133. 毛布の匂い
ぼんやりと靄がかった酩酊が薄らいでくると、知らない部屋の天井が見えた。
少しずつ視界がはっきりしてくると共に意識が手繰り寄せられてくると。それに伴い、徐々に頭の奥の方にずきずきとした小さな疼痛があることが意識されてくる。
妙に火照っている身体があり、包み込んでくれる毛布は暖かい。不思議とその毛布からは好きな人の匂いが微かにするように感じて、カグヤは未だ僅かに残る酩酊感の儘にその意識へと感じ入った。
「シグレさん……」
「―――はい?」
無意識に漏らした言葉に、応える声があってカグヤは驚く。
慌ててそちらを見てみれば。果たして思いも寄らぬほど近い距離に、シグレさんの姿があった。
「……目を覚まされたようですね。体調はどうですか?」
「ど、どうしてシグレさんがここに……!?」
「ここは自分の部屋です。この部屋までカグヤを運んできたカエデが言うには、カグヤは長風呂でのぼせて意識を失ったそうですが。覚えていませんか?」
「お風呂で、のぼせて……」
言われてみれば、思い当たる節は沢山あった。
何しろあの後も内風呂にて、狭い湯船の中をみんなで浸かりながら延々と語り合っていたのだ。自分が湯にのぼせているという自覚はカグヤ自身にも少なからずあったし、何度もそろそろお風呂から上がろうとも思ったのだけれど……。
湯船の中、皆で語り合う内容はシグレさん関連の話題に終始していて。自分だけが先にお風呂から上がってしまうことで、皆の中で交わされる会話を聞きそびれてしまうのが嫌で。それで……どうしても風呂から抜け出すことが出来なかったのだ。
生産に採取にと、何かとシグレさんと関わる機会が多いユーリさん。シグレさんから離れることができない為に、最近は常にシグレさんと共にあるベルさん。冒険者として登録なさったその日から、シグレさんのことを良く知っているカエデ。それから―――こことは別の世界でもシグレさんとの強い関わりを持つ、妹のナナキさんにメイドのシノさん。
皆が皆、自分だけのシグレさんの姿を知っていて。皆の口から飛び出すシグレさんの話は、どれもカグヤにとって新鮮なものばかりだった。皆の口から語られるシグレさんの話はとても面白く、とても興味深くて―――聞き逃すことができなかった。
「この年になって、意識を失うほどお風呂でのぼせるだなんて……。何ともお恥ずかしい限りです……」
「外気や風を感じることができる露天のものと違って、内風呂の温泉は室内に熱気が籠りやすく、湯あたりしやすいですからね。無理もありません」
首を左右に振ってから、シグレさんはそう慰めてくれる。
「まだ少しですが、頭痛があるようですね」
「……え?」
確かに、頭の奥のほうにはまだ、小さな疼痛があるのだけれど。
それは表情に出るほどでもない些細な痛みでしかなくて。だというのに、言い当てられてしまったことにカグヤは驚かされた。
「ああ、そうか―――」
けれどすぐに、看破された理由がカグヤにも判った。
カグヤの左手の薬指に収まっている指輪は、今も淡い光を湛えているのだから。カグヤが受けた痛みは、指輪を介してシグレさんにも伝わってしまうのだ。
「……すみません、シグレさんにまで痛い思いを」
「この程度なら些細なものです。……ですが、あまり心配させないで下さいね」
横たわるカグヤの額に、シグレさんの手のひらが触れる。
優しく撫でて下さる手のひらが嬉しくて。それだけで、すうっと頭の痛みが引いていくかのように思えた。
それにしても、事情は判ったけれど―――。どうしてカエデは気を失ったカグヤの身体を、隣のカグヤの部屋にでは無く、シグレさんの部屋に運んだのだろうか。
お陰でこうして額や頭を撫でて貰えるのは嬉しいけれど……。告白の話などをお風呂の中で打ち明けてしまったせいか、何だかカエデに過剰な気の回し方をされているみたいで。少しだけ落ち着かない、変な気持ちがした。
「上体を起こせますか? 辛いようでしたら無理しないで構いませんので」
「あ、だ、大丈夫です」
促されて、慌ててカグヤは上体を起こす。
少し高くなった視界で周囲を見渡せば、そこは確かにシグレさんの部屋で。
先程、ベッドから好きな人の―――シグレさんの匂いがしたのも、当然と言えばあまりにも当然のことなのだと。今更ながらに理解して、カグヤは何だか急に恥ずかしくなったような思いがした。
