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(改稿前版)リバーステイル・ロマネスク  作者: 旅籠文楽
〔 tailpiece. 〕

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19. 嫉妬する妹

『情けない兄でごめんな』


 それが、昔から続く兄の口癖だった。

 何かにつけて、心底申し訳なさそうな顔をしながら兄は自分のことをそう言うけれど。菜々希はあまり、兄が自分のことを貶める言葉が好きではなかった。

 私にとっては、誰よりも最高の兄なのだから。それを悪く言うような言葉は、例え兄自身の口からであっても聞きたくは無かったのだ。




    ◇




 学校を出た先から広がる瀟洒な並木道。その街路を十数メートルも歩くと、いつも通りに家の車が止まっている。

 車の横には、菜々希よりも背が低いメイド服の子が佇んでいる。菜々希が軽く手を振ると、あちらも手を振って応じた。


「志乃、車の中で待っていてくれていいのに」

「そういうわけには参りません。菜々希様の世話を託かっておりますので」


 このやり取りも、殆ど毎日の恒例行事に近い。

 志乃は、本来私のメイドではない。けれど『託かっている』と言われれば菜々希も、もうそれ以上反論するわけにもいかなかった。

 志乃がドアを開けてくれた後部座席に乗り込む。外はまだ風に僅かな冷たさが残っているから、車内の温かさが心地良かった。


「お疲れ様です、お嬢様」


 運転手の端居さんが、小さく頭を下げながらそう声を掛けてくれる。

 志乃とは異なり、運転席に座る執事の端居さんは、菜々希と直接雇用の関係にある。元は両親が私に宛がってくれた世話役の方なのだけれど、両親の死後に辞めようとしていたのを、菜々希が必死に慰留したのだ。

 幸い、投資家の父母を持つ菜々希には、端居さんを雇うのに充分過ぎるだけの遺産があった。


「端居さんもお疲れ様です。本日も病院までお願いしますね」

「承知致しました」


 菜々希が給料を払って雇っているとはいえ、年下の志乃とは違い、端居さんを呼び捨てにするようなことはしない。

 年長者に対しては、それだけで相応の敬意を抱く。兄がそうであるのだから、妹の菜々希もまたその考え方に倣うのは当然のことだ。―――少なくとも菜々希自身は、そのように考えていた。

 車通りが収まり、後部席の逆側から志乃が乗り込むのを待ってから、車は静かに走り出す。

 窓の外、流れていく景色を眺めながら、菜々希はぼんやりと兄のことを想う。

 兄のことだけを考えていられて、兄の元へと会いに行くことができる。放課後以降のこれからの時間の為だけに、菜々希は日々を生きていると言っても過言では無かった。




    ◇




 総合病院というのは、大抵いつも混んでいる。

 それは、ここ繰賀(くるが)総合病院でも例外では無い。老年の方が圧倒的に多く、所々に散見される中年・高年の方には女性が多い。これは今が平日の、まだ夕方には少し早い時間帯だからということもあるのだろう。普通の方であればまだ働いて当然の時間帯なのだから。

 勝手知ったる病院の中を、急く気持ちに背中押されてか、半ば早歩きに菜々希は歩いて行く。その後ろを、やはりこちらも早歩きで志乃が追いかけてきた。

 メイド服を身につけている志乃の姿は否応なしに目立つが、菜々希も志乃もそれを務めて無視する。どうせ好奇の目が集まるのも、病院に入って直ぐの僅かな間だけだ。エレベーターで病院の五階へと上がり、建物を連結する渡り廊下を歩いて『入院棟』のほうへと進入すると、それら視線は殆ど寄せられなくなる。

 毎日学校が終わってから殆ど同じ時刻に菜々希の存在は、兄と同じ階に入院する他の人達にはよく知られていた。当然、付き添う志乃のことも知られているから、今更メイド服ひとりに好奇を抱く者も居たりはしない。

 すれ違う看護師の方も、菜々希を見てどこか感心したように目を細めながら「いらっしゃい」と声を掛けて来る。菜々希もそれに軽く一礼だけをして応えた。

 あちらはわざわざ足を止めて下さったようだが、早く兄の部屋に行きたいので菜々希には話し込むつもりが無かった。


「菜々希ちゃん、今日も兄ちゃんのお見舞いかい?」


 けれど、その菜々希の思惑を余所に、新たに掛けられてくる声があった。

 一瞬、聞こえなかったふりをしようかとも思う―――が、そんな無下な対応もできない。菜々希にとってはこの人のことなど別にどうでも良かったが、私が失礼を働いては兄に迷惑が及ぶ可能性がある。それを思うと、本心とは裏腹に対応しないわけにはいかなかった。


