伯爵の抵抗、或いは悪鬼の妥協
彼がやって来る。
海霧の中を漂う古びたガレー船の上で、サルヴァトーレ伯爵は憂鬱な顔を一層曇らせた。その腹部にはいつものように一振りのカトラスが突き刺さり、そっと重ねた手を置く台となっている。伯爵は真っ白な視界の向こうから、そのうち一隻の船が来ることを予感していた。そしてそこに、厄介な人物が乗っていることも。
事の発端は少し前……。ただし霧の中で月日を数えていない伯爵に、実際の経過時間は分からない。とにかく、あの面倒な彼と出会ったのは五、六隻前の船だったと思われる。そのまだ記憶に新しい範囲で、彼は偶々この海域へやって来た。
最初、伯爵は彼も不運な風に吹かれた船の一員だと思っていた。だから常のようにその胸を貫き、共にハッピーエンドを迎えようとした。けれども彼は心臓を抉られて笑い、歓声を上げた。驚いたことに、彼もまた不死の身だったのだ。そして伯爵を仲間と呼び手を伸ばした。
誰かから手を差し伸べられるなど、伯爵は思ってもみなかった。そのときなぜ彼が手を伸ばしたのか、どうして自分を誘ったのか、全く分からなかった。ただその手がどうしようもなく恐ろしいものに見えて、掴み返す勇気が持てなかったのは事実だ。
そうして誘いを断った伯爵を残し、彼は霧の海域を出て行った。それでもう二度と会うことはないだろうと、伯爵は胸を下ろした。
しかし彼は二度目の訪問を自分の意志で果たし、その後もやって来るようになったのだ。伯爵は酔狂、という言葉を目の当たりにし眩暈を覚えた。真っ当な神経ではない。普通ならば避けるべき所へやって来ることも、こんな人間崩れに会いに来ることも、ただ無駄話をするためだけに海を渡ることも。常識的な考えが備わっていればするはずがないと思った。だが彼は酒を持ち込み、干した果実を持ち込み、塩漬けの肉を持ち込み、幾度となくやって来た。食べたくないと言う伯爵に食べさせ、飲みたくないと言う伯爵に飲ませ、聞きたくないと言う伯爵に話しかけた。その度に伯爵は嫌な思いを更新し、二度と会いたくないと都度思った。
それなのに、彼はその願いを聞き入れてはくれなかった。
霧の海域に船が入って来ると直ぐにそうと分かる。
その船の中にまたあの気配を感じて、今度こそ会うまいと伯爵は船の奥底へ潜った。
***
船首のあたりが俄かに白んだと聞いたとき、船長はまさかと思った。陸の物資を島へと運ぶこの航路は、もう何度も通った道で、例え嵐の中でも渡れる道だったからだ。だが知らせを受けて甲板へ出てみると、確かに海は真っ白な霧に包まれ、マストは途中から先が見えなくなっていた。大急ぎで進路を確認し脱出を試みる。怒号のような命令が飛び、懸命な操船がなされる。
そんな中で一人、甲板の手すりから手を振る男がいた。この一大事を理解しない奴のところへ船長は直ぐに飛んで行き、呑気な肩を掴んで作業に加われと叱責した。見れば男は東国からやって来たという旅人で、出航直前に乗せてくれと金を積んできた人物だった。
だが今は有事である。海に出れば船の乗組員は運命共同体で、旅客と雖も例外ではない。中へ入って排水を手伝えと命じると、男は船が見えると言って海を指さした。
船長はその言葉に一瞬、希望を見出した。急いで男が指す方向へと目を凝らす。だがやがて見えた船の造りに希望は絶望へと転じ、船長は顔を真っ青にして叫んだ。
「か、風を掴めっ! 荷を捨てろーっ! どの方角でも良いから走るんだッ! とにかく一番早く走れッ! ありゃあ、伯爵の船だ! お前ら逃げなきゃ死ぬぞっ!」
小さな商船に衝撃が走る。船乗りたちは一層ざわめき、慌てて命令に取り掛かった。船体についた小窓から荷が捨てられ、帆が風の向きに合わせて調整される。
けれども旅の男はそれを見て尚「勿体ない」と呟くばかりだった。
