彼女は無慈悲な電話の女王
『連絡してくるという条件忘れてる?』
響也は夜の住宅街の路地を歩いた。決して広くはない庭に植えられたモクレンやツバキが間もなく訪れる春のために蕾を付けていた。
『これはわたしからよね?』
「こっちがかける前にそっちがかけてきたからやと思うんやけど。あ、少し遅れました」
『わたしは心配してるわけよ。何で映像で話さないのかな。こっちは待ってるのに』
「今は外やねん」
『ギガは使い放題よ』
「何のことやねん。覚えられん。俺はアホや言うこと忘れてるんやないか」
『次はマジで怒るわよ』
響也はスマホを離して、彼女に教えられたようにボタンをタップしてみた。革の手袋をしているからか。口で手袋を外して、同じことをしてみて、気づかないで話した。
「もしもし?あれ?……ったく」
すばしっこい影を追いかけた。
やたらと獣臭い。
一度見つけてしまえばこちらのものだ。
この界隈は臭う。
影は雑木林へと飛び込んだ。古い住宅街と新しい住宅街とを区別するための雑木林だ。
響也はスマホをポケットに入れた。
手袋をはめつつ耳を澄ました。
『あの体が欲しいよね』
『欲しいね』
『みんなで暮らせるかな』
『暮らせるよね』
響也は左肘をわずかに後ろに上げると、人とも猿ともつかない影が、両手で顔を押さえて背中から太い桜の幹にぶつかった。すかさず響也は右の拳を影のみぞおちに食い込ませた。
「桜さん、ごめんやで」
すぐに拳を戻すと、納豆の糸のようにかすかに光の尾が引いた。一斉に飛びついてきた影どもをかわして、拳でたたきのめした。
スマホが震えた。
「もしもし?」
すぐに響也は出ようとしたが、革の手袋でタッチが反応しないことを忘れていた。
『ようこそ宝生の森へ』
遠いような近いような声がした。それは低く水の底から湧く泡のように震えていた。
「現れたな、ガラクタ」
『貴様は普通の奴ではないな』
ブルゾンのポケットではずっとスマホが震動しているものだから、今まさにここに現れた薄気味悪い誰かとの会話に集中できない。
『貴様は誰だ。なぜ十年以上前のことを調べているのだ。ま、よい。復興の宴は賑やかな方がよいからな。流浪の日々が終わる。ようやく見つけることができたのだ。姫様とともにこの世とあの世の門を守る宝生家を再興する』
「あ、ちょっとごめん」
響也は革手袋を外した。
『切った?』
「言われたようにしたんや。すぐ出られんだのは手袋しててスマホが動いてくれんのや」
『スマホ使える手袋買ってあげるわ。カメラマーク押して。右上』
「これかな」
『暗いわね。後ろっ!』
体を右に傾けると、剣が頬をかすめるようにして地植えのサツキに飛び込んだ。
『影と戦ってるの?』
「宝生家の影響やな。ようわからん。でもほとんどが成仏できとらんカケラやな。ダンジョンに迷い込んであの世に逝かれへんのやろ」
サツキから飛び出してきた影に踵を浴びせて地面に踏みつけた。ドロっとしたものが靴底から伝わってきて寒気がした
『宝生に操られてる?わたしさ、今凄く空気読めない彼女みたいになってない?』
いくつもの襲いかかる影を倒した。
『いいから。もう集中して』
「話に?」
『戦え!』
通話がプツッと切れた。
冬の枯れ草が残る斜面を下ると、途中で足を滑らせて沢に転がった。沢の上流にざわつかせる穴が見えた。岩の間、親指が入るか入らないかのところから陰気な空気が湧いていた。
「宝生の影響やな」
平安期まで遡る。高野山の開祖となる空海が密教の秘伝を日本へと持ち帰るとき、大陸にいた青年に日本へと来るように懇願した。
それが龍之拳の継承者である。
響也自身はただ拳と言う。
密教は大日如来を中心とし、術を使うことで森羅万象を含めた人々の暮らしを守る信仰の一つで、空海が言うには龍洞拳の拳は体現化した曼荼羅そのものであるとのことだ。
