132. リフレイン
「ど、どういうことですか!? 兄様と、き、キス!?」
「―――ユーリ様、その話を詳しく」
ユーリさんの口から漏らされた衝撃の言葉に対して、カグヤが問いの言葉を返そうとするよりもずっと早く。ナナキさんとシノさんのお二人が身を乗り出すようにしながら、すぐにユーリさんの側へとそうした言葉をぶつけていた。
ユーリさんがシグレさんに対して、常にとても近しい立ち位置をキープしようとしていることはカグヤも察しているし、彼女がシグレさんに対して、決して小さくない〝特別な想い〟を抱いていることも理解してはいたけれど。
でも―――だからといって。まさか、既にキスをした経験があるだなんて思わなかったものだから。
「ゆ、ユーリさんは……。シグレさんと、キス、を、したことが……?」
無意識のうちに、微かに震える声になりながら。
ナナキさんとシノさんの二人に遅れて、カグヤがそう訊ねると。ユーリさんはゆっくりと首肯してみせた。
「……殆ど不意打ちみたいなものだけれど。したことは、ある」
「そ、そうなんですか……」
不意打ちということは、少なくともシグレさんのほうから求めたわけでは無いのだろう。合意の上のことでさえ、無いのかもしれない。
ユーリさんには申し訳ないけれど、それを聞いてカグヤは密かに、ほっと安堵の息をひとつ吐いた。
「でもユーリの身長って、私やカグヤより少し高い程度でしょう? あなたが多少背伸びをした所で、シグレから不意打ちのキスを奪えるとは思えないのだけれど」
「そ、それは確かに……」
ベルさんの告げた言葉に、思わずカグヤも納得させられてしまう。
この場で最も背が高いのはカエデで、彼女の身長はシグレさんよりもほんの少し低い程度で、殆ど変わらないと言っていい。シノさんとナナキさんがそれに続くけれど、二人ともカエデに比べれば10cm以上は身長差があり、そこには大きな隔たりがある。
そのシノさんとナナキさんよりも、ユーリさんは更に一回りは背が低い。確かにベルさんの指摘する通り、シグレさんとの身長差は背伸びなどで補える範疇とは思えなかった。
「……階段で、したの。少し前まで泊まってた宿屋の」
「なるほど、そういう場所であれば確かに可能かしら」
「段差で身長差を補ってのキスかー。ちょっとロマンチックで良い感じかもだね」
少し羨ましそうにカエデがそう呟く。
カグヤからすれば、ここに居る面子の中で身長的に誰よりもシグレさんに〝お似合い〟であるカエデのほうこそ羨ましかったりするのだけれど。
「そ、それで。兄様とのキスは、どうでした?」
「どう……?」
ナナキさんに問われて、ユーリさんは暫し首を傾げる。単に〝どう〟とだけ訊かれても、どのように答えたものか困っているのだろう。
しかし、何か思い当たるものがあったらしく。ユーリさんはやがて、ひとつ頷いてから漠然としたその問いに答えてみせた。
「……キス自体は別に何とも思わなかった。感触も印象に残るようなものでは無かったし。ただ……キスをした後の、顔を真っ赤にしたシグレはちょっと、可愛かった」
「シグレ様の赤面顔ですか。それは貴重ですね」
うんうん、と何度も頷いてみせるシノさん。
以前であれば共同浴場にて、今であれば自宅の露天風呂にて。一緒にお風呂に入る際などに、少し照れたようなシグレさんの表情を見ることはあるけれど、それでも顔を真っ赤にという程ではないから。そこまで狼狽したシグレさんの顔となると、シノさんの言う通り貴重かもしれない。
「……羨ましいわね。私も一度、そういうシグレを見てみたいものだけれど」
「殿方が狼狽しておられる姿というのは、可愛らしくて良いものですよ。ましてやその動揺が自分に向けられたものであれば尚更、格別というものです」
「へえ。シノにはシグレをそうさせた経験があるわけだ?」
「ええ」
ベルさんの問いに、シノさんは頷く。
「とはいえ、一度だけですけれどね」
「詳しく聞かせて欲しいわね?」
