116. 新居
「勘弁して下さいよ……」
「いや、すまぬすまぬ。何となく旦那様のことを少しばかり、からかってやらねばならぬような気になってな。くくっ」
バロック商会を出て、借り受ける邸宅に向かう道すがら。
項垂れながらシグレが告げた言葉に、心から愉快そうな表情と声色で応えるアヤメを見て、尚更シグレの落胆は深いものになる。あの手の冗談に対しては昔からナナキやシノは過剰反応する部分があり、逐一その誤解を解くのもなかなかに大変なのだ。
「ところで、アヤメも一緒に来られるのですか?」
「うむ。折角の機会であるし、一度は旦那様の新居とやらを見てみたい気もするしのう。それに、昨日頂戴したプレゼントの礼をしたいと思ってな」
「そんなの、気にしなくて構わないのですが」
プレゼントというのは〝杖益会〟の会場内にてアヤメに求められて贈った、桜の蒔絵があしらわれた扇子のことだろう。
別段高いものでも無かったし、あの場の雰囲気から思えば男が女性に贈り物のひとつもしないほうが、余程問題があるように思える。
わざわざ彼女のほうから安価な贈り物を指定してくれたことには、寧ろシグレにとっては感謝すべきことであるように感じていた。
「強請り物をしておきながら礼のひとつもせぬというのは、さすがに些か寝覚めが悪いというもの。わらわのお古の品で悪いが、受け取ってくれると有難い」
「そういうことであれば、有難く頂戴致します。アヤメの〝お古〟ということは、何か〈錬金〉に使用する道具なのでしょうか?」
「―――うむ、さすがは旦那様。察しがよいのう」
察しも何も、自分とアヤメとで共通する要素といえば、結局の所は〈錬金〉ぐらいのものなので、考えるまでもないことなのだが。
とはいえ、彼女に教えて貰ったことを元にこれから先、時間を掛けて色々と試してみたいとは思っていた矢先でもあり。その為に利用できる道具を頂けるということなら、丁度有難い所でもあった。
「ただ、鉄製でちと重いものでな。この場にて〈インベントリ〉から出して旦那様に手渡す、というのは些か憚られるものでもある。かといってバロック商会の中で手渡して、ゼミスを置いてけぼりにして錬金話に花を咲かせるのは、もっと憚られてな……。そういうわけで、旦那様の新居にちとお邪魔させて貰えると助かる」
「判りました。わざわざご足労をお願いして、すみません」
「なんの。わらわが勝手に渡したいだけなのじゃから、気にすることはない」
アヤメのそうした細やかな好意が嬉しく、有難い。
〈陽都ホミス〉に於いて、半ば独占状態にある霊薬店の看板を掲げる彼女にとって、ともすればシグレの店は迷惑な存在であるかもしれないのに。そんなことは些かも気にしないといった様子で、優しく気遣ってくれるのだから有難い。
昨日の〝杖益会〟の中に於いても、同行する傍らで常に彼女はシグレのことを気に掛け、心を配ってくれていたように思う。彼女と共に過ごした時間はまだまだ僅かでありながらも、既に沢山の恩義を受けてしまっているな、とシグレには改めて意識された。
「―――にしても、自宅か。考えたことも無かったが、正直羨ましくはあるな」
「そうですか?」
「うむ。わらわは自分の店に住んでおるからのう。居住スペースを別に取れれば、それだけ店舗内に倉庫を広く取ることができよう」
「……それと同じことを、カグヤも言ってましたよ」
『鉄華』の二階に住んでいるカグヤも、居住スペースを空ければその分を倉庫に使えると、シグレが誘った際に嬉しそうに快諾してくれたのを覚えている。
宿住まいのカエデやユウジなどと共に、モルクさんから借り受ける邸宅へ住まないか誘った際。シグレは内心で、おそらくカグヤには断られるだろうと思っていただけに、彼女のその返答は意外なものでもあった。
「住む場所と店が同一というのは、存外面倒が多かったりもするものでな」
「そういうものですか……」
経験者が言うのだから、案外そういうものなのかもしれない。
「―――ああ、そうだ。ベル」
「うん? 何かしら」
先程〝杖益会〟のことを振り返ったことで、会場内で購ったひとつのアイテムのことをシグレは思い出し、それを〈ストレージ〉の中から取り出す。
