17. 貸切風呂
カエデに案内された共同浴場には『温泉・松ノ湯』という看板が掛けられていた。
今更もう驚きもしないが、この施設も日本的な名前なのだなとシグレは思う。ファンタジー的な世界観に準えた文化の浴場で作られては、それはそれで入浴の作法が判らず却って困ることになるだろうし、有難くはあるのだが。何となく釈然としない気持ちもしたりする。
とはいえ、温泉というのは嬉しい。シグレは生まれてから未だ曽て〝温泉〟というものに入ったことがなかった。〝露天風呂〟もまた経験したことがないのだが、浴場内に内設されていることを期待しても良いのだろうか。
自分の足で気ままに好きなだけ露天風呂に―――というのは、現実の頃から密かに抱いていた夢と憧れのひとつだったのだ。現実では叶いそうにない夢も、こちらの世界でなら望めるかもしれない。
「一緒に払っちゃうから、先にシグレの分のお金貰ってもいい?」
「あ、判りました」
入湯料は個別に番頭に払えば良いのでは……とも思ったけれど、こちらではそういうルールになっているのだろうか。特に疑いもせず、シグレは意識して〈インベントリ〉から250gitaをカエデに送り渡す。
浴場の中に二人並んで入ると、そこはテレビや本などから得た〝銭湯〟の知識のように、男女の入り口が分割され、番頭が料金を徴収するような形式はしていなかった。入って直ぐの場所には受付のカウンターがあり、そこで料金を纏めて徴収するシステムになっているようだ。
その先に休憩スペースと思わしき畳が敷かれた一面があったり、あるいは寛げそうなソファーが設置された一角があったりする辺りは、いかにも共同浴場らしい雰囲気のような気がして。シグレの期待は否応なしに高まっていた。
「お待たせ、6番の浴場を借りたからそっちに行くわよ」
「判りました。タオル等はカウンターで借りたりしなくて良いのですか?」
「ここは浴場を貸し切りにするタイプでね、料金を支払うとそこの浴場の備品は一通り自由に使えるよ。タオル類は脱衣所にあるものを好きに使って構わないし、帰る時もその場に適当に置き去りにして大丈夫」
「なるほど」
―――浴場をまるごと貸し切り。そういうのもあるのか。
共同浴場のように、面識無い人と一緒に湯に浸かる光景にも多少の憧れはあるけれど。他人に気兼ねすることなく自由に湯を楽しめるなら、それもまた良いかも知れない。
温泉宿を思わせる木造の渡り廊下を歩き、『6番』と書かれた部屋の暖簾を潜る。
入った先は、小さな脱衣所になっていた。六畳ぐらいの広さしか無くやや手狭ではあるものの、脱衣籠が収納された木製の棚箱が設置され、その上には自由に使えるのであろう大小2種類のタオル類が積まれていた。
(さすがにドライヤーは無いか)
その光景を見て、先ず最初にそんなことを思ったシグレは。―――脱衣所がひとつしかない、そのことの意味にまだ気付いていなかったのだ。
「じゃ、悪いけどあんまりこっち側見ないでね?」
「………え?」
「さすがに男の人に裸を見られるのは私もちょっと恥ずかしいしね。もしどうしても見たいのであれば、私に気付かれないように上手く盗み見るようにねー?」
「………………はい?」
カエデが告げたその言葉の意味を。
シグレが正しく理解するまでに、十数秒は時間が必要だっただろうか。
「……まさか、脱衣所が共同なのですか?」
「このタイミングまでそれに気付かないシグレって、地味に結構凄いよね」
「………」
確かに。指摘されて、ぐうの音も出ない。
今にして思えば、こうなるであろう可能性については、浴場が『貸し切り』であるということからだけでも察して然るべきだったのだ。……一体どれだけ『温泉』というものを前にして自分は浮かれていたのだろう。
「もちろん脱衣所だけでなく浴場も一緒。こっちでは『タオルを湯に浸けるな』なんて決まりもないからさ。諦めて私と一緒に温泉を楽しじゃったほうが、お得だよ?」
「………………そう、ですかね」
「そうだよー」
シグレの目の前でカエデが防具を脱ぎ始めたので、慌ててシグレはそちらから目を背ける。カエデとは逆側にある棚箱から脱衣籠を取り出し、大きな溜息をひとつ吐いた。
(確かに、温泉を楽しまなければ損か)
半ば無理矢理にそう思い直し、上着を脱いで脱衣籠の中へ折り畳んで入れる。
どうせ、もとより現実世界でも一人では入浴さえできない身なのだ。看護師による補助を受けなければ入浴さえ儘ならない入院生活に慣れた身であるシグレにとっては、自身の裸を他者に見られることを恥ずかしいと思う気持ちなど疾うに消え失せてしまったものではある。
―――のだが。
(平常心、平常心……)
シグレの背後からは、革製の防具をもう脱ぎ終わったのか、何やら衣擦れの生々しい音が聞こえてくる。