「はい。阿部様にも、兄様がいつもお世話になっております」


 声を掛けて来た相手に、菜々希は丁寧に応じる。阿部さんは兄の隣室に入院している人だから、菜々希としても、せいぜい愛想は振りまいておかなければならないのだ。

 菜々希が打算による作り笑顔を浮かべると、阿部のおじさんは目を細めて感心するように「そうかいそうかい」と呟いた。


「できれば兄ちゃんに、もうちょっと手加減してくれって言っといてくれよ」

「ふふ、私は兄様を応援していますので、それは出来かねますわ」


 囲碁と将棋の話である。阿部のおじさんは時折、兄の病室で囲碁を打っている。

 兄は自由に歩くことが出来ない身体なので、「わざわざ訪ねてきて娯楽を提供してくれる阿部さんには感謝している」と兄も言っていた。兄が感謝している相手には、菜々希も相応に礼は尽くさねばならない。

 尤も、肝心の腕の方には差がありすぎて、勝ちすぎてしまわないように兄が色々と気を遣っているようだった。おそらく手加減なら既に充分すぎるほど為されている筈である。


「申し訳ありません、兄様に着替えを届けたいと思っていますので」

「おお、呼び止めて悪かったね。いってらっしゃい」

「はい、ありがとうございます」


 菜々希が一礼するのに合わせて、後ろの志乃も深く頭を下げた。

 廊下をもう少しだけ歩くと、すぐに部屋番号『5208』の前に漬く。

 ドアの前で軽く深呼吸を1回済ませてから、コンコンと2回だけ軽くノックした。


「―――どうぞ」

「失礼致します」


 カラカラと引き戸を開けて、病室の中に入る。


「兄様、お着替えの方をお持ち致し―――」


 入室してから、すぐに右斜め前を。即ち、ベッドがある方を見た菜々希の視線の先には誰も居らず、ベッドはもぬけの殻であった。

 代わりに兄の姿は、菜々希の正面すぐの場所にあった。車椅子に乗った格好で、どうやら菜々希がこうしていつも通りの時間に訪ねてくるのを待っていてくれたらしい。


「ど、どうなさったのですか? 車椅子にとは……」


 兄の身体は、一般に〝ALS〟と呼ばれる難病―――『筋萎縮性側索硬化症』に冒されている。筋力が低下し、身体機能が麻痺する病で、特に兄の場合には下肢に顕著な障害が出ていた。

 歩行することは疎か、立ち上がることさえ自らの意志ではできない。上肢は下肢ほど重い障害状態ではないものの、かといって自らの体重を上肢で支えて車椅子に自力で移れるほどではない。

 そのような身体である故に、ベッドから車椅子に身体を移すためには看護師の方の手助けを必ず必要とする。そして兄は他者に迷惑を掛けることを嫌う性分であるため、普段はお手洗いの利用や診察の時、あるいは週に二度程のお風呂利用時などを除けば、私用では滅多に車椅子に身体を移すことさえなさらないのだけれど。


「いらっしゃい、菜々希、志乃。折角来てくれた所を悪いけれど、これから少しリハビリを受けて来ようと思ってね」

「リハビリ……ですか?」


 繰賀総合病院はかなり大きな病院で、リハビリ用の設備と人員も充実している。

 だから兄が告げた台詞そのものにおかしい所はなかったのだけれど。それを耳にした菜々希は、率直に言って『訝しさ』のようなものを抱いた。

 過去に一度として、兄がリハビリを望んだことなど無かったのだ。

 自身が背負っている病に関して、兄はどちらかというと諦念に近い感情を抱いているように見受けられた。これ以上良くもならず、悪くもならない自身の身体に関して、ただそれを在るが儘に受け入れているかのように―――妹ととして、自由な時間の多くを兄の傍で過ごした菜々希には、そういう風に見えていたのだけれど。

 リハビリを望むということは、身体を治したいという意志を兄自身が抱いていることの証左であると。そのように考えても良いのだろうか。だとするなら、勿論それ自体は歓迎すべきことなのだけれど……。一体どのような心境の変化があられたのかは、正直妹として気になる所だ。


