115. 旦那様
『バンガード』での昼食のあとには、一階の窓口にてクローネさんにベルのギルドカードを作成をお願いした。身分証を兼ねるギルドカードがあれば街の門を潜り抜けるのは随分と容易になるから、ここ数日は行けずにいる朝からの採取行を明日にでも再開するために、是非とも今日のうちに作成しておきたかったのだ。
カード発行までの暫しの待ち時間を、久々に依頼票の張られた掲示板を眺めながら過ごして。出来たてのギルドカードを手にしたベルと共に、皆で一緒に冒険者ギルドを出て―――モルクさんからの念話が届いたのは、ちょうどそんな頃のことだった。
念話の内容は、邸宅と店舗の改装が昨日の時点で完了したという連絡と、両方の鍵を『バロック商会』のゼミスさんに預けてあるから受け取って欲しいというものだった。改装作業には一月も掛からないという話だったが、どうやら本当に一ヶ月と掛からずに終わってしまったらしい。
どちらの建物にもシグレは一度下見に行っているが、時折には多少の手入れや掃除が為された形跡こそあったものの、人の利用が長らく無かった建物はかなり傷んでいるように見えたものだが。その修繕作業がこの僅かな期間の内に終わったというのだから、職人の方の腕前には感嘆するばかりだ。
「モルクさんから、家とお店の改装が完了したとのことです」
「おおー! 早く見に行きたいね、温泉付きなんでしょ?」
「ええ。家自体も大きいですが、そちらもかなり大きいですよ」
シグレが借り受ける邸宅は、モルクさん自身が住んでいる自宅とほぼ同じだけの広さがある。いかにも高級地区といった様相の場所に建てられている邸宅であるから、周囲の家々に比べれば然程大きな建物ではないが。シグレ達が全員それぞれ個室を有しても、まだ部屋が余る程度には充分に大きい。
また、温泉のほうも最近共同浴場で借りている一番大きな露天風呂の部屋より、さらに一回りか二回りは大きいと思えるほどの充分な面積がある。ベルも加わったことでより人数が増したシグレ達一行に加え、黒鉄や八咫が一緒に入っても全く問題は無いだろう。
「宜しければ、これから行ってみますか? 冒険者ギルドから結構近いですが」
「わ、行く行く! いつから泊まっていいの?」
「合鍵を多めに作って頂けるよう事前にモルクさんにお願いしてありますし、たぶん今日からでも大丈夫だと思います。ただ、寝具などを購入する必要がありますし……部屋によっては、まず寝台などから購わなければならないと思いますが」
人が住まなかった期間が長いために出る傷みというものは、家屋だけでなく設置された家具類にまで及ぶだろう。
下見に行った時点では、寝台や棚、机や椅子、鏡台などといった多くの家具が邸宅内の各部屋には設置されていたし、置かれている家具類自由にしてくれて構わないという許可もモルクさんから得てはいるが。家屋改装の際に傷みが酷い家具類は処分してしまうという話だったから、現時点でどれだけの家具が残されているのかは、実際に見てみないことにはシグレにも判らなかった。
「そっかあ……。ベッドから買うとなると、さすがにちょっと大変だね」
「ま、その時ゃ俺が作ってやるよ。木材系の素材は〈ストレージ〉にたんまり溜め込んでるしな」
カエデの呟きに、そう応えたのはユウジだった。
以前、現実世界でのDIY趣味が高じて〈木工職人〉の生産職を取っているのだとユウジは教えてくれたことがあるが。好きでやっているせいか、その生産レベルも決して低いものではない。
「いいねー、そういうので頼れる男の人ってのは、とてもカッコいいと思う。折角天恵は持ってるんだし、シグレも〈木工〉に手を出したりしてみれば?」
「……興味はあるんですけれどね」
先程バレてしまった〈付与術士〉による付与の件に加え、日頃からずっと続けている〈錬金術師〉と〈薬師〉の生産。更には、借りる予定の店舗のほうに炉が付属した工房があることもあり、カグヤから〈鍛冶職人〉についても少し手解きをして貰えることになっている。
霊薬や薬と、ある意味で傾向が近い生産品を作り出すことが可能な〈調理師〉にも少なからず興味はあるし……好きで全種類の生産天恵を揃えている身とはいえ、とてもじゃないが総てに食指を動かしていては時間が幾らあっても足りはしない。
睡眠時間を利用していることで一般的なオンラインゲームとは異なり、望むまま存分に時間を費やすことができるこの〈イヴェリナ〉の世界でさえそう思うぐらいなのだから。我ながら何とも悩ましく、そして贅沢な話だと思えた。
◇
「こんにちは、ゼミスさん」
「―――あら、シグレ様」
皆で大挙して押しかけたバロック商会。
中に入ってすぐにゼミスさんと軽く挨拶を交わすと。けれどその室内にはゼミスさんの他に、既に見知った先客の姿があった。
