第5章
私はいま、黒薔薇商会の執務室の窓辺に立っている。
朝日が射す前の仄暗い時間帯で、手にした資料をじっと見つめているうちに、胸がざわめき始める。市場は、私が仕掛けた一連の経済操作によって前例のない混乱に陥りつつある――その報告が連日飛び込んできているのだ。
「エリス様、こちらが今朝届いた最新の取引レートと商品の在庫状況です」
ドアをノックして現れた部下が、紙の束を私の机にそっと置く。彼の声には焦りと興奮が入り混じっていて、その様子だけで王国の市場が尋常ではないほど荒れていると察せる。私が手を伸ばして書類に目を走らせると、大きく変動した数値や見慣れない価格が散見される。穀物と塩の値段が極端に下がり、逆に一部の織物や生活必需品が異常に高騰している。調整役として動くはずの貴族や商人が混乱し、明確な対策を打てていない様子が手に取るようにわかる。
「ここまで早く市場が揺れるとはね。思った以上に王国の構造が脆かったのか、それとも私たちの作戦がよほど効果的だったのか……」
自分でも信じられないほど淡々とした声が出る。王国に対する復讐心を糧にして始めた経済作戦が、短期間でここまでの混沌を生むとは、正直想定以上だ。だけど、ここで手を緩めるつもりはない。私は資料を握りしめ、奥歯を軽く噛む。
「エリス様、民衆の反応が相当に激しくなっているみたいです。ある地域では、生活必需品が高騰しすぎて庶民が買えないという苦情が殺到していますし、逆に穀物が安価になりすぎたせいで農家が破産寸前になっているという噂も……」
部下の声は深刻だ。作戦としては成功でも、王国の末端に暮らす人々にとっては死活問題となる混乱だろう。そこに多少の罪悪感を抱かないといえば嘘になる。でも、私は心のどこかでその苦しみこそが王国への大きな圧力になり得ると知っている。かつて聖女として奉られながら、偽者の汚名を着せられて処刑されかけた私。その苦しみは、もう容赦を緩める気にはさせない。
「……わかったわ。部下たちが買い占めている商品リストを再確認して、次の動きに備えてちょうだい。私はもう少しで合流する」
軽く息をついて指示を出すと、部下は「承知しました」と言って部屋を出ていく。私の周囲に残っているのは、膨大な書類と、ざらざらとした紙の音だけ。経済学者だった前世の記憶があるとはいえ、これほど大きな市場操作を実行していると、頭の片隅に不安が顔を出すこともある。こんなにも急激に崩壊を促して、本当に大丈夫なのか――そんな疑念がよぎるのだ。
「でも、ここで止まるわけにはいかないのよ……」
小さくつぶやくと、胸の奥が熱くなる。もし今ここで止まったら、私が王国から受けた仕打ちは何の意味もなくなってしまう。
――部屋を出ると、廊下を行き交うスタッフの足音が絶えず耳に入る。商会は連日繁忙を極め、私が計画した経済戦線を支えるためにみな必死に動いている。廊下の先、少し広い作業スペースでは、複数の部下が机を囲み、重々しい表情で議論を交わしているのが見えた。私はそこへ歩み寄り、適当なタイミングで声をかける。
「どう、進捗は?」
「はい、一通り報告をまとめていたところです。王国側の軍が市場を“監視”する動きを始めたようで、特に大都市付近では商会員たちの行動に制限がかかりつつあります。ただ、すでに流通は相当数混乱していますので、我々としてはむしろ更なる混沌を誘発できる好機かと……」
その言葉に私は微かに頷く。王国が市場を守るために出した軍事行動が、逆に民衆の不安を煽り、疑心暗鬼を増幅させる構図が想像できる。軍が進出すれば、誰だって“何か重大な危機が起きている”と警戒するはずだし、実際に商品の価格は乱高下を続けているのだから、混乱が収まるはずがない。
「なるほど。じゃあ、ここからが本当の勝負ね。取引ルートを確保した上で、こっそり緊急物資を提供してみるのも面白そう。値段を吊り上げて救済する形にすれば、王国への不満はますます高まるでしょう」
私がその案を口にすると、部下たちはすぐにメモを取り始める。自分たちの買い占めや供給制限だけでなく、あえて一部の商品を高額で“売り捌く”ことで、神殿や貴族が主導する既存の商流を無力化するのだ。これで庶民は、ますます「王国のせいで生活が脅かされている」と感じるだろう。