何のことだ?である。
響也の拳が穴に「気」をねじ込んだ。
革手袋を探してリダイヤル。
『怪我はない?』
「ない。地獄穴を見つけた。もうね、この街が宝生に囲まれてるな。あちこち臭い」
『何してるの?』
「手袋落としたんや。この斜面から落ちたときに落としたんやろうけど」
サツキの下に手袋が落ちていた。拾い上げて泥と枯れ葉を落として住宅街まで歩いた。
住宅街を出た。
又八に風呂を沸かしてもらわないと。
『で、いつ戻れるの?』
「今夜の仕事は済んだ。これからどこかで何か食べて又八んところへ戻る」
『聞いてるのは京都へよ』
「宝生に聞いてくれ」
父と訪ねた塾は駅前の予備校銀座の裏にある古い平屋で、すすけた板塀が張られ、門構えの格子戸を抜けると、玉砂利の小路、カラカラと涼し気に開く玄関に迎えられた。
奥の闇へ続く廊下が不気味だ。
何かいる。
貴子は顎を引いて身構えた。全身が何か得体の知れないものに包まれて、ガチガチに緊張しているのがわかるくらい様子が変だ。
「こんにちは」と父。
闇から影がぬうっと現れた。
寝癖の髪をそのままに、無精髭の男がスウェットと裸足であくびをしていた。
「又八おらん?」
眠そうな彼が框から脇にあるドアに体を伸ばして何とか覗いたが、おらんなと呟いた。
「ひとまず響也くんに紹介しないと。娘のきこです。この人が紹介したい人だ」
貴子は睨むように頭を下げた。彼はすっと正座して如月響也ですと頭を下げた。何かもっとバチバチを予想したが拍子抜けだった。真帆から聞いていたところでは、特別な異様さをはらんでいる怖さを想像していた。しかもこの家にはびこる気配からしても、心霊や妖怪の類でも出てくるのかと思ったが普通の人だ。
「何も聞いてないけど」
貴子は父と如月が話しているうちに脱ぎ散らかしたハーフブーツを脇へと揃えた。普段の陸上では靴に軽さを求めているので、この古びた靴は鉄板でも仕込んであるのかと感じた。
「ごめんごめん。遅れた。田中さんちのポチと話し込んでしもうてな。今日きこちゃんが来るんやて話したら、昨日久々に話しに来てくれたいうて喜んでたわ。話したんやてな」
トラ猫が入ってきた。
閉めることはしないらしい。
貴子が閉めた。
「猫……」
貴子は見下ろした。
猫が話していた。実際に話しているのかはわからないが、貴子に声は聞こえていた。
お父さん、これ猫だよ。
後ろ足で耳の裏掻いてるし。
「だいたいは響也から聞いた。にゃんともかんともやな。これからのこと話そうや」
勉強室は玄関のすぐ脇だ。闇に行かなくてよいかと思って安心した。靴を脱いで、フロアカーペットの敷き詰められた部屋に入ると、半個室が三つある。普通の自習室のようだが、壁際に行灯が置かれていた。正面にホワイトボード、反対の壁にスタンドミラー。勉強用のテーブルは参考書を積み重ねても、やり散らかしても余りある奥行きと広さだった。
「俺は寝るわ」
「おまえも来るんや」
「何でやねん」
「猫が話してたら怖いやろうが」
貴子は如月に指を差された。
「おまえの話聞こえてるみたいやんか。さっき友だちの犬とも話したとか言うてたやん」
「ポチはわいが昔に術かけたんや。二人を守ってくれる言うからな。話せて当然やろ」
猫は答えた。
「とはいうても、しばらくきこちゃんも話してないもんな。ほれ、二人とも入るんや」
「俺は寝る」
「おまえはお茶の一杯くらい入れてこようとは思わんのか。居候のくせに夜すがら徘徊して朝からぐうたらぐうたらと」
「俺も遊んでるんやないわ。お茶なんて飲みたい奴が飲めばええやんけ」
父は遠慮した。すると猫はこういうのは躾というもんが必要だと話していた。
「宿泊代はなんぼかいな」
「すんません。今すぐ持ってきます」