この期に及んで悠長なその態度に、船長の雷が落ちる。
「アンタも手伝え! 東から来たんじゃ知らないかもしれんがな、あのオールの付いた船は幽霊船だっ! あれに乗ってる伯爵ってのに会うとみんな死ぬ! だからアンタも早く手伝うんだ! こんなところで死にたかないだろっ?」
「幽霊船、ねえ……。彼、幽霊って言うよりはただの引き籠りですよ? 楽しいことをあれもこれも遠ざけて、一人で塞ぎ込んでいるだけです。ワタシが外へ誘っても、娯楽は罪だと言わんばかりの態度で。まあ、その嫌々渋っている顔が、ふと変化する瞬間を見るのが楽しいのですが。もうちょっと素直に出てきてくれた方がワタシも楽なんですけどね」
「は? 何だって? まさかアンタ、伯爵を知ってるのか……?」
声を張り上げ汗を垂れ流していた船長に対し、客人は涼しい顔で答えた。しかもその口ぶりは伯爵を友人か何かとして扱っているようで、実に親しげだ。幽霊船を恐れる様子など一欠けらも見当たらない。船長は訳が分からず頭の中が混乱した。
東からの旅人はにこやかに笑うばかりでそれ以上語らなかった。
そのうちにゴツリ、とガレー船の船首がぶつかり、全力で走っていたはずの商船が意外なほどあっさりと停止する。帆に受けていたはずの風が消え、完全に推進力を失ってしまっていた。
船長の顔がいよいよ青ざめ震えだす。他の船乗りたちもこれで終いだと天を仰ぎ、悲運を嘆いた。
だがしばらくしても噂の伯爵は現れず、靴音も犠牲者の声も聞こえない。二隻の周りをふわふわとした霧が覆うばかりで、辺りはしんと静まり返っている。船長がしがみ付いていた欄干の隙間から恐る恐るガレー船の上を覗いても、人影は見当たらなかった。
状況はまるで理解できない。しかし、逃げるなら今のうちだと船長は小舟を用意し始めた。それに気付いた船乗りたちも助かりたい一心で群がり出す。ロープがつけられ、食料が集められ、誰が乗るかともめ始める。
ただ一人、東国の男だけはじれったそうに床を蹴りながら幽霊船を見つめていた。
いよいよ小舟が海へと下ろされた。霧の中をそれで進むのか、と言うような小さなボートだが、幽霊船から離れられるのならと男たちは意を決する。だが垂らされた梯子を下りようとしたそのとき、割り込んできた剣が希望を切り落とし、人々を恐怖のうちに閉じ込めた。
梯子を刻んだのは東国の旅人で、男は近くにいた水夫の腕を掴むとそのまま幽霊船の際まで歩いて行った。
周りの船乗りたちが驚きで声もない中、腕を掴まれた本人だけが必死に抵抗を試みる。しかし旅人の力は人とは思えないほどに強く、どう暴れようにも解けない。やがて欄干に辿り着くと、旅人は手すりに水夫の頭を打ち付け、剣で背中側の服を切り裂いた。
僅かに引っかかった皮膚から赤い血が滲む。
「トトー! なぜ出てこないのですっ? もたもたしていると食料が逃げてしまうではないですか!」
船乗りたちは耳を疑った。幽霊船に対して男が話しかけことも、その内容にもだ。止めさせなければ、と誰もが思ったが体は動かなかった。連れていかれた一人は明らかに人質で、尚且つ生贄のようにも見えた。哀れな贄は恐怖で体が硬直し、欄干を掴んで動けなくなった。
霧の冷たさと目の前の恐怖が人々から血の気を奪っていく。
水夫の衣服が切り裂かれても幽霊船は静かなままだった。
しばらくして痺れを切らせた剣先が動き出し、今度は贄の皮膚へ直接突き刺さる。すっと何本かの線が引かれ、痛みに叫ぶ水夫を意に介すこともなく厚く皮が剥がされた。噴き出す血潮が遠目にもよく分かり、集まっていた船乗りたちの何人かが失神する。だが哀れな人間はまだ気を失わずに生きていた。
「……ああ、可哀そうに。痛みで跳ねて。打ちあがった魚のようですね。伯爵が来てくだされば、悶える間もなく死ねたでしょうが…。なぜ今日は出てきてくださらないのでしょうかね? 甲板にも姿が見えないし。せっかく会いに来たのに、居留守を使われるだなんて心外ですよ」