「差し上げます。これでしたら、大鎌と一緒に使っても邪魔にはならないでしょうし」
「……いいの? 多分これ、安いものでは無いでしょう?」
「自分用に買った物ですが、ベルが使った方が活かせると思いますから」
透明な石で作られた、細い腕輪。
〝術師の腕輪〟という大層な名が冠されたその腕輪を身につけていれば、装備者が杖を手に持っていなくても、杖を発動体として要求するスペルを行使することができる。
〈伝承術師〉のスペルは行使するために必ず杖を必要とするし、〈秘術師〉のスペルの中にも杖装備を要求するものは少なからずある。
今朝方、ペルテバル大聖堂にて天恵の振り直しを行った際に、どちらの天恵も取得したベルにとっては自分が使うよりも遙かに有用なアイテムであることは間違い無い。
ベルの指摘した通り決して安いものではないが。そこまで高いものでもないし、ベルが有効利用してくれるのであれば彼女に贈るのは全く構わない。
「―――ありがとう。大切にするわ」
「いえ。大切にしなくて結構ですから、そのぶん使ってやって下さい」
特別な装飾が施されているわけではないが、透明な石で造られている腕輪は装身具としても綺麗ではあるだろう。
けれど、用することで正しい価値が生じるものである以上。大切にするよりも、普段遣いと共に精々酷使してくれた方が贈る側としては嬉しくもあるのだ。
「ん……。判ったわ、そうする」
ベルの華奢な腕に、細い腕輪が通される。
陽光を内包した透明な腕輪は、元々彼女の腕に収まっていることが自然であるかのように、穏やかに光を湛えていた。
◇
「うっわ、ひっろーい!」
邸宅のエントランス。シグレが鍵を開けたあと、靴を脱いで真っ先に家の中に飛び込み、そう感嘆の声を上げたのはカエデだった。
このクラスの家ともなると、実際エントランスからしてかなりの広さになっている。玄関を入った脇に設置されている靴箱は、シグレが頼んでモルクさんに設置して貰ったものだった。
元々は無論土足で入る家であったのだが、改装と一緒にかなり念入りな掃除をしてくれたのか、家の中は非常に清潔であるように見えた。これなら改めて掃除をするまでもなく、靴を脱いで入っても問題無いだろう。
「大掃除が要らなそうなのは、少し残念ですね」
シグレの後ろで、シノが小さくそう漏らす。
初めて家を利用する日の為に、彼女が色々と掃除用具を買い揃えていたのを知っているだけに、これにはシグレも苦笑するしか無い。
「大勢で住むのだから、すぐに定期的な掃除が必要になりますよ」
「……そうですね。私の腕は、そちらで振るうことに致します」
現実世界に於いて、入院生活をしているシグレは自分の実家に帰る機会こそ無いものの、シノがいかに念入りに家屋を管理してくれているかはナナキから聞かされて良く知っている。
率先してメイドの格好をしているとはいえ、彼女には出来ればこちらの世界では、元々の関係を忘れて好きに生きて欲しいという気持ちもあるが。邸宅を借りることについてシノに話した折、何よりも先ずその清掃と管理に意欲を燃やしていた彼女から、それを奪うことはシグレにさえ躊躇われることだった。
「ごめんね、面倒を掛けて」
「いえ、これぞメイドの本分というもの。どうぞ私にお任せ下さいませ」
自由にしていいと言われるより、頼られる方が余程嬉しそうな顔をするシノ。
せめてその彼女の優しさに甘えすぎず、自分にも出来る限りの手伝いは心懸けるようにしたい。―――折角、こちらの世界では自由な身体があるのだから。
「……ところで、皆様は自分の部屋を求めに既に行かれた様子ですが。シグレ様はご自身の部屋を確保されなくて宜しいのですか?」
「自分は余った部屋で構わないよ」
部屋数自体は充分にあるから、部屋が余らないということは無い。
それに〈ストレージ〉があるから狭い部屋でも物の置き場所に困ると言うことは無いし、ベッドひとつさえあれば満足できる生活には慣れている。
あとは病院のベッドと同じように、ベッドの上で書き物が出来る小さなテーブルがあれば言うことは無いのだが―――〈木工〉が得意なユウジに頼めば、作って貰うことができるだろうか。
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