貴子は真ん中の席に促された。両脇にも他の席にも誰もいない。後ろにはセンセ専用イスと書かれたパイプ椅子とスチル机がある。貴子の目と耳がおかしいのか。父と如月という人の気がおかしいのか。まさかここ最近のことと関係していて、貴子がおかしいのかもしれない。
猫は父に、響也は躾なダメだと話し、今の若い子は掃除洗濯料理なんて当然のようにするとのことを世間話のように話していた。
如月はペットボトルを二本持ち、父と猫の待つ教室へと着替えて来た。デニムに黒いシャツの裾を垂らしていた。整髪料で寝癖の髪も梳かして、無精髭も剃ってきていた。少しは来客として認めてくれているのだと感心した。
猫はパイプ椅子に敷いた座布団の上が心地よいらしく前足を隠して座っていた。
猫とは……
「きこちゃんはわいのこと覚えとる?生まれてから何回か話したんやけど」
「え……す、すみません」
「一歳くらいのときかやけどな」
覚えてるわけない。
「ポチとも小学生の小さい頃くらいまでは話してたらしい。いつも帰ったら教えてくれた」
父は懐かしそうに答えた。次第に人と話す方が多くなると、犬とは話せなくなったようだということを伝えられた。貴子は犬や猫と話せたなんておとぎ話のようだなと聞いていた。
「昨日話しました。何で話せてるんですか」
「もう生まれてきたときに持ってた力を抑えられんのや。成長してきたんやな」
今また猫はあくびをした。背は鮮やかな茶トラの模様をしていて、でぷっとした腹のところは薄っすらと白いうぶ毛がある。
「真帆に何をしたんですか?」
貴子は体をわずかに折るようにして強い調子で誰にともなく叫んだ。こうして友だちが自信を失うところは見ていられない。
「真帆は二宮流の意味に悩んでる」
「何やと思いながら刀持ってんねん」
「あっ」と貴子。
芸術的な猫パンチ。
「何するねん」
「おまえの頭にはアップデートというもんはないんか。時代に合わせて変化するんや」
「何がアップアップやねん。そもそもおっちゃんが宝生のお姫様拉致するから、こんなややこしいことになるんや」
「お姫様?」
貴子は父を覗いた。
「拉致したってどういうこと?」
「おまえ、何も知らっっ……」
再びの猫パンチ。
「修はん、あんたが話した方がええ」
この世とあの世の間には、いわゆる緩衝地帯というものが存在する。壁だけでは近すぎるということなのか、この世のものが死ぬと魂はダンジョンを越えて逝くことになるらしい。
貴子は聞いた。
緩衝地帯には領地が存在し、それぞれに領主と呼ばれる防人がいるのだが、彼らはこの世とあの世を隔てるダンジョンを維持している。
例えばこの世のものがあの世を侵食しないようにもしているし、逆もある。一言では言い尽くせないくらい、一般の人には知られずに維持というものに力を注いでいる。
しかも世襲制である。
父は宝生の領地にいる姫に恋をした。
約十五年前のことだ。決して領地から出られない姫をこの世に連れ出し、娘をもうけた。
「一生、領地で政をして、いずれ決められた夫と結ばれる姫が不憫だと」
父は淡々と話した。
「惚れた言い訳や……あたっ」
「黙っとけ」と猫。
「姫は年に数回、お忍びでこの世に出ることがあるんだ。この世でなければできない儀式もあるのでね。いつもそのときのお供をした」
「お供?」
「死んだ魂はダンジョンを越えて逝くために力がいる。宝生の姫様は力のない魂を導いてやる仕事をしていたんだ」
宝生の姫は儀式に出た後、とある人と結婚することが決まっていた。結婚すれば領地を治めることも儀式で、あの世とこの世とを行き来することもしなくてよくなる。
「お父さんはお姫様を拉致したんだ。二度と会えないと思うと、ずっとでなくてもいい、この世で少しでも一緒にいたかった。あの世でも領地でも構わない。近くにいたかったんだ」
