110. 名前
「―――お待ちを、シグレ様」
まだまだ続くと思われる、オークションの会場となっている広間をアヤメと共に二人抜け出すと。すぐにシグレは、背後から掛けられきた声によって引き留められる。
そこには、モルクさんの妻であるメノアさんの姿があった。
「メノアさん……?」
「私と夫は、今晩は〈フェロン〉の友人と共に過ごすことに致します。マックに念話を入れて宮殿の前に馬車を着けさせておきますので、本日のうちに三人で〈ホミス〉までお帰りになることをお勧めしますわ」
「ああ―――」
シグレ達が乗せて貰ってきた馬車は定員が四人乗りのものであり、御者台にもマックさん以外に誰かが座れるほどのスペースは無い。累奴の子を買ったことにより、全員で一度に帰ることはできなくなってしまっているのだ。
そんなことにさえ頭が回らないでいた短慮な自分に、今更ながらシグレは酷く恥じ入る思いがした。
「……申し訳ありません。お二人にまで、ご迷惑をお掛けしてしまって」
「構いませんわ。あの子を放っておけない気持ちなら、私にも理解できます」
それに、とメノアさんは続ける。
「ちょうど〈フェロン〉の知己を誘うだけの、手土産となる品も主人は落札しておりますからね。飲みの相手を誘う都合が出来て、寧ろ主人は喜んでいることでしょう」
「……過分なご配慮を、感謝致します」
「気になさる必要はありませんわ。夫があなたに色々とご迷惑を掛けていることも、私はちゃんと承知しておりますからね。……色々と奔放で身勝手な夫ではありますが、これからもよろしくお願い致しますわ」
「それは、こちらこそ」
頭を下げられて、慌ててシグレのほうからも頭を下げる。
モルクさんの紹介によればメノアさんは元騎士とのことで、武芸にもかなり長けるという話だったが。こうして話している分には、随分と貞淑な女性としかシグレには見えなかった。
「累奴の子を迎えに行かれるのでしたら、先に展示即売の会場でドレスなどを一着購入して行かれるのが宜しいでしょう。……あの扇情的な格好の儘で連れ出すのは、些か衆目を集めすぎるような気が致しますわ」
「……仰る通りです。そうすることに致します」
確かに、肌の露出部分が多すぎるあの格好のままで連れ回すのは、些か問題が有り過ぎるだろう。あまり待たせるのも良くない気はするが、先に購入してから向かう方が適切というものだ。
ドレスのサイズは隣を歩くアヤメに見立てて貰えば大丈夫だろう。ステージ上の少女はアヤメよりも多少は背が高いようにも見えたが、同じドレスが着回せないほどの差では無い筈だ。
◇
展示即売側の広間に戻り、手早くアヤメに選んで貰ったドレスを一着購ったあと。衛兵の方にオークション商品の受け取り場所まで案内して頂き、そちらで累奴の管理官だと名乗る女性の方に落札価格である16万gitaを支払うことで少女を譲り受けた。
また、管理官の女性から促されるままに、シグレは少女が付けている〝累奴の首輪〟へ主人としての登録を済ませる。その際に管理官の方からは、累奴を管理するにあたっての注意事項のようなものを幾つか説明して貰うことができた。
少女は相変わらず、どこか繕ったような無表情を浮かべてこそ居たものの、自らの主人となるシグレの姿を見て少なからず安堵しているようにも見受けられた。―――しばしば妹から、緊張感が無い顔だと揶揄されるだけのことは有り、きっと自分が厳しい人間であるようには見えないからだろうか。
実際、金で購ったとはいえ少女のことを手荒く扱うつもりは微塵も無いので、少しでも安心してくれるのならそのほうがいい。手渡したドレスに別室で着替えて貰ってから、少女を伴いそそくさと宮殿を出て、マックさんが入口前に着けて下さっていた馬車に乗り込む。
半ば早足気味の退散とはいえ、別にやましい所があるわけではないのだが。オークションが終われば広間からは参加者が溢れ出すことになるだろうし、そうした人の中には薄桃色の髪に特徴のある、彼女のことについて気付く人も出てくるだろう。
色々と面倒が生じる可能性もあるし、オークションが終了を迎える前に会場を出てしまう方が良い―――そのように、アヤメが助言をしてくれていたのだ。
「なんだか、慌ただしくてごめんね?」
オークション自体もそうだが、自身の望まぬ騒がしさの中に身を置くことを強いられて続けてきたであろう彼女にとって、そうしたことは大きなストレスにもなっているだろう。馬車の中、少女の対面からシグレがそう言葉を掛けると、けれど彼女はどこか毅然とした口調でそれに応えた。
「私があの場で好奇の目に晒されぬよう、配慮してくれたのでしょう? このドレスだって、私がこれ以上恥をかかないで済むよう、気を回してくれたものだということぐらい判るわ。―――だったら、こちらから感謝こそすれ、謝られることでは無いと思うのだけれど」
「……ほほう。なかなか気丈な娘であるようじゃな」
「あっ……。ごめんなさい。そうね、今のは自分を買ってくれた主人に対する言葉遣いでは無かったわよね」
アヤメに指摘され、口元を抑えるようにしながら狼狽してみせる少女。
どこか強気な意志が見える口調は、確かに〝奴隷〟のそれらしいものでは無いのかも知れないが。けれど、シグレにとっては好感が持てるものだった。
「構いません。自分はあなたを、奴隷扱いするつもりはありませんから」
「……え?」