「構いませんが、それほど大したお話では……。単に私が、シグレ様のことを押し倒した経験があるというだけの話でして」
「押し倒っ……!?」
何でも無いことのように、シノさんは淡泊にそう言い放つ。
けれど勿論、その言葉はカグヤの心に充分な恐慌を引き起こすもので。横でぼんやりと聞き役に徹していたカグヤも、驚きの声を上げずにはいられなかった。
「お、押し倒すって―――充分に〝大した話〟だと思うけれど?」
「そうでもありません。その前日には、ナナキ様もされたことですし」
「……は?」
シノさんの言葉に、さすがのベルさんも言葉に詰まる。
「……え、ち、ちょっと待って。ナナキは、シグレの実の妹さんだよね?」
「妹であっても実の兄を男性として慕うことはありますわ。もちろん、思い余って押し倒してしまうようなことも」
「い、いや、それはそうかもしれないけど……」
ベルさんに続きカエデもまた、シグレさんのことを当然のように慕うと宣言する妹さんの言葉に、二の句が継げなくなった。
その妹さんの視線が、不意にカグヤのほうへと向けられる。
「―――ああ、ご安心下さいね、カグヤ様。私もシノも、兄様を押し倒したことがあるとは申しましても、それは文字通りベッドに押し倒した事があるというだけのこと。それ以上のことは何一つありませんので」
「そ、そうなのですか……」
「ええ。私もシノも誓って本心から兄様のことを愛しておりますが―――それ故に私にとってもシノにとっても兄様の言葉は絶対のもの。口頭で『ダメだよ』と諭されれば、それに逆らう真似などできませんから」
ナナキさんがそう笑顔で告げて、シノさんが頷く。
シグレさんの言葉は絶対―――そんなことさえ当然のように言えてしまうというのは。確かに本心から彼に対して特別な想いを抱いてでもいなければ、到底示せる筈も無いことかもしれなかった。
「そうそう、ひとつ誤解しないでおいて頂きたいのですが。私もシノも、カグヤ様が兄様のことをお慕いしておられるのでしたら、それを邪魔する意志は全くありませんので。それだけは承知しておいて頂けますと嬉しいですわ」
「え? ……そう、なのですか?」
シグレさんのことを誰より慕っていると、そう笑顔で宣言する妹さんの本心は。あるいは宣戦布告と同様の意味を孕んだものとばかり思っていたのだが。
「ええ、寧ろ心より応援申し上げたいぐらいですわ。兄様は朴念仁―――というわけでは無いのですが、少々臆病な所がありまして。何しろ私やシノが幾度となく想いを伝えても、決して手を出しては下さらなかったぐらいでして」
「本当は意外と、独占欲が強い方なのですけれどね」
「……独占欲? シグレが?」
シノさんが付け加えた言葉を聞いて、ベルさんが意外そうに首を傾げる。
その様子を見て、ふふっとナナキさんが優美に微笑んだ。
「ええ。そうですね……例えば指輪を頂いたカグヤ様などは、兄様が持つ独占欲の片鱗を、少しはご覧になったのではないですか?」
「そ、それは……!」
―――実は、本当の僕というのは、案外独占欲が強かったりしまして。
頭の中に、あの時のシグレさんの台詞が何度もリフレインする。
薬指に指輪を嵌めて下さる直前に、シグレさんが告げたその台詞は。今もカグヤの心の深い場所に灼き付いたまま、褪せることがない。
「あら、露骨な反応。どうやら思い当たる節がお有りのようですわね」
「あははっ。これは是が非にも、カグヤには指輪を貰った時のもっと詳しい話をして貰わないとだねー?」
「……ふええっ」
他の五人の視線が、一斉にカグヤのほうへと注がれてくる。
既に内風呂は充分過ぎるだけの時間堪能しているのだけれど。どうやら生憎とカグヤには、まだこの湯船の中から逃げ出すことが許されないらしかった。
お読み下さり、ありがとうございました。
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