自身の裸を誰かに見られることには慣れていても、他者の裸を見る機会などあろうはずもない長年の入院生活だったのだ。まして己の背中で、自分とさして変わらない年齢の女性が―――それもかなり魅力的であろうと思われるカエデが肌を晒しているのかもしれないと思うと、さすがにシグレの精神にもぐらぐらと揺れそうな不安定な感情が生まれるのは如何ともしがたいことだった。
◇
「はあああっ……」
「うあーっ……きもちいぃー……」
そうしたシグレの心に絡み苛む緊張も、こうして熱い湯に浸かれば全部忽ち吹き飛んでしまうのだから、温泉というものが持つ魔力というのは凄かった。
シグレの目の前には彼女の身体を覆い隠すバスタオルサイズのタオルに身を包んだカエデが、いかにも緩んだ顔で虚空を見上げながら大きな溜息を漏らしていた。おそらくはシグレもまた同じように緩んだ顔をしているだろうから、それについてはお互い様である。
狩りを終えた後に意識されるような疲れは無かった筈なのだけれど、自然とシグレからもカエデからも幾度となく長い溜息が吐き出された。疲労が身体から溶け出していくかのような心地良い快楽に身を委ねれば、自然と目元が細くなって声が漏れ出るというものだ。
先程までの湯に浸かる前、露天の温泉の脇で掬った湯で身体を洗っている段階では、カエデもタオルを解いて自分の身体を洗っていたから、シグレも内心では大変なことになっていた。なるべく見ないように見ないようにと意識はするのだが、それでも時折視界の端にちらちらと見えてしまうのである。
いかにも女性的な、丸みを帯びた躰のシルエットが眼の端に映る度、心臓が馬鹿みたいに早鐘を打ち鳴らしてしまって。心を静めるのに大変な苦労をする羽目にもなったけれど。こうして互いに湯の中に身を沈め、タオルですっぽりと身体を隠してくれればシグレもようやく落ち着くことができて。カエデと一緒に楽しむ温泉というのも、なかなか悪くないものだった。
(……カエデで良かった)
ふと、そんなことを思う。
これが豊満な女性であったら、あるいはその身体にタオルを巻きつけた状態でさえ、いつ結びが解けるか知れないとシグレも気が気では無かったかも知れないが。起伏に乏しいカエデの躰であれば、その心配はおそらく無用だろう。
「……何か、もんの凄く失礼なこと考えてない?」
「気のせいでしょう」
間を置かずに即答する。
女性というのは得てして敏感なものだ。疑った声で何かを問われたら、とりあえず何も考えず泰然とした声で否定する癖がシグレにはついていた。
主に矢鱈と自分のことを気に掛けてくる、妹との応酬で培った技術である。
「この風呂って、時間貸しなんですよね? 早めに出た方がいいんでしょうか」
「二時間単位でしか借りられないから、ゆっくりのんびりでいいと思うよー?」
「ああ、なるほど……そんなには入れませんね」
さすがに二時間も入れば、のぼせてしまうのは避けられないだろう。
時間を気にすることなく温泉を満喫できるというのは有難い。浴場の一区画とはいえ、脱衣所まで含めて二時間の貸し切りともなれば、二人で500gitaという結構な金額が掛かるのも納得できようというものだ。
「正直、助かるわー。一人で払うには結構厳しい額だからねえ」
「風呂だけで一日分の生活費より高く付くわけですし、そうでしょうね」
「でもさ、やっぱり私も女の子なわけだし。毎日お風呂には入りたいんだよね」
それはそうだろう。シグレは週に2日も風呂に入れれば満足ではあるけれど、それは自分が特殊であるからだと言うことは正しく理解している。現代生活に慣れた人であれば、風呂なりシャワーなりを毎日浴びたいと思うのは健全な欲求だし、年頃の女性であれば尚更のことだ。
聞けば、こちらの世界での風呂というのは一種の〝贅沢〟であるそうで、町の人達は普通、基本的には湯なり水なりで身体を拭う程度のことしかしないそうだ。こういった浴場を利用しての〝貸切風呂〟というのは一種の贅沢であると同時に、気心の知れた仲間達と共に利用するコミュニケーションの場として機能しているらしい。
それは家族の団欒であったり、仕事終わりに同僚の仲間と楽しむ場であったり、友人との友誼の場であったり、恋人との語らいの場であったりする。同性の者だけで利用することもあれば、異性間で利用することも普通に珍しくないようで、だから恋人ではないにも関わらずカエデとシグレのように男女のペアで利用する者も居るそうだ。
「自分で良ければ付き合いますよ。……自分も温泉の魅力には抗えませんし」
歳の近い女性であるカエデと一緒に風呂や脱衣所を過ごすというのは、相応に恥ずかしいことではあるけれど。この温泉の快楽には抗える気がしない。