「折角来て貰ったのに、済まない。急に申請をしたものだから、リハビリを担当する理学療法士の先生があまり空いていなくてね。菜々希が面会に来てくれる時間と被ってしまう時間にしか、予約が取れなかった」

「お気になさらないで下さい。私が勝手に面会に来ているだけですから、もちろん兄様の都合を優先して下さって構いません」

「ありがとう、菜々希。初日から長時間は良くないということで、今日は10分だけという話だから、それほど長くは掛からないと思う」

「承知しました。菜々希はこちらで待たせて頂いても?」

「もちろん。部屋にある物は自由に使ってくれて構わないから」


 繰賀総合病院の面会時間は20時までに制限されているけれど、家族であれば消灯時間の21時までは滞在することができる。

 毎日学校が終わってから消灯までの間、可能な限り兄の傍に居ることが菜々希の幸せでもある。多少部屋を空けるからと言って、帰るという選択肢は菜々希には無かった。


「……本日は電動の車椅子をご利用では無いのですね? 宜しければ、リハビリ室まで車椅子をお押し致しますが」

「いや、これは自分から看護師さんにお願いしてこちらにしてもらったんだ。下半身ほど酷いわけじゃないが、上半身の筋肉も多少は使っておかなければと思ってね」

「なるほど……。差し出がましいことを申しました」

「気持ちは嬉しいよ。ありがとう、志乃」


 兄に微笑み掛けられて、志乃が僅かに頬を赤らめる。

 その気持ちが非情に共感する一方で、菜々希は志乃を羨ましくも思った。


「兄様、ひとつだけお訊ねしても宜しいですか?」

「ん、何でも訊いてくれて構わないよ」

「リハビリについてですが、どうしてまた唐突に希望なされたのですか?」


 ともすれば不躾な問いであるかもしれず、訊くべきか迷った疑問を菜々希は兄にぶつけてみる。リハビリ自体が良いことなのは間違い無いが、普段の兄をよく知る菜々希からしてみれば、それは(兄様らしくない)行動に見えるからだ。

 その疑問の意図も判るからなのだろう。兄は軽く苦笑いしてみせてから「そうだね……」と何か思案する素振りをしてみせた。


「ちょっと事情があって、詳しく話すことは出来ないんだけれど。少し思う所があって―――こっち(、、、)でも頑張ってみようと思った、としか言えないな。……曖昧すぎて、これじゃ答えになってないかな?」

「いえ、ありがとうございます。リハビリ頑張って下さいませ」

「ありがとう、行ってくるよ」


 兄の言葉の真意は、正直全く判らなかったけれど。何にしても、兄自身が確かに望んでいらっしゃることであれば、それは菜々希自身の望みでもある。これ以上引き留めるつもりも無かった。

 少し慣れない手つきで車椅子を転がし、部屋を出て行く兄の背中を見送ってから。菜々希は昨日の放課後、この部屋を訪ねたときのことを思い出していた。

 確か兄はその時、昼間にカピノス社の人と会ったという話をしていた。


「志乃。兄様は確か昨日、人と会っていたわね?」


 いつも通り、その時には志乃も一緒に居たはずである。

 志乃は兄のメイドであり、常に菜々希よりも兄のことを優先する。自分の記憶と志乃の記憶を統合すれば、その時のこともはっきりと思い出せる筈だ。


「はい。カピノス社の国広様という方とお会いした、という話をしておられました」

「ああ―――。そうそう、確かに〝国広さん〟と言っていたわ。背が低くて小さい人だった、とも言っておられて……用件は確か、何かの〝モニター〟という話だったかしら?」

「……私も『モニターの依頼の話』とだけ覚えております。具体的に何のモニターなのか等、詳しいことはおそらく時雨様もお話にならなかったかと」


 どうして昨日のうちに、そのことについて色々訊かなかったのだろう。

 カピノス社の医療補助端末である【カリヨン】。兄が愛用しているこれは、数年前から『モニター』という名目でカピノス社から兄に貸与されているものでもある。だから、会社から人が寄越されて、使用経過の報告といった『モニターの話』をすること自体は、別におかしいことではない、けれど……。


「私には、何かあったとしか思えない、のだけれど」

「―――同感です」


 菜々希の言葉に、志乃もすぐに頷いて応える。

 兄に、何らかの心境の変化があったのは間違い無いのだ。そして、入院生活という限られた環境の中では、兄に対して強い影響を与える要素というのは著しく狭まると考えて良い。

