番外編第二話「騎士小隊長の胃痛」
◇アルベルト視点
銀の胸当ての奥、自らの胃袋のあたりを強く押さえながら、アルベルトは苦渋に満ちたため息を漏らした。
都市警備騎士団の第三巡回隊を率いる小隊長として、アルベルトは常に規律正しく、武人としての誇りを胸に生きてきた。
貴族の出ではない叩き上げの平民出身だからこそ、誰よりも剣の腕を磨き、誰よりも早く登庁して市民の治安維持に尽くしてきた自負がある。
幼い頃、騎士たちの堂々たるパレードに憧れ、いつか自分も弱きを助け強きを挫く真の騎士になりたいと夢見て木剣を振るい続けたあの日々。
血のにじむような過酷な訓練を経てようやく掴み取った小隊長の地位だった。
だが、その真面目さと融通の利かなさゆえに、彼は数年前から苛烈な胃痛に苦しめられていた。
原因は明白だった。
商業都市オルバールの中枢を蝕む、底なしの腐敗である。
中央青果ギルド長ガルシアが騎士団上層部や市政官へ莫大な賄賂をばら撒き、市場の取り締まりや農民の弾圧に騎士団の権力を私物化させている現実。
かつてガルシアの手代から『小隊長殿の今後の出世のために』と重い金貨袋を差し出された時の屈辱を、アルベルトは今でも鮮明に覚えている。
即座に一喝して叩き返したものの、その直後から理不尽な僻地巡回の増加や昇進の据え置きといった陰湿な報復が始まった。
市民を守る盾たれという騎士の誓いを掲げながら、組織の上層部が行っているのは強欲な商人の私腹を守るための露骨な圧力だった。
不正を告発しようにも、騎士団長までもがガルシアと親密に会食を重ねている有様では、一介の小隊長にできることなど何もない。
板挟みの無力感と激しい憤りが、毎日のように彼の胃壁を針で刺すように苛んでいた。
軍医から処方される泥水のように苦い胃薬をいくら煽っても、痛みが和らぐ兆しは微塵もない。
そんなある日の昼下がり、部下たちを引き連れて東街道を巡回していた時のことだった。
ギルドから東街道に不法露店が出現した、即座に武力で撤去せよという陳情が騎士団本部へ届いていた。
都市法の管轄外である公道への介入を拒否し続けていたアルベルトは、実態を確かめるべく馬を進める。
街道の木陰に見えたのは、取り壊しを命じるような怪しげな密売所などではなかった。
そこにあったのは、雨風を凌ぐ小さな庇を備え、丁寧に手入れされた素朴な木製の棚である。
並べられていたのは、宝石のように艶やかなトマトと、ずっしりと重みのある濃い緑のキャベツ。
そして棚の脇に置かれた小さな籠の前に、手書きの木札が揺れていた。
『胃腸に優しい滋養ハーブをおひとつどうぞ』。
その言葉が、痛みに耐えかねていたアルベルトの瞳に焼き付いた。
藁にもすがる思いで銅貨を二枚取り出し、樫の木の料金箱の投入口へと落とした。
カラン、チリン――
その瞬間、静かな木陰に鳴り響いた鈴のような澄んだ音色に、アルベルトは思わず足を止めた。
雑味のない、どこまでも清らかな共鳴音。
細工を施した職人の確かな誠実さが、その一音に凝縮されていた。
その夜、兵舎の自室に戻ったアルベルトは、当番兵を下がらせ、自ら湯を沸かして滋養ハーブをカップに浸した。
湯気とともに立ち上る清涼感のある甘い香りを吸い込んだだけで、キリキリと軋んでいた胃の奥がふわりと緩んだ。
さらに、手に入れたキャベツをざく切りにし、少量の塩とともに小鍋で煮込んでスープを作った。
恐る恐る口に運んだハーブティーは、驚くほど滑らかに喉を通り、傷ついた胃壁を優しく包み込んでいった。
続いてすするキャベツのスープ。
噛み締めた瞬間、大地のミネラルと澄んだ甘みがあふれ出し、身体の芯へと染み渡っていく。
油気のない優しい滋養が、弱り切っていた胃の奥を温かく満たしていった。
