったからだ。
『大丈夫ですよ、どうされました?』
『え、えっと……特に何か用事があって、というわけではないのですが』
『そうですか。もちろん用事が無くても大歓迎ですが』
時刻を見てみると、朝の9時過ぎを示している。
カグヤから念話で話しかけられたのは、昨日も、一昨日もこのぐらいの時刻であった。何故なのかは判らないが、共に〈迷宮地〉を掘りに行った翌日から、カグヤは毎日念話でこの時刻に話しかけて来てくれる。
彼女の店である『鉄華』は大体9時頃に開けるのだと聞いたことがあるから、開店直後のこの時間帯には暇を持て余しているのかもしれない。
『シグレさんは何か、本日のご予定は決めてらっしゃるんですか?』
『予定、という程のものではないですが。一応、やろうと思っていることはありますね。ああ―――すみません、ちょうど良いので、ひとつ質問をしても宜しいですか?』
『あ、はい。何でしょう?』
『カグヤは、〝ヒールベリー〟というものをご存じですか?』
〈鍛冶職人〉である彼女には門外漢の素材ではあるだろうけれど。この世界の住人である彼女であれば、知っていると言うこともあるかもしれない。
その程度の淡い期待で訊いてみたのだが、それは正しかったようだ。すぐにカグヤから、色好い声色の返事が届けられてくる。
『はい、知っていますよ。―――そっか、もうそんな季節なんですね』
『自分は今日初めてこの植物の名前を知ったのですが、今からの時期によく採れるそうですね?』
『初夏ぐらいまではよく見かけますね。採りに行かれるのですか?』
少し、どう返事をしたものか迷う。
詳細を知りたいとは思っていたけれど、別に今から採りに行こうとしていたわけでもないのだが。
『自分がお世話になっている宿に品を卸している方に、欲しい方がいらっしゃるのだそうで。近いうちに、採りに行けたらいいなと思ってはいるのですが、自分はその〝ヒールベリー〟という物の外見を知らないのです。―――もし宜しければ、近いうちにお暇な時に教えて頂けませんでしょうか?』
判らないものを知る上で最良の方法は、判っている人に教えて貰うことだ。
店を開けているカグヤには、自由になる時間が少ないかもしれないので、難しい頼みであるかもしれないとは思いつつ。もし彼女が直接その現物を教えてくれるなら、それが一番であるように思えた。
『私で良いのでしたら、喜んで! ―――今からですか!?』
『い、いえ。カグヤの都合が良いときで大丈夫です』
『では、今から行きましょう! 今日はお天気もいいですし!』
妙に力の籠ったカグヤの口調に気圧され、彼女にシグレは了承の意を示す。
確かに、天気が良いというのはいい。それだけで、出掛けようという気になる。カグヤとは前回〈迷宮地〉まで雨の中を共に歩いたこともあるから、尚更だ。
……ただ、やはり気がかりなことがひとつある。
『自分としては勿論大歓迎ですし、有難くもあるのですが……お店のほうは、宜しいのですか?』
『大丈夫です! 昨日から店員さんを雇いましたから!』
『そ、そうなのですか』
カエデに以前聞いた話によれば、あの店は昔からカグヤが一人で切り盛りしているという話だったのだが。急に店員を雇ったと言うのは、一体どういった心境の変化があったのだろうか。
しかし確かに、それなら彼女が店を空けても特に問題は無いだろう。
『すみません、それでは採取のご同行をお願いしても宜しいですか』
『はい! 沢山採りに行きましょう!』
明るいカグヤの声を聞いていると、自然とシグレの気分も明るくさせられるかのような気がする。彼女が同行してくれるなら、ただ採取に行くだけの道程も楽しい物になるかもしれない。
こちらの世界に来てからというもの、他の誰かと一緒の時には大抵戦闘が伴っていたから。たまには遊山散歩の気分で、まったり過ごしてみるなんてのも良いかもしれないと思った。
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