思えばこれが新たな幕開けの朝だった。+禁欲の始まり始まり
この国は〈ルースト〉といった。
名の由来は、大昔、そこがドラゴンのねぐらだったからだ。
そのドラゴンは何年もずっと眠っていたから、土が積もり草木が生え、とてもドラゴンが眠っているとは思えない程、大きな山にしか見えなかったという。
しかしそのドラゴンを神として祀っていた祠からは、確かに眠っている頭を確認できた。
エメラルドに輝く鱗に、村人達は全貌を見たことも無いが特別な何かを感じていた。
ドラゴンの鼻息は緑を豊かにし、時折零す涙は、水を綺麗にした。
とても大切な神だった。
いつも通りの豊かで平和な日常──、
そんなある時、空から黒い何かが降ってきた。
禍々しい色をした黒い塊は、ドラゴンめがけて飛んできたようにも見えた。
その黒い物体は祠を奥深くまで進んでいき、ドラゴンの額に張り付いた。するとエメラルドの鱗は徐々にくすんでいき苦しそうに悶たそうだ。
草木は枯れ、水は濁り、空気は淀み、天気は荒れた。
村人たちは生きることにおいて必要なものを、ドラゴンの鱗がくすんでいくのと同時に失っていった。
“生きよう”という、希望までも。
そこに、一人の女性が立ち上がった。
村長の娘だ。
悶苦しむ神を救おうと祠へ足を踏み入れたが生命力が足りず途中で息絶えた父の代わりに、彼女が立ち上がった。
瘴気に満ちた祠を、ただ一本の剣で突き進む。
禍々しくまとわりつく瘴気に立ち向かい、ドラゴンの額に張り付いた黒い物体を一突きした。
すると硝子が飛び散るように弾け飛んだではないか。
たちまちに厚く一帯を覆っていた雲は消え、太陽が差し、緑は青々しく爽やかな風に揺れ、水は以前のように透き通った。
悶苦しんだドラゴンはエメラルドの鱗を太陽に反射させ、空の彼方へと飛んでいったのだ。
ドラゴンは最後に、まるで感謝を述べるように、娘をじいっと見つめたという。
そしてドラゴンが飛び立ちぽっかり空いたねぐらには、徐々に人が集まり定着し、ルースト国が出来たのだ。
禍々しい黒い物体を一突きした村長の娘は、瘴気に当てられたせいか若くして亡くなった。
娘を称えるように立派な墓が建てられ、今ではその上に神殿が建てられている。
飛び散った禍々しい黒い物体はというと、ルースト国を囲むような形で魔窟と化した。
まるで、他国からの侵入を防ぐように、ねぐらを守るように。
禍々しい黒い物体が何なのか、誰がなんの為に飛ばしたのか、未だ真相は解明されていない。
「っていうこの国の建国記、メグちゃんは信じる?」
「っえーー。ぜったいうそだもーーん! ドラゴンなんて居たらちょー怖いしー。ぜっったい作り話だもん! まさかチーちゃん信じるの!?」
「私はぁ……、けっこうホントだと思うけどなぁ」
「えーーチーちゃん可愛い〜〜」
「ふふふ、千聖様が居るとなんだか楽しくていいですね」
「すみませんメルヴィンさん、突然お邪魔しちゃって」
私が申し訳なさそうに瞳を合わせると、「いえいえ」と微笑み首を振る王族付きの教師、メルヴィン。
ひとつに結んだ艷やかな黒髪が、さらりと肩から流れた。
私は現在、メグの王妃教育にお邪魔させてもらっている。
ハント公爵の執務室で目を覚ましたのが午前4時のことだった。
私がベッドとシャワールームを占領してしまっていたからハント公爵はソファーで寝ていたらしい。疲れているのに私のせいでまた疲れさせてしまったなと反省し、深々と頭を下げて執務室から出ないことを約束に、ハント公爵とシャワールームを交代した。
先程まで公爵が座っていたソファーに腰を沈めると、お尻がすっぽり包まれる。ただやはりベッドじゃないから寝心地は良くなかっただろう。
本棚にあった適当な本を広げ公爵を待っていたのだが、泊りがけで仕事をしていると勘違いしたメイドが私が居るとは知らずに朝食を運んできた。
ドアを開け、私と目が合った顔ったら。それはもう時が止まったとしか言いようがない顔だった。
私が居ては何かマズイことでもあったのか。
『ベビードールの女とは違う女だわ。やだ婚約者じゃない、どうしましょう昨日ちゃんと掃除したかしら。髪の毛とかアクセサリーとか落ちていなかったかしら』とか心配でもしているのか。
(って、流石に考えすぎ? まぁほんとにそんな日常があるのか疑問だけど……)
脳内処理が追いついていないメイドと暫く見つめ合っていたところにハント公爵もタイミングよく出てくるものだから、余計にパニックだ。
固まって動かぬメイドに、「あの、おはよう御座います……」と声を掛けたら止まった時がやっと動き出した。
慌ててもう一食分運んで来ると言ったメイドを公爵は引き止め、代わりに私の着替えを頼む。着替えを頼めば、「畏まりました……っ!」とまた慌てて出ていったのだ。
「……なんか、……恐がられてません?」
「ふん、取って食うわけでもなし」
「いや食いそうなんですけど」
「なに?」
「ふふっ。なんか、うけますね」
「はぁ?」
そんな会話を交わしながら、ハント公爵は私に朝食のサンドイッチを差し出す。
流石に全部戴くのは申し訳無いので、「じゃあ半分だけ」と有り難く戴いた。そういえばハント公爵と食事するのはこれが初めてかもしれない。
コーヒーを飲む姿もなんだか新鮮だな。躊躇いもなく砂糖を2つ入れた。案外甘いものが好みなのか、それとも疲れているから糖分を欲しているのか。
(今日疲れてるのは確実に私のせいだけど……)
メイドがドレスを携え戻って来ると、お召変えをされて、今に至る。
何処かの広い教室に、私とメグ、そしてメルヴィンの三人。
元々休日だったしメグの様子も見たかったのでお邪魔してみたのだが。まさかあんな光景を見せられるとは、このときは思っても見なかったのだ。
つるつると身体を滑る水滴。頭上から降り注ぐ粒は、ただ静かに排水口へと流れてゆく。
瞳を閉じても浮かぶのは、何故か彼女の姿だった。
釦は上まで留めているものの、サイズの合わぬ大きなシャツを着て、あろうことか脚まで出し、そのくせ見られても「あ。やば」と、まるで気にもしていない。
メグが言うには肌を出すことなど普通らしいのだが、文化の違いを受け入れるのはそう簡単ではない。
加えて女の裸など幾度となく見ているくせに私は一体どうしたというんだ。
どうしてだか、彼女の姿が離れない。
そもそも無防備過ぎやしないか?
男の部屋に女ひとりで。髪と肌を湿らせて。
鼻を擽る石鹸の香りと僅かに残るウォルスの香り。婚約者という立場を受け入れたのだから例え無理やり襲われても文句も言えぬのに。まぁそんな事をするはずもないのだが。
「ハッ」
婚約破棄するか結婚するまで禁欲生活か。
それなのに呑気なものだな。
こんな事が何度か続いてみろ。
「溜まったもんじゃない……」
つるつると身体を滑る水滴に言葉を乗せ、煩悩も一緒に排水口へと流したのだった。




