129. 夏の終わり
(※8章は長くなるかもしれません。)
「……はあぁ」
〝エトランゼ〟の店内にて。重い足取りで地下の工房からのそのそと這い出てくるなり、カグヤは徐にひとり溜息を吐いた。
数日前から〈陽都ホミス〉は街全体がすっぽり雨雲に包まれ、雨期が来たことを露わに示していた。理由は知らないけれど、雨期は毎年違いなく夏の始まりと終わりの頃にやってくる。だから街が今年二度目の雨期に入ったことは〈イヴェリナ〉の夏の終わりを示すものであり、同時に秋の始まりを示すものでもあった。
秋の気配を纏わせた雨粒は充分に冷たく、既に気温もすっかり冷めてきたのか、屋外は無論のこと屋内であっても薄着の儘で過ごしていては少しだけ肌寒い。
そして、それは〈鍛冶職人〉であるカグヤにとって歓迎すべきことでもあった。金属を加工する際に火の扱いは欠かせないものであるし、とりわけ鍛造の時などは長時間に渡って火床の傍に縛られることになるからだ。
冬であれば炉の周囲の暑さを心地良く思う時も無いではないが、夏場は殆ど苦行と言っていい。その夏が終わったというのだから、これほど有難いことは無かった。
「工房が地下にあるというのも、考え物ですね……」
だというのに、カグヤの心は晴れない。
〝エトランゼ〟の地下に備え付けられた鍛冶場。せいぜい一人か二人ぐらいしか同時に利用出来ないほどの狭い空間には心を乱す余計な物が何一つ無く、けれど必要なものは総て手の届く範囲に備わっている。まだ使い始めて日が浅いにも関わらず、鍛冶作業に没頭出来るこの場所をカグヤは甚く気に入っていた。
涼しさが深まってきた今朝であれば、きっとより快適にこの鍛冶場を利用することが出来るだろう。そのように考えたカグヤは、期待を胸に今朝は早朝の内から鍛冶場に籠っていたのだが。―――結果から言えば、その考えは浅はかであったらしい。
火を扱う性質上か、鍛冶場は地下であるにも拘わらず換気がしっかりと考えられた造りになっているようで、狭い部屋の中でずっと火床を扱っていても息苦しさを感じることが全く無い。
しかし、換気が充分であると言うのはそれだけ外気との接点が多いということでもあるのだろう。外の湿った空気を充分に取り込んだ鍛冶場の中は、カグヤが使い始めて程なくするころには、あたかも蒸し風呂のような様相を呈したのだ。
ただ暑いだけの環境であれば我慢することにも慣れているカグヤではあったが、酷い蒸し暑さには堪え難いものがあった。じんわりと張り付くような湿気を帯びた服は不快感が強くなり、鎚を持つ手が幾度も滑りそうになっては肝を冷やす羽目になる。
(……雨の日は、この鍛冶場は使わない方がいいですね)
結局の所、カグヤはそう結論づけざるを得なかった。
おそらく以前この店を使っていた方も、全く同じ結論へ達していたに違いない。
とはいえ店の真下に鍛冶場が備わっているというのは、実際に使ってみるとその便利さと有難さもまた良く判るものでもある。雨が降ってさえ居なければ、非常に価値が高い場所であることに変わりは無かった。
「あとで鍛冶ギルドに行って、続きをすることにしましょう……」
鍛冶ギルドの利用料はかなり先の分まで納めてあるから、そこに併設されている工房もカグヤは自由に利用することができる。今日のような酷い雨の日には、そちらを利用した方が良いのだろう。
とはいえ鍛冶ギルドの工房はいつ行っても何人かの利用者がいるし、しかもカグヤは殆どの利用者と既に顔なじみでもあって。そのせいで作業もそこそこに誰かと歓談に興じてしまうようなことも少なくなかったりするものだから、ギルドはギルドで問題が無いわけでもないのだが。
(取り敢えずは、一度お風呂に入って着替えよう)
手持ちの道具と素材を全部〈インベントリ〉の中へと押し込み、カグヤは手早く施錠だけを済ませてから〝エトランゼ〟を後にした。
雨脚はなかなか激しいけれど、大きな和傘はカグヤの身体が全く濡れないだけの充分な空間を作ってくれる。
(―――そういえば)
広すぎる傘の中に身を包みながら、不意にカグヤは思う。
いつかの日に、シグレさんと一緒にこの傘の中を歩いたのは―――。
◇
「あら、カグヤ様。お帰りなさいませ」
「ただいまです、シノさん」
暮らすことにも少し慣れ始めた新しい自宅に帰ると。ちょうど玄関口にいらしたシノさんが、そう声を掛けて迎えてくれる。
家に帰った時に誰かが迎えてくれる、それが意外な程に嬉しいことであるのだと。部屋が余るので良かったら―――と、シグレさんがこの家での共同生活に誘って下さるまでは、すっかりカグヤも忘れていた感覚だった。
「……傘をお持ちの割には、随分と濡れていらっしゃるようですが?」
「あ、これは〝エトランゼ〟の鍛冶場でですね……」
シノさんの疑問も尤もであるので、カグヤが簡単に事の顛末を話すと。ふむ、とシノさんは納得したように目を閉じて頷いてみせた。
「地下に専用の工房があるというのは、私から見てもちょっと羨ましいことだったのですが。換気が充分であるばかりにそういった欠陥があるとは、盲点でしたね」
「雨の日に使わなければいいだけの話ですから、きっと便利なのですけれどね」
「そうですね……。私も〈縫製職人〉としてギルドの工房を何度も利用しておりますから、あの場所の便利さも煩わしさも理解しているつもりです」
