ダークサイド・二宮
土曜日の午後、少しすぎた頃。
真帆は道場にいた。
ついさっき母からショッピングモールで何か騒動が起きていることを聞いたが、どこか遠くのことで貴子と結びつけることはなかった。
白い掛け軸を見つめていると、後ろに気配がした。気づかないフリをしつつ、脇に置いた鞘を後ろに滑らせ、残した刀を手にして敵の払い除けたが、手ごたえはなく怖さを覚えた。
あちこち気配が跳ねる。
繋がる殺気。
できることすべてをさらけ出した。
全身が汗だくだ。
手にした刀も抜けそうだ。膝をつき、襲られる瞬間、迎撃することを決めた。
神経がささくれてちぎれそうだ。
不意に拳を払われた。
刀が羽目板まで飛んだ。
死ぬときは、殺されるにしてもこんなふうに穏やかに死にたい。真帆は飛んだ刀を拾うことすら考えもしないで、見えない敵に首を差し出すようにした。貴子に対して何と言えばいいのかわからない。殺してもらいたいくらいだ。
影はどかっと腰を降ろした。
「そやけどガキは急に成長するもんやな」
「え?如月?」
「誰やと思うてん」
「殺気が」
如月は溜息を吐いた。
「んなもんに惑わされるなや」
殺気にだまされていた。はじめから殺す気などもないのに、わざと殺気を出していた。もしかして真帆はもてあそばれていたのか。
今度は穏やかに尋ねられた。
「誰か守りたいんか」
軽くデコピンされた。
「二宮のせいで苦しませたくない」
涙が零れ落ちて跳ねた。
ハーフブーツの靴が見えた。
まぶた越しに見ると、深く穏やかな如月の顔が見えた。父と一戦混じえたときの好戦的な嘲笑も言動もなく、ただ抱き締められたい。
「守りたいんやな」
「はい。でも……」
二度目、耳たぶを弾かれた。真帆は両頬をゴツゴツした手で包まれ、顔を上げられるかと思ったとき、相手が体を寄せてきて頭の上に顎を置いて話した。脳天から声が響いてきた。
「おまえらの命を守るんは俺の仕事や。おまえらが気にすることやない」
「はい」
「精一杯のことはしたる。俺は生きるか死ぬかわからん。気にするな。でもおまえの覚悟くらいは聞かせてくれてもええやん」
こんな彼に対して自分が勝つとか負けるとか考えるのはおこがましい。
「佐藤とやらは何や。おまえらと同じように臭うねん。何か関係あるんか確かめる」
「佐藤はきこのことが好きだと」
「キューピッドになればええんか?」
真帆は如月の手から顔を抜こうとした。
「違うと思う。たぶんおじさんが入るとうまくいくものもうまくいかないと思うんです」
間が空いた。
如月は首を傾げた。古木のような手の平に包まれた真帆の頬は熱を帯びはじめていた。
「あ!おまえも佐藤が好きなんか」
「ぜんっぜんっ」
「もしかして照れとるな。もうおにいさんは気づいたぞ。そういうことなんか」
真帆は自分がとても不細工な顔に押しつぶされていることがわかるくらい、如月に左右に振り回された。何か勘違いしている。絶対に如月は紛れ込んではいけないところに来ている。
「おにいさんに任せとき」
道場に放られるように転がると、如月の踵が濡れ縁まで遠ざかるのが見えた。
「おにいさん、俄然やる気出てきたぞ」
「余計なことしないで。前言撤回」
真帆は如月の後ろから、柔道の両手刈りのように両足を抱え込んだ。何の欲もないときの技というのは怖いもので、如月を引き倒した。べたんと如月が倒れた。真帆は睨みながら如月のベルトをつかんで這い上がる。
「いいから、余計なことしないで。わたしは佐藤のことなんてどうでもいい」
「何やねん。離せや。おまえらガキは大人の言うこと信じたらええねん。三角関係なんてよくあることやん。今から佐藤とやらの」
「何も言うな。おっさんは黙れ。来い!」
道場から客間へ引きずり込んだ。
「きこと鉢合わせになるのはマズイんや」
襖が開いた。
母がお茶を運んできた。
如月は急に丁寧に頭を下げた。真帆は紐をはずした重いハーフブーツを隠した。二人とも慌てていたものだから、母に対して並んで正座していた。まるで結婚報告のようだ。
「今度は玄関からお越しください。御用聞きではないんですから。この子もこんなステキな人がいるんなら紹介してくれてもね」
「違う違う」と真帆。
「関東の分家とはいえ二宮家に嫁いできたということは、だいたいは理解しているかと」
如月は伏して話した。
母は頭を上げるように促した。
「もちろんですよ。いつか真帆には話してあるわよね。二宮を女が継ぐときにはと……」
「聞いてる」
真帆は改めて思い出した。父に言われたのならわかるが、あれは母に言われた。母は二宮についてのことは承知していた!?これまで何の疑問も抱いてなかったが、二宮のことはほとんど母から教え込まれていた気がする。
「お母さん覚悟していたの?」