男はそう吐き捨てながら水夫の臀部に剣を立てた。叫び声とともに血だまりが広がり、甲板が赤く染まる。水夫が動かなくなると男はつまらなさそうに三つ編みを弄り、残りの船乗りたちを振り向いた。
そこへバンッ、という短い銃声が響き、東国風の小さな帽子が吹き飛ぶ。
仲間を殺された船長が意を決して放った一発が見事命中したのだ。
男がよろけると、どこからともなく一枚の布がひらりと甲板に落ちた。呪文のようなものが書き付けられた四角い布である。船長がそれに気を盗られた後で男に目を戻すと、美男だった顔の半分が歪み、普通だったはずの眼は白黒が反転していた。額に空いた穴から流れる血は黄ばんだ汁である。それも指先でひと撫でするうちに塞がり、あっと思った次の瞬間、銃が手先ごと床に落ちていた。
「ワタシに醜態を曝させるだなんて。酷いじゃあ、ありませんか」
「ばっ、化け物……!」
船長の絶叫が響き、男が人ならざる者だと知れ渡る。寄り集まっていた船乗りたちが一斉に散っていく。逃げ遅れた者は切り付けられて倒れ込み、また欄干から海へ落ちる者もいた。男は素顔を見られたのが酷く気にくわなかったようで、手を失い転げる船長に追い打ちをかけた。致命傷よりは浅く、かすり傷よりは深く切り刻む。船長が血塗れでのたうち回っても、もう撃って出る者はいなかった。
死に至らない傷が積もり積もって命を吸い尽くす。船長が動かなくなった頃には旅人の服は赤黒く変色し、甲板は錆びた鉄の匂いでいっぱいだった。
霧とは別の恐怖で商船が沈黙する。異形の男は船長の顔を剥ぎ、目玉を抉り、中身を検めるようにバラしていった。その耳を塞いでも響いてくる生々しい音が、まだ生きている船乗りたちの神経を蝕んでいく。
船長がただの肉塊に成り果てると、男は別の水夫に目を移した。恐怖で濡れた顔を吟味するように眺めてから、ナイフで甲板に固定する。泣き叫び命乞いをする水夫を見て、男は楽しそうに笑っていた。
「や、止めて止めて止めてッ! お願いします殺さないでッ!お願いします! お願いしますッ!」
「ははは、勘違いしないで下さい。ワタシだって別に貴方たちで遊ぶつもりはなかったのです。でも、伯爵が出てきてくださらないので仕方なく。…本当はつまみか、替えの体にするつもりだったのですから。それなのに彼ときたら、居留守なんてつまらない手を使って。それならここで貴方たちと遊んで待つしかないじゃないですか。じっと待つのは性に合いませんからね」
「ひぃッ!」
人間の体に薄く線が引かれ、また皮膚が剥がされる。男は細かく切り分けたそれを甲板に並べて馬の形にしたり、猫の顔にしたりして遊んだ。泣き叫ぶ声を聴きながらしばらくは楽しそうであった。
だがそれに飽きてくると、男は人間の懇願も聞かずに腹を裂き、ずるりと一掴みに臓物を引き出して見せた。テラテラとぬめる腸の、ひくつく様を見て水夫が息絶える。男はその最期をやはり物足りなさそうに眺め、慰みに心臓を一口啜った。
はあ、と物憂げなため息が漏れる。
食いさしの心臓を嫌がらせのようにガレー船へ放り込む。
恐怖で動けない人間たちは一人、また一人とゆっくり剥がされ、捌かれ、絶命していった。霧の中ですすり泣く声と、悲痛な叫び声が絶え間なく響く。そのうちに一際、甲高い金切り声の水夫がいて、その耳障りな音にさすがの男も顔を顰めた。遊ぶよりも先に喉を潰そうと狙いを定める。
だが彼の剣が水夫へ到達するよりも先に、水夫の心臓は別の剣で一突きに止められた。
それを見た男が後ろを振り向き嬉しそうに笑う。
「やっと来てくれましたね、トトー。今日は随分とお寝坊だったじゃないですか。全員の悲鳴を聞かせないと起きないかと思いましたよ」