 外部の人と会った翌日に、兄に何かしらの変化があったとするなら。来訪したその人から、兄が何かしらの影響を受けた為―――と考えるのは、自然なことではないか。


「志乃。盗聴器の記録を回収して」

「……宜しいのですか?」

「兄様は貸与された【カリヨン】の性能に感謝なさり、現在ではカピノス社の主要株主になっています。相手もそれを知っていて兄様に改めて接触してきたのだから、何かしらの利用意図を持ってのことかもしれません。―――何かあってからでは遅いのです」

「……承知致しました。二分以内に終わらせます」


 志乃はあまり良い顔をしなかったが、『兄の為』だと説けば彼女は決して抗わない。志乃の中には兄に対する絶対の恩義があり、忠誠がある。

 兄は少々人が良すぎる嫌いがある。それは勿論、兄の美点でもあるのだが―――。もし兄の財産を利用しようとする輩が居るのなら、兄に代わって対処しなければならない。その考えと意志は、菜々希と志乃の両者に共通する物だ。

 薄型テレビの裏、ベッドの背面枕側、カーテンレールの上、兄のタブレットPCの充電アダプターの中。兄の病室の中には、計4箇所の盗聴器が設置してある。今回のような有事の場合に対処すべき物であり、決して兄のプライバシーを盗み聞きしたいわけでは無い。―――無いったら無い。

 病院内ということもあり、無線でデータをやり取りするタイプではない為、必要に応じて中身は回収しなければならない。どれもデータカードに記録するタイプなので、それを新しいものに交換すればそれだけで済む。普段は半月毎にやっている作業なのだが、今回は場合が場合だ。すぐにでも回収すべきだろう。

 交換作業に慣れている志乃が、手際良くデータカードの交換を済ませてゆく。菜々希は菜々希で、兄が部屋に置いていっている財布を広げて中身を改める。

 兄は他人から受け取った名刺を財布の中に仕舞う癖があるのだ。案の定、名前に『国広京子』と印字されたカピノス社の名刺はすぐに見つかった。

 電話番号は社全体のもののようだが、書かれているメールアドレスはこのひと個人のものだろう。場合によっては、名刺の差出人に個人的に〝お話〟をする必要が生じるかもしれない。名刺全体を携帯のカメラで撮影してから財布に収納し、しっかりと元の位置に戻した。


「カードの交換、完了しました」

「ご苦労様。志乃、悪いけれど今日は先に屋敷に帰って頂戴。私が帰るまでに、盗聴器の記録を精査しておいて欲しいのだけれど」

「承知致しました。帰宅には端居さんの車を利用しても構いませんか?」

「ええ、勿論。私はいつも通り21時までここに居るから、その頃に迎えに来るよう端居さんに伝えて置いて」


 深々と頭を下げてから、部屋を出て行く志乃を見送る。


(国広京子―――。一体、どんな人なの)


 未だ会わぬその人を思い、菜々希は軽く切歯する。




 菜々希には、過去に兄にリハビリを勧めた経験が幾度となくあった。

 自分の身体を在るが儘に受け入れ、諦念していらっしゃる兄の姿は、ともすれば妹である菜々希にさえどこか〝危うい〟ように見えたからだ。まるで生きる希望そのものを消失しているかのような―――それならば、治る見込みが殆ど無いのだとしても、兄には、リハビリに打ち込んで頂く方が健全だと思ったのだ。

 しかし菜々希が何度勧めても、兄は首を縦に振らなかった。菜々希の頼みであれば何でも訊いて下さる兄が、けれどこれについてだけは頑なに拒んだのだ。

 その理由を伺ってみても、ただ静かに「いいんだ」と漏らすばかりで。弱音にしか聞こえないその言葉も、けれど何度も聞く内に、それが兄の望みなら―――と。菜々希はいつしか、リハビリを勧めることを辞めてしまっていたのだけれど。


 ―――けれど、たった一日で。

 国広という女が、兄にそれを為させたのだとしたら。


 その考えが、一抹の暗い感情となって菜々希の心の裡へ波紋を落とす。

 未だ会わぬその女に、私は悲しいほどに嫉妬してしまっていたのだ。

お読み下さり、ありがとうございました。


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文字数(空白・改行含まない):6747字

行数:188

400字詰め原稿用紙:約17枚

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