「もちろんよ。いずれどこかに嫁に行くことになるんだし。ここはわたしが選んだの。うまくいけば宝生の力も手に入れることができるかもしれないわ。どうせなら我が手で!」
「け、計算高い」
「でなければ、お父さんの浮気や県議会議員立候補なんて我慢しないわ。わたしは京都の本家の術や技を見て育ってきたのよ。あの人の実力も下の下だというくらいわかる」
真帆のしとやかな母親像が崩れた。これくらいでなければ旧家の政略結婚の駒になることのんてできないだろうなと思いなおした。
「親戚同士になるわけよね」
「関東分家なんて室町の前に本家から離れてるのよ。わたしと血縁なんてないわ」
真帆の母は如月を覗き込むと、そうそうに頭を上げてもらい、お茶を勧めた。よほど喉が渇いたのかお茶を一気に飲み干した。
「あなたは礼子の彼氏ね」
如月は吹き出した。
汚いな。
真帆は身をかわした。
「礼子はわたしの姪なの」
如月は真帆を救いを求めて見た。親の兄弟の子どもだと答えた。二人は驚くくらい近いと教えた。如月はピンと来ていない様子である。
「礼子が惚れた人はあなたね。わたしは礼子がこんなときから一緒にいるわ」
真帆は首を傾げた。
「美人すぎるくらい美人。ときどき旧家に生まれるのよね。で、何て告られたの?」
母は如月の顔を覗き込んだ。これまでこんな生き生きとした顔の母は見たことがない。真帆たちが貴子たちと学校で恋バナをしているときに似ていた。しかも如月が告白されている前提で話しているのはどうなんだろうか。
真帆は尋ねた。
「絵のような美人なのよね」
「絵のようなとは言いにくいわね。あれは妖狐かもと疑うくらい。告白は何て?」
「あ、き、記憶にないです」
「今のは覚えてる顔ね。記憶にないなんていいのかしら。礼子に言おうかしら。あなたの彼氏さん告白の記憶ないみたいよなんて」
「お母様、少し落ち着いてください」
真帆が「おまえがな」と呟いた。
「いじめたら逆にわたしが礼子に何か言われるわね。許してあげるわ。今回あなたのことは彼女から聞いてたのよね。これから行くからよろしくと。又八の入れ知恵もあるのかしら」
この関東の二宮家ははるか昔に京都本家からわかれ、宝生の力を欲した。しかし片桐の横恋慕で話は破断し、どうにか京都の二宮家から真帆の母を迎えることにしたということだ。
「話し込んじゃったわ」
立ち上がると、
「真帆、がんばれ。敵は狐か鬼よ」
母は部屋を後にした。二宮家の差配は父ではなく母がしていたということになる。真帆は腕を組んだままうめくようにして考えた。
「何をがんばるんや?」
「うるさい。で、おじさん何しに来たの」
「きこが来る。片桐のせいで真帆を巻き込みたくないと思うてるみたいなんや」
「わざわざそれを伝えに来てくれたの?」
「話し合えればええけどな。まだ不安定なんやろう。二宮流の術使いのおまえとは違う。今はできれば二宮と宝生から遠退いているに越したことはない。こんなんでおまえらが友だちでなくなるのはかわいそうや」
「おじさんの気持ちわたしも受け止めた。わたしは追い払えばいいのね」
「つらいことをさせるかもしれん」
「これが友だちのためになるんなら」
「おまえ、意外にええ奴やな」
「意外に……ま、いい。で、彼女さんのこと教えてよ。いとこだから挨拶しておきたい」
「気にせんでええと思うで」
真帆は靴を抱えて逃すまいとした。如月は持ち上げようとしたが、真帆が女の子の体に抱きつくなんて変態だと叫んだので諦めた。
「スマホ出して」
真帆は渋る如月からまったく無骨で割れたスマホを引ったくると、如月の着信履歴から彼女らしき番号を押した。如月は絶対に真帆を抱き上げようとしたことは言うなと告げた。
「知らん番号からは出んと思うな」
落ちついた大人の言葉だ。真帆はかけてはみたものの緊張して、軽く咳払いをした。
『誰なの』
もし世の中に熱い氷があるとするのなら今電話口にいる彼女が持っている。
殺される。
「い、いとこの真帆です」
できるだけ高校生っぽく答えた。やろうとすれば出せるんだと我が身ながら感心した。
「関東の二宮です」
『あ、仁帆ねえの娘さんね』
ころっと招き入れられた。さっきまでが石と鉄の格子の外なら今は春の桜の下だ。
『映像で話せる?』
右上のボタンを押すと、思わず真帆がスマホを遠ざけたほど美しい顔が現れた。今この瞬間に母が話していたことが理解できた。そしてそれと同時に疑問が湧いてきた。彼女が目の前のガサツなおっさんに惚れるのはおかしい。
「は、はじめまして」
『覚えてないわよね。小さい頃、京都へ来たときに遊んだことあるのよ。どうしたの?』
「今回のことなんですけど……」
『お母さんに任せなさい。彼いるわね』
如月は腕でバツをしていた。