「どうぞ。ただの水ですが」
シグレさんが差し出したマグカップを両手で受け取ると、ひんやりとした感触が手のひらから伝わってきて。
中に入っている水を、一口だけ嚥下すると。火照った身体の内側から冷たい水が浸透してきて、何とも心地良かった。
「……冷たい」
「地下の冷蔵室に保管していましたからね。調合用の溶媒目的で冷やしていたものですが、今朝汲んだばかりの新鮮な水ですので、飲用しても大丈夫ですよ」
この家の地下には、以前にここを使っていた方が利用していたものと思われる、小さな冷蔵室がある。最小限の換気口と冷蔵用の導具を備えた暗いその地下室は、おそらく食料や飲料の保管場所として利用されていたものだろう。
備え付けの導具設備がそのまま利用可能だったこともあり、その部屋はいまシグレさんとユーリさんのお二人が、主に薬草素材などの保管場所として活用している。シノさんも食料品の保管場所として少し利用されているという話を聞いたことがあるけれど、生憎と〈鍛冶職人〉専門であるカグヤには縁がなく、まだその部屋には入ったことがなかった。
「調合用の……。私が頂いちゃって、大丈夫なんですか?」
「ええ、毎日沢山冷やしていますので。……ちなみにこれは、先程ユーリとナナキが取ってきて下さったものです。二人はカグヤに謝っていましたよ」
「謝る? 私にですか?」
「お風呂の中に無理に引き留めてしまって、ごめんなさい―――だそうです」
謝っていたという話を聞いて、カグヤは却って自分のほうこそが申し訳なくなる思いがした。
自分の身体が少なからずのぼせていることには気付いていたのに、それを無視して湯船の中に留まっていたのは、他ならぬカグヤ自身の意志に他ならないのだから。
その結果、意識を失うような失態を晒して。皆に迷惑を掛けてしまったことを、寧ろカグヤのほうこそ謝りたい気持ちで一杯だった。
「そういえば―――。シグレさんにも、済みません」
「え……? 何がでしょう?」
「お風呂に入る前に、約束しましたから……」
内風呂に向かう直前に、風呂のあとに時間を作って欲しいとシグレさんから言われていたというのに。気がつけば湯あたりで意識を失ってしまい、ご覧の有様である。
「―――ああ、そんなことですか。気にしないで下さい、別に急ぐようなことでもありませんので」
「ですが。シグレさんもこの指輪のこと、気になっているのですよね?」
「気になっているのは、事実ですけれどね」
シグレさんはそう言って、カグヤに向けて優しく微笑み掛けてくれると。
少しして、何かに気付いたかのように。唐突に苦笑気味になりながら、あはっと小さく声を漏らしてみせた。
「やはりカグヤのほうでも〝エーテル〟を視認できたことについては、その指輪が関係していると考えているのですね?」
「あ、はい。他に理由らしいものも思い当たりませんし……。シグレさんも、そう考えているのですね?」
「ええ。他に理由が思い当たりませんから」
カグヤと全く同じ根拠から、あっさりとシグレさんはそう言い切ってみせて。
それが何だか少し可笑しくて、カグヤも無意識のうちに笑顔になっていた。
「少し試してみたいことがありますので。体長が回復なさったら、少しお付き合い頂いても構いませんか?」
「はい、それは勿論です。―――あ、もう大丈夫ですので」
「……別に急ぎませんから、まだ休んでいてもいいのですよ?」
「いえ。もう充分に回復しましたし、頭痛もすっかり引きましたから」
そう告げて、カグヤはシグレさんのベッドを降りる。
身体を包んでいた温もりと匂いとを、少しだけ惜しくも感じたけれど。
「……そういえば、ひとつ疑問に思ったことがあるのですが」
「はい?」
「先程も言いました通り、カグヤをこの部屋まで抱きかかえて運んできたのはカエデなのですが。どうして隣のカグヤの部屋にでは無く、こちらの部屋に運んできたのでしょうね?」
シグレさんはそう言って、不思議そうに首を傾げてみせる。
その理由に思い当たるものがあるだけに、カグヤは少し苦笑気味になりながら。けれど心の裡では、小さな感謝をカエデに向けて捧げるのだった。
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