「……酷い事を」
親しげに愛称を呼ばれた伯爵は、その麗しい貌を悲しみで憤らせていた。銅色の真っ直ぐな長髪がベールのように悲嘆を縁取る。無残に弄ばれた死体を見て、伯爵は実に悲しそうであった。苦痛と恐怖のうちに息絶えた死者を弔うように、清らかな涙が頬を伝う。
男はその一滴を、少しむくれながら掬ってみせた。
「酷いのはどちらです? せっかく友が会いに来たと言うのに。どうして直ぐに出迎えてくださらなかったのですか? ワタシの気配も、呼びかけも、届いていたでしょう?」
「わ、私は貴方に会いたくないと何度も言っているではないですか! もうこんな事は止めてください、玉霊さん…。私は貴方と会えば会うほど、死期が遠ざかる気がするのです。早く死にたいのに、それなのに、貴方のせいでっ、だから……」
「言い掛りも甚だしいですね。数百年も飲まず食わず、首を跳ねても心臓を串刺しても死なない体をワタシのせいにしないでくださいな。ワタシと遊んだって何も変わりませんよ。貴方はもう人間として終わった後で、今は死と無縁の不死者なんですから。消滅を願うのは貴方の勝手ですが、その日が来るまでワタシに付き合ってくれても良いではありませんか。唯一の仲間に無視されるだなんて、ワタシ物凄く悲しいです。ええ、とても悲しいです。ああ、ほら、涙が出るほど!」
「か、からかわないで下さい! 泣きたいのは私の方っ…」
玉霊と呼ばれた男は血で濡れた指先でわざとらしく自分の目元を拭ってみせた。少しも湿り気のない目尻が、紅のようにねっとりとした朱色で鮮やかになる。一方の伯爵が本当に泣きそうな顔でそれを責めると、他からはすすり泣く声が聞こえた。
霧に包まれ、血に塗れた甲板で、商船の船乗りたちは最早、生きた心地がしなかった。恐怖で心臓が押しつぶされ、独りでに死んでしまいそうだった。そんな彼らが震えながら祈るように泣いていたのだ。
伯爵はハッと我に返り、彼らを心から不憫に思った。
そして人々を恐怖から救うために、カトラスを強く握りしめた。
「ああ、可哀想な人たち……。どうか安らかな終わりを…」
幸福や悦楽などとはかけ離れてしまった洋上で、せめてこれ以上苦しまないようにと、伯爵が救済の手を伸ばす。痛みを感じる間もなく一瞬で終わらせることが、伯爵に出来る唯一の方法だった。
その手際を横目に玉霊はバケツで海水を汲み上げ手を洗う。彼のべたついた手袋がただの真っ黒な手袋に戻ったとき、すすり泣く人間は一人もいなくなっていた。
***
霧に包まれた甲板がいつにも増して死の香りで充満していた。
伯爵は起きてしまった惨劇に心を痛め、その全てを被るように己へ刃を向けた。そうして普段なら一時の眠りにつくのだが、この日は玉霊がそれを妨げた。奪ったカトラスの柄で伯爵を殴り倒し、右肩を串刺しに甲板へつなぎ留める。更には呻く伯爵へ跨って、まだ自由だった左手のひらもナイフで固定してしまった。
琥珀色の瞳が戸惑いで見開かれる。
玉霊は標本になった友を見下ろした。
「ふふ、良い表情ですね。驚きと焦り、と言ったところでしょうか? 珍しい蝶をはりつけにしたようで、なかなか綺麗ですよ。今日の自殺は後にしてください。ワタシ、もう散々待たされたのでこれ以上は嫌です! 妥協してここで飲みますから、このまま待つように。これ以上手間をかけさせたら承知しませんよ」
「なっ……私は、貴方を避けていると…こんな………、ここまでして……?」
頭がおかしい。腹の上でわざとらしく怒ってみせる玉霊を見て、伯爵は改めてそう感じた。面会を拒絶されたことに対して、血と悲鳴を浴びせて呼び出す蛮行。酒の相手をしろと言ってこちらを串刺しにする強引さ。あれだけ声を荒げて断りを入れたというのに、彼は元から聞く気がないのだ。
力いっぱい差し込まれた剣は本当に深々と刺さっていて、身じろぐ程度では少しも緩まなかった。
