1-転生先は木のようです
「うっわぁ……二部六章って本当にすごかったなぁ……
人の心とかないんか? って素で言っちゃいそう」
とっくに新学期が始まっている4月中旬。
昨夜からずっと部屋を照らし続ける照明の下で、椅子に座る少女はスマホの画面に釘付けになっていた。
時刻は朝7時半。自転車通学である彼女は、もう支度を始めていないと遅刻してしまうといった時間帯だ。
しかし、彼女は徹夜で読み切ったソシャゲのストーリーの余韻に浸っており、高校のことなど眼中にない。
朝日が昇っているということにも気が付かず、いつまでもスマホの画面を見つめている。
これではもう、準備をするしないという次元の話ではない。
いつ現実に戻ってこられるか、朝であることに気がつけるかといった次元の話である。
現在の彼女の放心ぶりからすると、一人暮らしであれば確実に気がつけず、遅刻してしまうだろう。
だが……
『あんた早く起きないと遅刻するわよー!!』
「うぇっ!? もう朝!?
……わかってるってー、すぐ降りますよー!」
大抵の高校生は、一人暮らしなどしておらず実家暮らしだ。
その少女も例に漏れず実家暮らしであり、いつまでも起きてこないことに痺れを切らした母親の声に我に返ると、ようやく現在の時刻に意識が移る。
机上の時計を見てみれば、もちろん時刻は遅刻ギリギリ。
ギョッとしたように頬を引きつらせた彼女は、慌てて立ち上がると飛ぶように部屋を横切っていく。
とはいえ、部屋には数え切れない程の本・ゲームの類が積み重なっており、動きの割に進みは遅い。
踏んで壊さないよう慎重に。
彼女は部屋を文字通り飛び跳ねて部屋を出ると、部屋と同じく物が積まれた廊下に足を踏み入れた。
「あっ……片付け、忘れてたァァっ!?」
廊下に出れば、すぐに一階へ降りるための階段がある。
今日は声だけだったが、いつもは母親が直接起こしに来るための位置取りだ。
だが、普段ならば便利であるこの部屋の位置は、今日に限っては最悪の方向に傾いていた。
「ちょあっ……!!」
部屋から飛び出した少女の足元には、積み上げられた雑誌類が置かれていた。それも、積み重ねただけで縛られていないものである。
もちろん勢いよく飛び出した少女に回避できるはずもない。
雑誌は彼女の足を滑らせ、細い体を浮かせる。
倒れていく向きは、不幸にも階段の方向だ。
「いやァァァッ……!?」
体の支えをすべて失った少女は、頭から階段に落ちていく。
段差にぶつかるたびに揺れる視界に、次第に暗くなっていく意識は……
(あ、あれ……?)
一筋の光もない、暗い世界で彼女の意識は覚醒する。
縛られているような感覚がないはずの手足は、身長ピッタリの箱に閉じ込められているかのように、ピクリとも動かせない。
(暗いし、体も動かない……!! なんで……!? 口も……!?)
目は開けず、手足は動かせず、口も開けない。
しかし、元々開いているからなのか、耳はさわさわという風の音を拾うし、鼻には爽やかな香りが侵入してくる。
どうやら密室という訳では無いようだった。
(ここは、外……? なんで動けないんだろう……?)
努めて冷静に今の状況を分析しつつ、彼女はまず目を開こうと意識を向ける。もしもどこかに閉じ込められていたとしても、目隠しの感覚もないので目は開けるだろう。
ここが外であるのならば、なおさら簡単だ。
きっと恐怖から無意識に目を閉じているだけで、目の前が見えない恐怖をなくせば、いつも通り目は開く。
そのような憶測から、彼女は目に力を入れた。
(ドライアイとかじゃないし、ストレスでおかしくなったりもないし、パニックにならなければ……!!)
しばらく悪戦苦闘していると、暗闇に一筋の光が差し込む。
やはり目がどうにかなった訳では無いようだ。
問題なく目が開くと確信した彼女は、さらに目に力を入れる。
(お願い、お願い……どうなっちゃったのかわかんないけど、ここがどこか位は確認させて……!!)
光は、徐々に明るくなっていく。
暗闇は割かれ、目の前に広がったのは……
(草、原……? 見たことないくらい綺麗な……)
どこまでも広がっている一面の草原だった。
いや、ところどころには木々が生えているし、人の家もポツポツと建っている。
一面の、というのは語弊があるだろう。
現在地が他と比べて盛り上がっているため、遠くまで見通せる。その分集落を超えた先、川を超えた先、森を超えた先まで草原が見えているというだけだった。
しかし、見たことがない程に綺麗というのは正しい。
家屋こそあるが、その密度というのが現代日本とは思えないくらいに疎らであり、草木の生命力が段違いなのだ。
まるで、異世界に来たかのように……
(って、まさか……異世界転生……!?
だけど、動けないのはなんで……?)
目の前の景色に圧倒された少女だったが、気を取り直して現状について考え始める。
現在地、草原。日はまだ登り切っておらず、午前中。
なぜか身動きができず、声も出せない。
一体全体どういう状況なのだろう……? と。
だが、仮にもオタク文化に慣れ親しんだ者ならば、一度浮かんできた異世界転生かも……という可能性を捨てきれない。
そして異世界転生かもしれないとなれば、まともな思考などできるはずもない。
(ええい、ままよ! 異世界だったらなんでもできる!
動くと思えば動くのだー! う、ご、けー……!!)
思考を放棄した少女は、力任せに手足を動かそうと奮闘し始める。目もこじ開けられたのだから、体だって同じこと。
今草原が見えていることを根拠に、全力で手足に意識を向けた。すると……
(あ、ちょっと動いた気がする……!!
あれ……? でも、なんか変な感覚が……)
わずかに手が動いた感覚があり、さわさわという風の音が強くなる。同時に違和感も覚えたが、まずは動けることが大事だ。彼女は構わず動いた手に意識を集中させ続けた。
するとその甲斐あってか、手の動く感覚は徐々にはっきりとしてくる。今にも顔の前に手を持ってこられそうなほどに。
だが、実際に目の前に現れたのは……
(え、枝……!? 動いてるのは、枝……!?
え……私、枝? ていうか、木!?)
今までに見たことがない程に立派な枝だった。
そう、彼女が動かしていたのは木。
目が見えなかったのは目がないから、手足が動かせなかったのは人ではないから、喋れなかったのは口がないから。
今それらができるのは、神秘的な力で彼女がコントロールしているからだ。
『私、木に転生しちゃったのぉぉぉ……!?』
人影のない草原には、付近の村に届いてしまいそうな程に大きなテレパシー的な叫び声が響き渡った。