それに一人で利用して500gitaを払うというのは、シグレにとっても気軽な金額とは言えないのだ。それが互いに安く済むのだから、多少の気恥ずかしさや一過性の居心地の悪さは我慢すべき所なのだろう。
「良かった。あんまり乗り気じゃないのかなー、って思ってたから」
「……すみません。顔に出ていましたか?」
「んーん、なんとなく勘でそう思っただけ。でもシグレのその回答から察するに、間違ってもいなかったのかな」
半分はカマを掛けた言葉であったらしく、カエデはぺろっと小さく舌を出してみせた。
言わされてしまった以上は噤むわけにもいかず、仕方なく本音をシグレも吐露する。
「正直を言えば風呂って、あまり好きではないんですよね」
「へ? どうして?」
「えっと、そうですね……ちょっと説明すると長くなるかもしれませんが?」
シグレがそう問うと、カエデはすぐに頷いて応える。
折角ゆっくりと湯を楽しんでいるのだから、互いに時間だけはある。
「現実の私は、歩けないんですよ。いわゆる下肢障害というやつでして」
「かししょうがい?」
「両脚の機能に障害を持っていると言うことですね。自由に歩行することができず、そもそも立ち上がることもできません。幸い、上半身は比較的自由に動かせるのですが」
車椅子を動かすぐらいのことなら、現実の〝時雨〟にもできる。
しかしベッドから車椅子に乗る際には、看護師の補助を受けなければならない。
「……うあ。ごめん、気軽に聞いちゃったけど、結構ヘビーな話?」
「どうでしょう? 自分に取っては割と普通のことなので何とも……。話すのを止めたほうが良いですか?」
別に聞いて楽しいような話でもないだろう。カエデが望まないならわざわざ自分の不幸を話すようなこともない。そう思い、シグレはそうカエデに告げる。
けれどカエデは少し迷った後「言いにくくないなら聞かせて?」と望んだ。
「病名は『筋萎縮性側索硬化症』と言います。……が、詳しく語ると〝結構ヘビーな話〟になりかねないのでやめておきましょう。歩くことができないので移動しようとするなら車椅子になるのですが、上肢の筋肉にもそれほど強い力が入らないので、自力では乗ることができません」
「……大変なんだね」
「大変ですね。自分がというよりは、看護師の皆さんがですが……。あちらでは入院生活をしているわけですが、そんな自分なので、風呂に入るためには介助をお願いしないといけないんですよね」
自力ではトイレにもいけない。売店に行くことも、自販機や公衆電話のそばに行くことも、着替えることも、風呂に入ることも。全部、何かしらの形で妹や看護師の方に頼らなければならないのだ。
「個人的に、看護師の方にいちばん申し訳なく思うのがお風呂なんですよ。車椅子は乗せてさえ貰えれば、あとは電動ですから自分で操作できます。トイレは生理現象ですから、頼るのも仕方が無いことだと思うようにしています。ですが風呂は、我慢しようと思えばできるものですからね……」
「……それは、そうかも」
「身体を拭くのをお願いしても、看護師の方は慣れて居ますから5分と掛からないんですよ。ですが風呂に入ることを希望しますと―――ベッドから浴室に運んで頂き、脱衣して、入浴の介助を受けて、身体を拭いて、服を着て、また自分のベッドに戻ってくるまでの間。全部でおよそ25~30分ぐらいの間は、看護師の方の手を借りっぱなしになっちゃうんですよね」
看護師の方だって、いつも忙しそうにしているわけではない。だから、例えば身体を拭きたいという時に手を借りるぐらいであれば、それほど気兼ねせずに頼むこともできる。
しかし、だからといって他の患者さんの世話だってあるというのに。長時間に渡って自分の『入浴』という我儘のためだけに看護師さんを占有してしまうのは、さすがに申し訳ないという気持ちが先に立つ。
「そのせいか、自分の中で『風呂』イコール『人様に多大な迷惑を掛けるもの』というイメージの図式が出来上がってしまっているのですよね。なので、あまり好きではないのです。なんだか気軽に望んだり、楽しんではいけないことのような気がして」
「……でも、こっちの世界なら誰にも迷惑掛からないよね?」
「そうですね。なので、こちらではなるべく好きになりたいです。こんなにも気持ちの良いことですし……楽しまないのは勿体ないですよね」
「そうだね、本当に……。大きなお風呂って、気持ちいいよねえ」
「ええ、足がこんなに伸ばせてしまいますしね……」
貸切の露天温泉はそこまで大きいわけではないけれど、それでも病院で介助を受けながら使用する浴槽よりは当たり前だけれどずっと大きい。
それに病院のものとは違って湯が熱くて深いから。身体の芯の部分までがほぐされていく、得も言われぬ心地よさがあった。