「ですから、口調も今のまま変えなくて結構です。おそらく、それが〝素〟なのですよね? でしたら是非、そのままで居て下さい」
「は、はあ……」
呆気に取られたような表情で、まじまじと見つめ返してくる少女。
彼女を不安にさせてしまわないよう、シグレはただ静かに言葉を告げる。
「自分はあなたに労働を強いたり、何かを求めたりすることはしません。仮にそういったことがあっても、嫌であれば断って下さって結構です。……もう少し後に店を開く予定があるので、そちらを手伝って頂けると嬉しくはあるのですが。嫌でしたら拒否してくれて構いませんし、もし働いて頂けるなら給料は出します」
「つまり……累奴が財産を持つことを、認めるの?」
「―――? それは、勿論です。ああ、生活の面倒などは自分が見ますから、働かずに過ごして下さっても構いませんし、働く場合でも生活費は自分が出すと思って下さい」
少女は首を傾げながら、漏らすように小声で色々と呟いてみせる。
小さなその声では内容こそ判らなかったが。綺麗な声だな、とは思った。
「良く判らないのだけれど……つまり私は、あなたの伽の相手さえ果たせば良いということなのかしら?」
「それも必要有りません。女性なのですから、そこは大事にして下さい」
「ええー……」
うなだれるように、がくっと肩を落とす少女。
少女のその反応の意図が判らず、シグレもまた心の中で首を傾げる。
「色々と未成熟だけど、一応これでも女ですから。買われた以上は、男に組み敷かれる日々ぐらいは覚悟していたのだけれど……。だったらあなた、一体何の為に私を買ったの? 何もしないって約束してくれるのは、本来であれば有難いこと―――なんだろうけど。押し倒す価値も無いって言われては、今後の自分がどう在ればいいのか、私自身わからなくなりそうよ……」
「くくっ。そんなことは考えても無駄じゃよ。旦那様は、なんぞ見返りを求めて累奴を購入したわけでは無いじゃろうからのう」
「……そうなの?」
確かに、見返りなど初めから求めるつもりもなかった。
「まさか競売に人が掛けられるとは思ってもいませんでしたので……。ただ、偶々自分にはあなたを自由に出来るだけのお金が有りましたから。自分の正直な意志に従ってあなたを保護したまでで、他に目的があってそうしたわけでは無いです」
「……なるほど。競売に掛けられる女が憐れに見えたから、ということかしら?」
「気を悪くされましたら、すみません」
目の前の少女に、シグレは頭を下げる。
そう思われるのを彼女が不快に思うのもまた、当然のことだと思えたからだ。
「別に謝ることじゃないわよ。……金で購われる他に無くなった女なんて、憐れな存在以外の何物でも無いしね。あなたが私に、最早望むべくも無い自由を与えてくれると言うのなら、感謝しないといけないわね」
「本当は首輪も外して、ちゃんと自由にしてあげられると良かったのですが……」
「記憶を消されているせいで、もう自分自身でも判らないけれど……ここまで身を落とすだけの罪を、きっと私は犯しているのでしょうからね。さすがに、それは許されることではないわ」
こんなに小さな少女が、一体どんな罪を犯したというのか。
それはシグレが管理官の女性に訊いても、教えて貰うことは叶わなかった。
「―――私を買ってくれて、ありがとう」
少女は、ぺこりとこちらに向かって頭を下げる。
「これから当分、あなたの許でお世話になります。―――ねえ、あなたと奥方様の名前を教えて貰っても構わないかしら?」
「……奥ッ!?」
少女の言葉に、シグレの隣でアヤメが激しく狼狽する。
アヤメのその驚きようを見て、少女がきょとんとした表情で当惑していた。
「自分とアヤメは、今日初めて知り合ったばかりですので」
「そう……なの? でも、さっきあなたのことを〝旦那様〟って」
「アヤメからはそう呼ばれていますが、違います」
「……ふうん? 変わってるのね?」
くすくす、と可愛らしい声で少女は小さく笑う。
「自分の名前は、シグレといいます。よろしくお願いします」
「シグレ様に、アヤメ様ね……。うん、覚えたわ」
「いえ、自分に〝様〟は要りません。気軽に呼び捨てて下さって、結構ですよ」
「そう? ―――判ったわ、シグレがそう言うなら、そうする」
同じ馬車の中で向き合う、穏やかに笑顔を浮かべた少女。
その笑顔はステージ上に見たような、偽物の表情では無いように見えた。
「私を買ってくれたシグレに、最初のお願いをしてもいいかしら?」
「ええ、自分にできることでしたら」
すぐに頷いて答えたシグレに、顔を綻ばせる少女。
真っ直ぐに見据えて、些かも逸らされない視線が。少しだけ気恥ずかしい。
「―――どうか私に、新しい名前を頂戴?」
少女の望むことには、自分のできる範囲内で大抵の事には応じるつもりだったシグレではあったものの。
斯くして彼女の口から最初に望まれた言葉は―――使い魔の名前ひとつ付ける際にも大いに頭を悩ませ、今後新しく開く店の名前に至ってはまだ全く決めかねているようなシグレにとって、どうやら大変な難問であるらしかった。
お読み下さり、ありがとうございました。
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行数:132
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