呆然としたまま真っ白な空を眺める。伯爵はどうすれば良かったのだろうか、と纏まることのない考えを頭に巡らせた。顔さえ合わせなければ、と思っていたのに。目の前で非道な行為が行われるだなんて思ってもみなかった。あのままでいたら、本当に船一隻分の人々が恐怖のどん底で死んでいただろう。悪鬼と呼ばれる男を自分は甘く見ていたのかもしれない。酒の相手を串刺しにしてまで待たせる神経は、どう考えたって狂っていた。
その狂った悪鬼が、酒瓶を両手いっぱいに機嫌よろしく帰って来る。
当然のように伯爵の腹の上へ座り直し、一本目を開ける。
ぷはっと漏らされた吐息は、まるで一仕事終えた自分を労わるかのようだった。
「う~ん、霧で何も見えませんけど、甲板で一杯やるってのもたまには良いですね。潮の香りがして。……ふう。それにしても今日は散々でしたよ。ワタシに会いたくなかった? ハッ、ご冗談を! 貴方、鏡を見ないから自分がどういう顔でワタシと居るのか知らないだけでしょう。そりゃあいつでも最初はむっすり鬱々とした表情をしてますけど。酒を飲んだり、菓子を食べたりする間に泣いちゃったりしますけど。でも陸の話に興味深く耳を傾けたり、ワタシが語る他人の話に一喜一憂したりもしているんですよ。あれを愉しんでいないとは言わせません。貴方はただ、愉しんでいる自分を認めたくないだけです。もう少し素直になってください。素直に、ワタシと居るのが愉しいと言ってご覧なさい。声に出せばその分からずやの頭でも少しは理解できるでしょう。口に出さずに頭の中でぐるぐる考えているから駄目なのです。言葉にした方が分かりやすいものなのですよ、そういう事は。千年以上、人間を見てきたワタシが言うことです。信憑性がまるで無いとは言わせませんよ」
玉霊は豪雨のように伯爵へ言葉を浴びせながら、直ぐに葡萄酒を飲み終えた。二本目も瓶から直接呷り、あっという間にカラになる。今までのように伯爵へ一杯分けることも、彼の様子を窺いながら飲むこともしなかった。飲みたいように飲み、言いたいように捲し立て、時折腹の上で伸びをしたり足を振ったりする。伯爵はその不遜な態度に苛立ちつつも、標本から抜け出す手段を得られなかった。
三本目が空き、四本目が転がり、五本目が終わって六本目に手がかかる。玉霊は磯の香りとともに飲む酒を満喫し、機嫌良く一息ついた。その真下では美男がむくれ、眉間に皺を寄せている。
玉霊は酒を手放し、やっと現れた肴を鷲掴みにした。
彼にとって、今は酔うことよりも、この本人が思っている以上に豊かな表情を眺めることの方が楽しいのだ。
「ふふ。つまらない、って顔に書いてありますね。視線が強すぎて、肌に突き刺さってくるようですよ。言いたいことがあるなら、睨むだけじゃなくて口にすれば良いのに」
「貴方が嫌いです」
「ふ、あはは! 良いですね。その調子。今の返事は早かったですよ!」
「……騒がしいのですよ、貴方…」
悪鬼の酷い悪戯に、伯爵は本当に気が立っていた。幾百年ぶりかの怒りが声の調子を下げ、眉間に悲哀ではない皺を寄せていた。右手の近くに転がってきた空き瓶を、不躾な男に投げつけるぐらいには業腹であった。
動くと傷口が復活して体に痛みが走る。それでももう黙っているのが癪で、伯爵は左手のナイフを握りしめた。
甲板がじわじわと軋んでヒビを広げていく。