「これからはなるべく、毎日お風呂に入ってこの心地よさを存分に楽しみたいです。……代わりに現実の方では、なるべく身体を拭くだけで済ませてしまおうかと思います」
「ほ、程々にね? あんまり入らないのも問題があるだろうし」
「確かに、そうですよね。こちらの世界で小まめに入浴したからといって、現実の身体がさっぱりするわけではないですから」
そう考えると、なかなか不思議な気がする。いまシグレが使っているお風呂は、こんなにも偽りなく心地良いものであるというのに―――これが現実の自分には何一つ影響を及ぼさない、作りものであるというのだから。
お湯の透明度も、反射する光も。身体を包む湯の温かさも。湯に浸かりながら見上げる、だいぶ陽が落ちて暗くなり始めているこの空模様も。そのどれもが『ゲーム』だなんて、とてもではないが信じられない。
「……そういえば、私達がこのゲームにログインしているのは。医療補助端末の『カリヨン』を利用して、ですよね?」
「えっ? と、唐突だねー……うん、それで合ってるよ。カピノス社の端末だね」
「同じものを利用しているということは、カエデも入院生活などをしてるんですか?」
医療用の端末として開発されている『カリヨン』は、現在カピノス社と提携している病院の入院患者だけを対象に試験利用されているものである。長期入院患者のうち希望者にだけ貸与され、カピノス社のサーバーから本や映画と言ったコンテンツを無料でダウンロードし、現実の映像機器を利用せずに頭の中でそれらを閲覧・上映して楽しむことができる―――という極めて高度な最新技術が搭載されたウェアラブル端末なわけだが。
退院時には返却しなければならない端末であるし、外部への貸与・販売等は行われていないはずである。となると、同じ端末を利用している〝プレイヤー〟であるカエデもまた、どこかの病院で入院生活を送っているのだと考えるのは自然なことだ。
「んー……私はそういうのじゃないんだよねえ。ちょっとした伝手っていうか、そういうので手に入れただけで。あ、もちろん違法な方法とかじゃないからね?」
「それは判ります。アカウントがカピノス社にブロックされた時点で無用の長物になりますから、仮に違法な手段で手に入れたとしても意味が有りませんので」
「だよねー。えっと……一ヶ月ちょっと前に、この〈リバーステイル・オンライン〉のプレイヤー募集を見かけてね。見かけたって言っても公募じゃなくて、知り合いが運営してる小っちゃなSNS内のコミュニティでなんだけど」
SNSというと、会員制コミュニティの提供サービスのことだろうか。
一体どういったSNSで募集があったのだろうか?
「ま、そういうわけなので私は別に入院したりお医者さんに掛かったりしてるわけじゃないんだ。ゲームに参加する為に端末をお借りしてる感じかな。もちろん、ゲームをやめるときには返さないといけないと思う」
「なるほど。折角ですので一応訊きますが……やめる予定はありませんよね?」
「やめないよー。こんな面白い世界を、手放せるわけないじゃない」
あははっ、と快活に笑いながらそう応えるカエデの気持ちが、シグレにも良く理解出来た。
確かに、手放せるわけがない。
「……えっと、ともかく。私はそういう感じの利用なので、本来この端末を使ってる人がどういう生活を送ってるかなんて微塵も考えて無かった。なんだか訊きにくいことを訊いちゃって、ごめんね?」
「いえ、自分も話すのが別段嫌というわけではないので。カエデになら、現実の自分のことを話すのにも抵抗はありませんでしたし」
人の手を借りてばかりの情けない自分だけれど。
カエデが疎ましく思わないのであれば、知っていて欲しいと思った。
「では次は是非、カエデのことを話して下さい。聞きたいですね」
「えー……。学校の話とかばっかりになるから、きっと楽しくないよ?」
「自分はきっと楽しいです。なので話して下さい」
シグレの要求に圧されて、カエデが何度も『普通の、何の面白みもない話だよ?』と言い訳しながらもぼつぼつと現実世界での日常について語ってくれる。
学校の話に部活の話、勉強の話にテストの話。友達のことや遊びのこと―――。
そんな、きっと誰でも普通に体験している有り触れた話でも、学校にさえ通えないでいるシグレにとっては新鮮で、聞いていて心が躍るほどに楽しい話だった。
なにより、話の中での主役がカエデなのだと思えば。有り触れた物語でさえ、どんな本が描き出す物語よりもシグレには特別なもののように思えたのだ。
お読み下さり、ありがとうございました。
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