夏服
「そこには空気があるだろう?」
「そうだよね」
この人は眼鏡をかけている。
「でも、空気は見えないわけだ」
「見えるよ。だってほら、これが空気でしょ」
と僕が空中を指差してやると、この人はやれやれと首をふって「これは説得に骨が折れそうだ」と言いたげな顔をした。
「そういうことを言っているんじゃない。普通に考えていいんだよ普通に」
バス停の前を車が通りすぎていく。バスはまだ来ない。
この人はずり落ちそうでもない眼鏡を右の手の甲で勢いよく上げた。これから戦争をするかのような勢いで上げた。
「普通だよ? じゃあどうして空気が見えない石田君にはここに空気があるってわかるの?」
「…………。はあ? そりゃあ何もないところには空気があるだろ。あ、真空って意味じゃないぞ」
「どういうこと? 何もないところには何もないよ」
「…………」
曲がり角から夏服を着た女性が三人笑いながらやって来ていた。そして僕たちの横で止まって喋り続けた。
「……だから真空ってことじゃないんだよ。わかるか。物体がないところには基本的に空気があるだろう? だから空気はあるんだよ。だけれども、空気っていうのは無色透明、目に見えない」
「もういいよ。空気が見えるか見えないかの話は」
「良くない! じゃあお前には酸素も二酸化炭素も窒素も見えるのか? どれが酸素でどれが二酸化炭素でどれが窒素なんだ?」
「そんなのわかんないよ。そういうことじゃないじゃん。空気があるから空気が見えるんでしょ。酸素があるんだから酸素が見えるし、二酸化炭素があるんだから二酸化炭素も見えるってことでしょ。でもたったそれだけで、どこにどんな分子が漂っていてどこからどこまでが酸素なのかそうじゃないかなんてわかるわけないじゃん」
「…………?」
バスが来た。やっと来た。
「じゃあね。また明日」
「うん……」
僕は転ばないように気をつけてバスに乗った。
さっきの女子高生の内二人が僕より二つ前の席に座った。バスは走り出した。二人はあんまり喋らなかった。一人は携帯を眺めて、一人は外を眺めていた。だけど、気まずそうでもなかった。こういう状況に馴れているようだった。今、バス停はどんなだろう。もう一人の人は今何をやっているんだろうと、僕は思った。