一通り打ち合わせを終えたあと、私は少しだけ一人の時間を求め、商会のバルコニーに出る。眼下に広がる魔王領の町並みは、人間界とは全く違う色合いを帯びている。まだ朝早いというのに活気があまり感じられないのは、この地独特の空気のせいかもしれない。冷たい風が髪を揺らし、遠くで魔獣のような声が微かにこだまする。
(私は、ただ復讐したいわけじゃない。王国を崩壊させ、そのあとに新しい仕組みを作りたい……でも、その過程で本当に多くの人が困窮しているのも事実だわ)
「悩み事か?」
不意に低い声が聞こえ、振り返ると、レオンハルトがこちらを見ている。いつからいたのか、気配すら感じなかった。黒い外套に身を包み、その瞳には冷たくも鋭い光が宿っている。彼が出現するだけで空気が変わり、周囲の温度が下がったように思える。
「いえ。少し懸念していただけ。民衆がこれだけ苦しむ展開が思っていたより早かったから」
言葉を選びながら答えると、彼はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「気にすることは無い。俺が見てきた人間たちは、欲と裏切りに満ちている。あの王国など壊れて当然だ」
彼の言葉にどこか鋭さよりも苦味のようなものを感じる。魔王である彼にとって、人間は過去に自分の故郷を滅ぼした仇だ。だからこそ、私との契約に応じて共闘している。彼の言うとおり、遠慮なく破滅へ追い込むのが筋かもしれない。
「わかっている。でも私は、ただ壊すだけでは満足しないわ。あの王国を倒して、新たな秩序を築く。私の経済知識と魔力を総動員して、今度こそ私の望む世界を作りたいの」
言葉を吐き捨てるように続けると、レオンハルトは小さく笑みを浮かべる。彼の笑みには嘲りが混じっているようにも見えるが、反対にどこか興味をそそられているようでもある。
「ならば、もっと混乱を拡大すればいい。王国が立て直す間も与えず、一気に追い詰める。お前の仲間たちの動きもよく見えている。経済だけでなく、魔術や兵力を使う手もあるぞ」
その提案に私はふっと視線をそらす。確かに魔王軍の絶対的な戦闘力があれば、王国など一瞬で蹂躙できるだろう。だけど、今私はそれを求めていない。復讐したいのは確かだが、それと同じくらい「あの王国を内側から滅ぼす」ということにこだわりがあるからだ。
「軍事的な衝突はまだしないわ。あくまで私は経済で潰すの。軍勢が出てくるのは、王国が完全に崩れ落ちてからで十分」
するとレオンハルトは言葉少なに頷き、踵を返す。別れ際にわずかに振り向いて低い声を落とし、私の内面を見透かすように呟く。
「お前のやり方は好きにすればいい。何を懸念したところで、目的は変わらないのだろう」
彼はそれだけを言い残し、城内の暗い廊下へ溶け込むように姿を消す。最後に感じたその声の響きが、なぜかいつまでも耳に残ってしまう。迷いはないはずなのに。
――やがて日中、王国各地の市場でさらなる混乱が起こっているとの新たな報告が相次ぐ。商会のスタッフが戻ってきて、口々に驚きと焦燥を伝えてくる。
「エリス様、大変です。王国南部では穀物を投げ売る農民が急増し、物価が暴落しすぎて都市部に混乱が広がっています!」
「それに加えて、別の地域では豪商が物資を抱え込んで、市場での買い占めが完全にストップ。値段が跳ね上がりすぎて、誰も手が出せない状態です!」
怒号のような報告が飛び交うたび、私はその大きすぎる余波を実感する。私たちの狙い通り、王国中の流通が崩れているわけだけれど、想定を上回るスピードに戸惑いすら覚える。
「……ここまでの効果が出ているのなら、そろそろ我々も“調整”に動くべきかもしれないわ」
私は部下たちを前にそう切り出し、地図と統計のデータを示す。無秩序な暴落と高騰が繰り返されるだけでは、王国が早々に破綻したとしても、混沌しか生まれない。ましてや、私の目指す“新しい秩序”は遠のいてしまう。そこで、一定の商品を私たちが独占的に扱うことで、民衆や商人たちの窓口になろうと考えているのだ。そうすれば、王国への不満が一層高まり、私の商会が逆に信頼を得られるかもしれない。
「ただし、これには細心の注意が必要。利益を得すぎれば私たちが“強欲な集団”だと見なされるし、価格を低くすれば商会の資金が足りなくなる。絶妙なバランスが求められるのよ」
「はい、わかりました。具体的にはどの程度の範囲で流通をコントロールすればいいでしょう?」