「貴方は私の意見を聞かないし、私の考えを受け入れないし、私の願いを叶えてもくれない! 私が思い悩んでいるときも、苦しんでいるときも、悲しんでいるときも騒いで! 笑って! 勝手に楽しんで! 騒々しいったらないのですよ! いったい何のつもりなのですかッ? 何がそんなに楽しいと言うのですかっ? なぜそんなに、楽しいと、思えるのですか……っ。こんな、こんな私の前で。楽しいことなど、何一つ持っていない私を前に! 私の存在がそんなにも可笑しいですか? 何が。何がいったい。楽しいとは、何を、何を指すのですか? 何が、何が楽しいのですか? 私は、分からない。いつでも笑っている貴方が分からない。何が楽しいのか分からない。何を楽しいと感じて良いのか分からない。私は貴方のように振舞えない! 楽しみなど、私からは程遠い……逆さまに映る船影のよう…。私に楽しみを感じる心など残っていない……持ち合わせていない………。貴方が目の前で楽しそうにするのを見て、苦しむばかり。貴方が悪戯に私をからかうせいで、私は、私はただ只管に苦しむのです。もう、私は、もう、苦しみたくない…。貴方といると辛い。貴方が嫌い。貴方が私の前で笑うから、私は私が笑えないと気付いてしまう。貴方さえいなければ、貴方にさえ会わなければ、私は、私は、ここで、一人、静かに、嗚呼、ハッピーエンドを………いつか、いつか私にだって…、幸せな、最期が……。ハッピーエンドが、欲しいだけなのに…」
左手の傷口からぼたぼたと海水が滴り、怒りが流れて悲しみだけが残っていった。深く突き刺さっていたナイフがとうとう引き抜かれ、濡れた先端が希望のようにキラリと光る。伯爵はその眩さに魅せられて、自分の喉元へ突き立てた。
クジラの噴気のように濁った海水が高く噴き上がる。それを頭から被った玉霊は舌打ちをしながら直ぐにナイフを取り上げ、両手で首を絞めて穴を塞いだ。
がふ、ごふっと伯爵の口から海水が漏れる。ごぼごぼと噎せるうちに喉が元通りに戻っていく。
意識を飛ばすには至らなかったが、伯爵の視線は朦朧としていた。
「……はあ、やっと楽しくなるかと思ったのに。本当にままならない人ですね…」
虚ろになった友を見て玉霊は心底悲しそうに呟いた。傷口を塞いでいた手を引き、酒を諦めて伯爵の上へと寝転がる。腐敗した海水でぐちゃぐちゃになった衣服は強い潮の香りがした。
***
真っ白な空は、ぼんやりと日の光を反射するばかりで何の面白味もない。
つまらない、つまらない、ただの霧景色である。
当てにしていた楽しみに悉くふられ、さすがの悪鬼もため息をつく他なかった。
「ワタシは、貴方と楽しい事をしたいだけなのですがね…。何をそんなにも恐れているのでしょう? 貴方には物事に一喜一憂する心があって、喜怒哀楽する感情があって、世の楽しみを感じるには十分だと思うのですが……。でも、今日は本当に虫の居所が悪いようなので、ワタシが折れるしかありませんね。いいですよ。貴方が眠りたいと言うのなら、ワタシも一休みするとしましょう。これで一つ、貴方の意見を聞きましたからね。起きたら、少しぐらい、ワタシの話も聞いてくださいよ。でないと、ワタシだって怒るし、拗ねますよ。ワタシ、楽しくない事は嫌いなのです。だから楽しい事を、貴方としたい。ワタシの新しい愉しみと、楽しい事を…。ねえ、ワタシのお願いは、そんなに無茶な話ではないでしょう? ねえ、トトー。千年を越えて初めて出会えた同類を、友と呼んで喜んだって、それを騒がしいなんて言わないでくださいよ。浮かれたって仕方がないじゃないですか。初めての対等な相手なんですから」
玉霊は訥々としおらしい小言を呟いた。
けれども肝心の伯爵はただか細い息を繰り返すばかりで、何の反応も返ってこない。あまりにも素っ気がないので顔を覗いてみると、蜜色の瞳はいつの間にか閉じられていた。
一際大きなため息が誰に届くこともなく吐き出される。
ひんやりとした霧の冷たさが、感覚の鈍い体にも突き刺さるようだった。
友の様子に項垂れた頭がそのまま落ちて、子供のように不貞腐れる。もう誰も相手をしてくれる人はいない。波がゆらゆらと船を揺すったが、心地よいゆりかごには程遠かった。
END 2019/2/19