「……美味いな」
気づけば、アルベルトは鍋の底まで飲み干していた。
そして奇跡が起きる。
何ヶ月もの間、彼を苛み続けていたあの焼きつくような胃痛が、完全に跡形もなく消え去っていたのだ。
翌朝、目を覚ました時の身体の軽さに、アルベルトは呆然とした。
肌には血色が戻り、鉛のように重かった頭が嘘のように冴え渡っている。
朝の鍛錬場に出たアルベルトの鋭い太刀筋を見て、副官の若い騎士が目を瞠って駆け寄ってきたほどだった。
(あの野菜には、邪心など一片もない)
アルベルトは確信した。
土を愛し、真面目に作物を育てる者が、あんなにも清らかで命を救う野菜を生み出せるに違いない。
守るべきは腐り切った上層部の利権ではない。
あの東街道で土を耕す実直な農夫と、飢えに耐えながら生きる市民たちの笑顔なのだと。
生真面目な騎士の胸に、かつてないほど強固な正義の炎が灯る。
それからのアルベルトの行動に、迷いはなかった。
ギルド長ガルシアが圧力をかけてきても、領主直轄地の治外法権を盾に冷徹に突っぱね続ける。
ゴロツキたちが街道を封鎖した朝は、出動を制止しようとした上官の怒声を背に、第三小隊を率いて迷わず公道へと馬を駆った。
公道の治安維持は騎士団の本分であると一喝し、封鎖部隊を鮮やかに現行犯逮捕してみせる。
連行したゴロツキたちの取調べを担当した部下の兵士たちも、隊長の不屈の姿勢に熱い結束を見せた。
『隊長、俺たちもずっとこんな不正に我慢ならなかったんです!』と若い部下が涙ぐんだ時、アルベルトは部下たちを信じて良かったと心から誇りに思った。
さらにリツから持ち込まれた、毒薬小瓶の破片と汚染野菜の鑑定。
アルベルトは自ら信頼できる監察官の元へ直訴に赴き、ガルシアの逮捕状と倉庫捜索令状を秘密裏に取り付けた。
深夜の焼き討ち計画を察知した夜は、自ら鎧を脱いでリツの元へ駆けつけ、完璧な迎撃陣形を共に敷いた。
そして迎えた中央広場での公開裁判。
ガルシアに手錠を打ち込み、市民たちの歓声が青空に響き渡った時、アルベルトの胸を満たしたのは、かつて騎士叙任式で誓った誇りそのものだった。
大騒動が去った今、警備兵舎の食堂には、東街道の直売所から届いた新鮮な野菜を使った温かいスープが毎日並んでいる。
若い兵士たちが嬉しそうにおかわりをし、逞しい笑顔で任務へと出発していく。
山盛りのキャベツの千切りを咀嚼し、甘小カブの浅漬けを頬張る部下たちの健康そうな顔を見るたび、アルベルトの胸には温かな充足感が満ちていた。
兵舎の厨房からも、以前のような不満や陰鬱な空気は一掃されていた。
アルベルト自身も、巡回の合間に部下たちを引き連れて直売特区へ立ち寄るのが日課となっていた。
副官がトマトにかぶりついて目を輝かせ、若い騎士たちが大根の重さに驚嘆の声を上げる。
棚の前に立つリツと目が合うと、互いに小さくうなずき合い、言葉を交わさずとも通じ合う信頼が胸を満たした。
アルベルトは自らの平らな腹部に手を当て、小さく微笑んだ。
あの日の夜以来、胃痛は一度として再発していない。
かつて胃を痛めながら苦悩していた日々の暗闇は、今や遠い過去の幻のように思えた。
白馬の手綱を握り、東街道へと巡回に向かうアルベルトの視線の先には、今日も平和な光を浴びて緑の葉を広げる美しい畑が広がっていた。
朝露をまとった作物はキラキラと輝き、大地の豊かな恵みを誇らしげに誇示している。
あの小さな直売所が、自分の胃を救い、そして騎士としての魂を救ってくれたのだ。
この街の食卓と人々の平和を守り抜くことこそが、自分に課せられた真の使命なのだとアルベルトは心に刻んだ。
生真面目な騎士小隊長は、誇らしげに剣の柄を握り直し、愛する街道の日常を守るために力強く馬を進めたのだった。