〈鍛冶〉と〈縫製〉、〈木工〉と〈皮革〉の4種の生産職は、天恵を有する者が最も多いと言われている。それだけにギルド内に設置されている工房は、いつ利用しても他に何人もの利用者がいるのが常だった。
他に人が居ても気にしなければいいだけの話ではあるのだが、施設の利用を繰り返し、顔見知りが増えてくるとなかなかそういう訳にもいかなくなるのだ。
同業者から得られる情報には有益なものも多いから、ギルドでの知り合いが増えるのは一概に悪いことばかりではない。しかし何の生産作業をしている最中であれ、心を乱す存在は作業に集中する上では害悪になり得る。
カグヤはその外見の幼さ故にかギルドに行けば周囲の同業者から話しかけられる機会が多いし、シノさんは服装の露骨な特徴―――つまり工房に於けるメイド服の異端性が故に、関心を寄せてくる相手には事欠かないだろう。そう言う意味でも公共性の高い工房の利点と欠点を、二人は誰より熟知しているのかも知れなかった。
「……おっと、申し訳ありません。玄関でお引き留めして話すことではありませんでしたね。雨の中をお帰りになって、身体も冷えていることでしょう。何か温かい飲み物でもお入れしましょうか?」
「いえ、お気持ちだけ頂いておきます。見ての通り服も濡れてしまいましたので、着替えついでに先ずは一度お風呂に入って来ようかと」
「なるほど。そのほうが宜しいかもしれませんね」
シノさんと別れて二階の自室へと移動し、湯浴みに必要なものと着替えだけを籠の中に手早く詰め込んでから一階へと戻る。
階段を降りた先の玄関に、もうシノさんの姿は無かった。
今日みたいな雨の日には露天風呂が使えないから、居間を通り抜けた先の内風呂へと向かう。外の露天と同じく温泉が引いてあるので、いつでも温かい湯で満たされた湯船が利用出来るのは有難い限りだった。。
「カグヤ、お帰りなさい」
話し声ひとつ無い静かな居間を、誰も居ないかと思って通り抜けようとすると、不意に掛けられた声があってカグヤは驚く。
その声が誰のものかすぐに判るから、二重の意味でもびっくりした。
「し、シグレさん。今日はお出かけされていないのですね」
北門を通行出来なくなり、いつもの採取行に出掛けることができなくなってからも。シグレさんは毎日朝の早い内から様々な所へ出掛けているのだと、ベルさんから聞いてカグヤは知っていた。
ベルさんはシグレさんと離れることができないから、シグレさんがどこへ出掛ける際にも必ず同行することになる。その彼女が言うのだから、間違い無かった。
「ええ、今日は午後に人と会う約束がありますし、それに少し済ませておきたい作業も有りましたので……。カグヤは今からお風呂ですか?」
「ちょっと濡れてしまいましたので……。身体が冷えた時などに、すぐに漬かれるお風呂があるというのは有難いですよね」
「そうですね。特に、これからの季節は有難みを感じることが多そうです」
うんうん、とシグレさんも同調して頷く。
確かに、冬場を先に控えている今、身体が寒くなった時にいつでも利用出来る湯があるというのは、大変に便利なことなのは間違い無いだろう。
入浴に限らず、手などを洗う際にも冷たい水ではなく温かい湯を利用することができるし、温泉の中に容器ごと浸した飲み物はいつでも温かい。それは冬の最中に於いては、決して小さくない贅沢でさえある筈だった。
「そういうことでしたら、ゆっくりと湯を楽しんできて下さい。最近は空気も冷たくなってきたようですし、風邪でも引いては大変ですから」
「はい、温泉は気持ちいいですしね。えっと、ところで……シグレさんは何の作業をしていらっしゃる最中なのでしょうか? 何か、ぼんやりと光る糸のようなものを操作されているようですが」
「……えっ?」
最初にカグヤへ言葉を掛けた時以外は、ずっと作業に集中しておられたシグレさんの顔が、小さくない驚きの表情と共にカグヤの側へと向けられる。
赤と青、それから緑と紫。ぼんやりと四色の淡い光を発する糸を、シグレさんは居間のテーブルの上で懐剣ほどの短いナイフに巻き付ける作業をしているように見える。けれどそれが何の為の作業であるのかは、カグヤには皆目見当が付かなかった。
「この〝糸〟が、カグヤには見えているのですか?」
「え? あ、はい。見えますけれど……」
「……もしかして、糸が何種類あるのかも見分けが付いたりしますか?」
「四種類ですよね? 赤と紫の糸が、少し区別しづらいですけれど」
ふむ、とシグレさんは少し考え込むような素振りをしてみせる。
視線を僅かに下に向けながら、唇の下に人差し指の中ほどを宛がうその様子が。何かを思案する際にみせるシグレさん独自の癖であることをカグヤは知っていた。
「カグヤ。すみませんが、お風呂の後に少し時間を頂いても構いませんか?」
「もちろん全然大丈夫ですが……。それは、糸が見えることと何か関係が?」
「ええ。正直を申し上げて、意外でしたので」
カグヤの問いに、シグレさんはすぐに頷いて答える。
「カグヤが〝糸〟と仰ったこれですが、実は〝エーテル〟という物体でして」
「エーテル……?」
「はい。本来なら〈錬金術師〉の天恵が無ければ、決して見えないものであると。―――そのように、錬金ギルドで自分に手解きをして下さった方からは教わっています」
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