104. 店主二人
四人掛けの馬車の中で、それから暫くはアヤメとの他愛もない会話に終始した。
初対面ではあるものの、カグヤという共通の親しい友を互いに得ているということもあり、またアヤメが口調こそ独特ではあるものの随分と気さくな性格をしているお陰で、会話が弾むまでには然程時間が掛からなかった。
彼女とこうして出会えたのは、シグレからすれば思いも掛けない巡り合わせではあったが。今日という機会を得られたお陰で、アヤメと知己を得ることができたのは有難いことだ。アヤメは霊薬店の主という立場に於いて自分よりもずっと経験を積んでいるのだから、シグレからすれば率直に敬意を抱く対象でもある。カグヤにしてもユーリにしてもそうだが、こちらの世界での外見の幼さは彼の人物を見定める要素としては、つくづく当てにならないと思わされるばかりだ。
『そういえば、シグレ殿の霊薬店はいつから開業なさるのか、日付はすでに決まっておられるのか?』
店の経営について色々と話を伺いたいと思っていた矢先、シグレが何かを問うよりも先にアヤメからそう問いかけられてしまう。
アヤメからすれば同業と認識しているシグレの店は、一種のライバル店として映ってもおかしくない。こちらが彼女に対して色々と訊ねたいと思っているのと同様に、彼女もまたシグレに問いたいことは少なくないだろう。
『スコーネさんの誘いで、思いもよらず店を始めることになりましたが……。先に一つ訂正させて頂きますが、必ずしも〝霊薬店〟ということにはならないと思います。おそらくは霊薬と薬を中心に、他にも色々と扱う店になるのではないかと』
『ふむ。カグヤから聞いていた通り、シグレ殿の天恵は万事に通じるものであるようだからのう。確かに、ひとつの生産物に絞った店とするよりは、雑多に万を扱う店としておいたほうが確かに良いかもしれんな。―――そういえばカグヤも、一部の商品をシグレ殿の店に置くと行っていたか』
『……ずっと気になっていたのですが、その〝殿〟や〝様〟を付けて自分を呼ぶのは止めませんか? 自分ばかりが敬称付きで呼称されるのはちょっと……』
最初にアヤメ本人から希望されたから、シグレはアヤメのことを呼び捨てにしているが。本来であれば店主として自分よりも先輩である彼女に対して、然るべき敬意を払って接するべきであるのはシグレのほうだろう。
『ふむ、その指摘も尤もじゃな。では、わらわの好きに呼んで構わぬか?』
『はい。呼びやすいように呼んで頂ければ』
『そうかそうか。わらわとしも、求められれば応えるも吝かではない。では以降、シグレ殿のことは〝旦那様〟とでも呼ばせて頂くとしようかのう』
………。
どうしてそうなった。
できれば自分と同じように、呼び捨てとかそういった形で呼んで貰えると有難いのだが。シグレがそう希望するものの、けれどアヤメは何でも無いことのように、
『商家の主人を〝旦那〟と呼ぶのは、普通のことじゃろう?』
―――そんな風に、あっさりと言い切ってしまうのだった。
『それに、じゃ。シグレ殿を〝旦那様〟と呼んだ時に、果たしてカグヤが一体どういった反応をするものか、今から楽しみではないか。くくっ』
『………』
仲が良いのか、悪いのか。
カグヤだけに限らず、聞かれれば他の皆からも色々と突っ込まれてしまいそうなので、できれば勘弁して頂きたいのだが。シグレがそう求めても、アヤメが可笑しそうに笑うばかりで取り合ってはくれなかった。
『それで、開業の日取りは決まっておるのかの?』
『―――っとと、そうでした』
そういえば、そんな質問をされていたのだった。
『決まってはいません。というのも、お店の改装がいつ終わるのかは自分も存じませんので』
『ふむ……。旦那様の店の位置はわらわも把握しておるが、以前のあそこは確か甲冑などを扱う防具店じゃったかの。確か店の中に炉もあった筈じゃし、改装にはちと時間が掛かるのやもしれん』
『店の中に炉が、ですか?』
防具店ということであれば、金属加工のために炉が併設されていても別におかしくはないが。店舗自体はシグレも一度下見しに行ったのだが、とくにそれらしいものは見かけなかった気がするのだが。
『わらわの記憶が確かなら、おそらく地下に炉を含めた簡易の工房が設置されていた筈じゃな。店舗の屋根には煙突が付いていたろう? あれは地下から繋がっていたように思う』
『……そういえば、付いていたような気がします』
その時には疑問にも思わなかったが、確かに煙突があるからには排気を必要とする燃焼設備の何かが備わっていることの証左でもあるだろう。
地下に工房……か。いわれてみれば、立て付けが悪くなっていて開かない扉のような物も店舗の中にはあったが、もしかしてあれが地下への入口だったのだろうか。
いかに煙突があるとはいえ地下に炉があるというのは、排熱や排気、あと安全面的にどうなのだろうと些か疑問に思わないでも無いけれど。そういうものがあるなら便利だろうし、〈鍛冶職人〉のほうにも少し食指を伸ばしてみるのもいいかもしれない。
あるいは別に自分で利用せずとも、カグヤが便利に使ってくれるならそれだけで価値がある。
『……ふふっ』
シグレがそうした考えに没頭していると、不意に隣のアヤメが可笑しそうな笑みを零した。
『モルクの話によれば、旦那様には一切その気がないにも拘わらず、無理矢理店を押しつけたように言っていたが。されど店のことを物思う旦那様の表情は、何だか少し楽しげに見えるのう』
『そう……ですかね?』
当初は店になど興味無かったし、無論乗り気でも無かった筈だが。確かに―――言われて見ればいつの間にか、改装が終わり自分の店を持てる機会が来る日を、少し楽しみにしている自分もあるような気がする。
だとするなら、それはきっと店を運営することに関して、周りの皆が乗り気で居てくれるお陰のような気がする。シグレ一人であれば面倒にしか感じないようなことであっても、周りの皆も一緒になって参加してくれることであれば、純粋にそれを楽しみたいと思えるからだ。
『……そうですね。今は少し、楽しみにしているかもしれません』
『そうかそうか、良いことじゃな。旦那様がどういった経緯で、モルクの押しを拒めなかったかは知らぬが。何事も楽しみながらやれるのであれば、そのほうが良いであろ。わらわも同業の友ができることは、大変嬉しく思うしの』
『店の経営など何もしらぬ新参者ですが、よろしくお願いします。色々と相談させて頂くことがあるかもしれません』
『遠慮せず、何なりとな。わらわも旦那様に頼らせて頂くこともあろう』
唐突に視界内へフレンド登録の可否を訊ねるウィンドウが表示され、シグレは一瞬だけ驚かされてしまうが。無論、それを拒むつもりは毛頭ない。
狭い空間の中、二人きり話す機会を得たことで、既にシグレの中でアヤメのことは他人ではなくなっている。何も言わずにフレンド登録の要請を送ってくるとは思わなかったが、彼女の方から求めずともシグレのほうからフレンドに登録しても良いか訊ねるまでに、さしたる時間は掛からなかったろう。
あるいは初めからスコーネさんは、誼を通じさせることを目的としてシグレとアヤメの両名を今回の〝杖益会〟に誘い、引き合わせたのだろうか。だとするなら、スコーネさんに感謝せねばならないことが、またひとつ出来てしまった気がする。
お読み下さり、ありがとうございました。
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