「アヤメ……ですよね?」
「なんじゃ、旦那様よ? 昨日の今日でわらわの顔、見忘れたかの?」
「いえ、そうではありませんが、髪が」
昨日とは異なり左右で簡単にだけ纏められたアヤメの髪。その髪色は、シグレが覚えている彼女のものではなかった。昨日見た時にはもっと、少し和の趣が入った落ち着いたドレスが良く似合う、少しだけ紫を帯びた黒髪をしていた筈だが。
しかし、いまシグレの目の前に居るアヤメの髪色は、記憶の中とは真逆の印象の。澄んだ白をベースに僅かなブルーを淡く溶け込ませたような、そんな透き通るかのように美し色味を湛えていた。外に出て陽光を受ければ、たちまち煌びやかに光を纏いそうな―――。
「ああ―――。社交場で徒に目立つのは、わらわの本意では無いからのう。昨日はなるべく地味な色合いにしておっただけで、こちらがわらわの本来の髪の色じゃな」
「なるほど……。全く気付きませんでしたが、染めていらしたのですか?」
「旦那様が知らぬのも無理はないが。わらわ達のような〝吸血種〟というのは、やろうと思えば髪の色を変えることぐらいは造作もない。少しお腹が空くので、あまり好きこのんでやりたいとは思わぬがのう」
シグレが隣に居たベルのほうを見ると、彼女もすぐに首肯してみせる。
するとベルのこの桃色の髪も、やろうと思えば変えることができるのか。
「……なるほど、勉強になりました。アヤメは今日はゼミスさんに用事で?」
「うむ、ゼミスに衣装を返しにな。ドレスなど、持っていてもどうせ〝杖益会〟の時ぐらいしか着る機会などありはせぬ。なれば、その都度ごとに借りて済ますほうが賢いというものであろ? 賃借の請求書も、わらわを〝杖益会〟に誘うモルクの奴に押しつけてやれるしのう」
そういえばバロック商会では食料品の他に、衣料品や生活用品なども扱っているという説明を最初の時に受けた気がする。
カグヤ以上に背の低いアヤメに合うドレスというのは、市場で探してもなかなか見つけられないかもしれないが。ひとつの専門としてその手の物を扱っているゼミスさんであれば、都合するのも難しくは無いだろう。
「ドレスを身に纏ったわらわは、可憐であったろ?」
「ええ。アヤメの魅力を引き立てていて、大変綺麗でした」
「……旦那様の場合、世辞の意識もなく素でそう口にするから恐ろしいのう」
わずかに頬に朱を差しながら、呆れたような語調でアヤメはそう口にする。
実際、隣に立つ自分を気恥ずかしく思うぐらいに、昨晩のアヤメは綺麗だった。
「……あの、アヤメ様。私はシノと申しますが、ひとつ質問をしても?」
少し後ろに控えていたシノが、一歩前に出ながらアヤメにそう告げる。
昨日アヤメに同行したシグレとベル、あとはカグヤとゼミスさんを除けば、他はシノを含めた全員がアヤメとは初対面の筈だった。
「ん、なんじゃ? わらわに答えられることなら構わぬが」
「その〝旦那様〟というのは、何で御座いますか?」
―――ああ。
昨日一日を通して、すっかりアヤメの口にする〝旦那様〟という言葉に慣れきってしまっていたシグレは、最早そう呼ばれることを何の抵抗もなく受け容れてしまっていたけれど。
ふと今更ながら気付いて周囲を見渡せば。シノもナナキも、カグヤもユーリも、そしてアヤメの隣のゼミスさんまでもが、どこか訝しげな視線をシグレのほうへと向けてきていた。
例外なのは、既にアヤメがシグレのことをそう呼称すると知っているベルと、他にはユウジぐらいで―――。
……いや、ユウジは何か考え事をしているのか、ぼうっとした様子で。そもそもシグレやアヤメのほうなど何も気にせずに、どこか別の方を見ているようだった。
「ふむ、それに答えるのは吝かでないが。だがのう、シノ殿」
「はい」
「女が殿方を〝旦那様〟と呼び慕う理由など、わざわざ言葉にして語るというのは些か野暮というものではないかの? くふふっ」
……うん。
アヤメが事情を説明してくれることを期待していたけれど。
彼女の性格を思えば、面白がってそう答えるのは、予想できたことだった。
「―――し、シグレさん、少しお話があります!」
「―――兄様? 私も少々、訊きたいことがございますわ」
左腕と右腕を、それぞれカグヤとナナキに犇と握り締められて。
二人が腕を掴みながら、笑顔の筈なのに不思議と少し怖い雰囲気を纏わせているその表情を、シグレは真っ直ぐに見ることもできない儘に。アヤメが膨らませた誤解を解くためにどう言葉を並べれば良いものか、難解な思案に回らない頭を巡らせるのだった。
………。
何か、以前にもこんな状況、あったような気が……。
お読み下さり、ありがとうございました。
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