父は照れたように笑みを浮かべた。
「そのときにお母さんの婿養子の候補が二宮だったんだよ。真帆ちゃんのお父さんだ」
領主になるということは、この世とあの世ではないところで生きることになる。永遠にも近い命や生者や死者を統べる力など、この世のものには想像もできないものが与えられる。
「二宮は激怒したさ」
父はボトルのラベルを見た。
「お父さんに位と力があれば、もっと幸せに暮らせていたんだ。領地を治めるものたちの中でも馬の次くらいの扱いだからな」
「力がないのに連れて逃げたの?」
「バカなことをした。お父さんのせいでおまえたちの暮らしが脅かされている。あのときお父さんはすぐに捕まえられていれば……」
貴子は混乱した。領地、この世とあの世、お姫様、連れ去られた、そして魂など。
「人はいくつもの魂でできている。死んだときにバラバラになる。魂たちはダンジョンを越えながらお互いを探し合う。うまく会えてあの世へ旅立てるかもしれない。又は狩られるものも出てくる。狩られ、食われ……」
猫が貴子を覗き込んできた。
「これはな、領主の方針による。離れ離れの弱い魂を救う奴もおれば奴隷にする奴もおる。食らえば命を永らえることもできる」
「私は奴隷として働いていた。領地で過ごしているときは永遠にも思えた。たまに見るお姫様の美しさ、近くを通るときに巻き上がる甘い匂い。この永遠が終わるような一瞬だよ」
「お母さんは認めたの?奴隷で力もないお父さんに連れられてこの世に来ること」
「本心はわからない。領主というものから逃れようとしていたのか、ただの気まぐれか。いかんせんお姫様だしな。こんな暮らしの今は後悔しているのか」
少し卑怯な言い方のような気もする。好きで連れ去る父はいいが、母は従う以外どうすることもできなかったのではないかと考えた。
貴子は響也に気づいた。
机に伏していた。
「ちょっと聞いてるの?」
「宝生の殿様は激オコやん。わざわざ城を出てダンジョンまでお出ましやで」
「申し訳ないことをした。私はお姫様の飼い猫の又八様にも救われた。これまで私たちが人として暮らせてきたのは、又八様の通力に守られていたおかげです」
「コイツお姫様にかわいがられながら領地奪おうとしてたんや。あたっ」
「宝生や二宮としては奪われてすぐ必死で探したはずや。隠れて暮らしてきた。普通の人として暮らすのも簡単なことやないんやな」
「わたしは普通の人じゃないの?」
「お姫様の子やからの。どんな力を持ってるかわからん。で、今バレたんやろ。よう守ってきたんやないかな、お父さんも。ま、わいの力添えもあるんやけどな。少し自慢してみた」
又八は前足を伸ばした。
十五年も守られていたなんて。
「術が薄れてきてるんやなあ。それにきこちゃんも成長してきた言うことやろうな」
又八が続けた。
「ま、向こうも探してるしな。いつまでも隠れてることもできんやろう。寿命まで逃げきれたら儲けものみたいなもんやしな。もう少し保つと思うてたんやけどあかんだな」
「私の油断です」
「又八、おまえも油断ならん。どさくさに紛れてどこぞの領地をいただこう思うとる」
「わいらが領地を持ってもええやろ」
「好きにしたらええけどな」
「宝生の領地はわいにも魅力がある」
「二宮にもな」
響也が答えた。
「どういうこと?」
貴子は責めるように尋ねた。しかしか響也は平然として、二宮が宝生に貴子のことを告げ口したのだと話した。二宮は宝生と同じように領主の分家で、こちら側ではないと続けた。
「は?」
急に突きつけられてもわからない。
世の中、頭で理解できても気持ちがついてこれないこともあるのに、今は頭でも理解できないことを話されても、どうしていいのか。
画面の時計は午前十一時を過ぎていた。