真帆は頭を垂れて、うやうやしくスマホを差し出した。生贄を捧げるときは、こういう気持ちになるのかもしれない。
如月が溜息を吐いた。
『何か聞こえたけど』
あ、怒ってるなと真帆は気づいた。
真帆が覗き込むと、映像越しにも埃臭さそうな本や紙が映り込んだ。ソファの上やカーペットの上に開いたものも散乱していた。
『わたしはリビングと本家の往復で今回のことを調べまくってるわけよ。あの家に行けばああだこうだと言われるんだけどね。今コーヒーを飲んでるのは、あなたのマグよ。見える?』
「君のは?」
『あなたが落としたのよ。どうでもいい。買えれば済むんだし。左腕を見せて』
「お見せするほどのものでは」
『真帆ちゃん、スマホで見えるようにしてくれないかしら。響也……』
如月はシャツを脱ぐと、今度は血染めの包帯を外すように言われて外した。
『二回くらい刺されてえぐられた?あなたにしては珍しいわね。あ、そういうことか。刺したのは片桐の娘さん。響也、あなたは守る相手に刺されたということね』
「彼女は自分で魂を追い出したんやで。宝生の力はちゃんと娘に継がれたらしい」
『真帆ちゃんに処置できるかな』
「あ、鞄」
真帆は自室へ戻ると、ボディバッグを持ってきた。これを準備したのは彼女だ。
『縫わないといけないみたいね。真帆ちゃんにできるとは思えないんだけど』
「俺がやるわ」
如月は真帆にスマホを渡した。礼子がスマホの向こうから、如月を映してと言った。
医療用のホチキスは直角に立ててガチンと針を食い込ませるが、ピアッサーが子どもに思えるくらいのけたたましい音がした。
「痛くないの?」
「痛いに決まっとるわ」
『子どもに当たらない』
皮膚をつまんでハンドルを握ると、けたたましい音がした。映しておいてと言われたので映しているが、気持は良くない。いとこはSの気でもあるのか言葉の調子も変わらない。
『で、二宮は領地に留美を拉致した。仁帆ねえから聞いてるのよ。片桐の娘の力で宝生の領地を復興して、関東二宮は宝生の下でこの世に力を及ぼそうと考えた。前は片桐の恋で目論見は壊れたけど。関東二宮と領主の宝生は十五年前の恨みを晴らす気でいるみたいね。ちなみに宝生の領地は、今は宝生旧家臣に任されてる』
「だからきこを姫にしたいんですか」
真帆は画面を覗き込むと、礼子は黒髪を結い上げながら話していた。
『ええ。消毒してあげてくれる?消毒と滅菌シート入れてあるから拭いて。後はいちばん大きな絆創膏を貼ってくれるとうれしい』
「あ、はい」
『あなたが今回守れたとしても、いずれは片桐と二宮、宝生が話し合いか殺し合いで解決するしかないのよ。わたしはあなたが壁を越えて領地へ行くことは許さない』
「高校生三人には荷が重いと思わん?」
『高校生であろうとなかろうと、宝生と関東二宮の問題。あなたが関わるのはここまで』
「又八も絡んでるし」
『又八は宝生と二宮が揉めてれば、あわよくば領地にバケモノの楽園を夢見てる。でも彼はあなたが絡んできたから迂闊なことはしない』
服に腕を通した如月は答えた。
「又八にも又八の都合……」
どうにかボタンを留めながら言おうとして言い終える前にかぶせられた。
『こちらにもこちらの都合がある。ちゃんとわたしと約束して。絶対に壁を越えて宝生の領地には行かない。すぐ京都に帰ること』
「了解しました」
如月は納得したように見せたが、真帆から見ていると不貞腐れている顔でしかない。彼女さんにはバレているような気がする。如月は神妙にスマホを真帆へと渡した。
『真帆、ごめんね。ここまでよ』
「母もいますし」
『またこれが済んだら遊びに来てね』
たぶんごまかせていないな。
礼子さんは信じてない。
如月はしてやった顔でスマホをポケットに入れていたが、絶対に勘づかれている。
「礼子さん、一つ聞いていいですか?」
『ん?』
「おじさんに告白したんですか?」
『二帆ねえ、何言うのよ。もお』
やっぱり礼子からなんだな。
『ヒ・ミ・ツ。それとおじさんじゃない』
「す、すみません」
如月の靴底で頭を叩かれた。
鉄板で叩かれたほど衝撃がした。
「痛い。間違いなのはわかる。わたしはあなたにいてもらえると心強い。でも叱られない?」
「叱られてないように見えたか?」
真帆は唸った。
如月はバッグに片付けながら、見たくもないもん見せて悪いいなと謝った。
チャイムが聞こえた。
「ま、力を持ってることがわかったきこは今のところ壁を越えて領地に行くべきやない」
「きこが支配できるということはない?」
「テーマパークでもないしな。マジで何が起きるかわからん。覚悟するには心細いやろ」
「こっちは言われたようにやるから、佐藤のところで余計なこと言わないでね」
「任せとき」
任せられん。