「そうね……都市部で生活必需品に困っている層に限り、限定数量で売り出す、とでも告知するの。ただし、通常より少し高い値段で。王国が止められなかった流通混乱を、私たちが最小限の負担で救う形にすれば、自然と民衆の支持が集まるわ」
こうして話し合いを続けているうちに、スタッフたちの緊張が解けていくのを感じる。無闇に市場を荒らすだけでなく、きちんと戦略的に動いているのだとわかれば、彼らも自信を持てるのだろう。私は部下たちに指示を与え終わると、改めて深い呼吸をする。
午後になると、商会内部に来客が現れた。現れたのは王国側の小商人――彼は表向き、難を逃れるため魔王領へ逃げ込んできたというが、実は密かに私たちと手を組もうという話を持ちかけているらしい。彼の話では、王国の貴族や神殿内で権力争いが激化し、誰も自分の首を守るので精一杯で、市場対策などに真剣に取り組む余裕がないのだとか。
「どうやら内部混乱がピークに近づいているみたいね」
商人から詳しく話を聞き終わると、自然と笑みがこぼれる。そこまで彼らが混乱しているなら、私が望む未来への道はさらに開かれているはずだ。とはいえ、胸の奥でチクチクとした痛みもある。想像以上に民衆の生活が脅かされ、悲鳴や怒りの矛先が行き場を失っているのだから。
「エリス様、次の段階の具体案を練りましょう。王太子や神殿がまだ強行策に出るかもしれませんし、暗殺の噂は相変わらず途絶えません」
そばにいた部下が真面目な表情で促してくる。私は頷き、再び地図や取引リストを眺め始める。今は突破口を見出す絶好のチャンスだ。挫けそうな気持ちはあるけれど、ここで止まるわけにはいかない。ひどく疲れた頭を動かしながら、私は最適解を探すために思考を巡らせる。
夕方、商会の一室では成功と混乱の余韻を同時に抱えたスタッフが夕食を囲んでいる。私も遅れて合流し、彼らの声を聞きながら静かに席に着く。いつもなら打ち解けた会話を交わすのに、今日は皆の声がどこか沈んでいるように思える。
「最近、民衆の悲鳴を直接耳にする場面が増えました。子どもを抱えた母親が『どうか食べ物を』って懇願してきたりして……」
そんな話が聞こえると、空気が重くなっていく。誰もが覚悟していたこととはいえ、実際に人々の苦しむ姿を目にすれば、気持ちは揺れてしまう。
「でも、私たちは王国を滅ぼすためにここまでやってきた。今さら後戻りなんてできないわ」
そう言って自分に言い聞かせるように口を開くと、何人かが小さく頷く。私は深く息をつき、曖昧な表情のまま彼らを見回す。覚悟を決めているつもりでも、どこかにわずかな痛みが刺さるのは、私がまだ“人間らしさ”を捨てきれていない証拠かもしれない。
やがて夜になり、皆がそれぞれの作業に戻るころ、私はひとり執務室にこもる。窓を開け放ち、冷たい夜気を肺いっぱいに吸い込みながら、手元の資料を見つめていると、まるで頭の中の回路が熱で煮え立つような感覚に襲われる。
――復讐か、新たな秩序か。その二つを同時に追い求めることは、果たして叶うのか。もし王国が崩壊しても、私の手で次の世界を創れると本当に信じられるのか。幾度となく自問自答してきたはずなのに、答えはまだ出ない。
「でも、ここまできたらやるしかないわ。これが私の選んだ道なんだから……」
かすれそうな声でつぶやき、書類の山を一枚一枚めくっていく。今の私には、逃げるという選択肢はない。経済混乱が激化するほど、王国への復讐は確実に進行するし、それに伴って人々の苦しみは増す。それでも、王国を壊さなければ私の未来は得られない。
窓の外を見上げると、月が鈍い光を放っている。薄雲に覆われたその姿は、どこか私の心象風景に重なるようだ。はっきりしない薄闇の中、しかし確実に明日も日は昇る。その日の光のもとで、私はさらに次の攻勢を仕掛けるのだろう。
――こうして、深夜まで資料を整理しながら、私は王国崩壊の進捗を見極めつつ、自分なりの救済策の種を探る。幾度も繰り返す“激しい市場操作”と“苦しむ民衆の姿”の狭間で、私の心は否応なしに揺さぶられている。でも、迷い続けるだけなら、何もしない王太子や妹と変わらないではないか。ならば、私は徹底して破壊を進め、同時に民衆を繋ぎとめる受け皿を整える。
最後に机へ身を預け、重い瞼をゆっくりと閉じる。頭の中には、瓦礫と化した王国の街並みがちらつく。その未来図に胸を痛めながらも、私は確かにそこに新たな光を見出している。
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