或る告白の回想
誰も覚えちゃいないとは思いますが、
かつて投稿した拙作「ある告白」を改稿したものです。
古今、所謂殺人鬼と呼ばれる者は度々「吸血鬼」と目されることがあったと記憶している。それらの人々は決して初めから異常者として存在していたのではなく、普段は善良な一市民として自らの獣性とか異常性とかいう物をひた隠しにしつつ、平穏な暮らしを営んでいるものではないかと私は思う。
だから周囲の人々は、往々にしてそうした「吸血鬼」の獣性に気が付かずにいるものではないだろうか。それは私自身とて例外ではなく、かつて身を以ってそれを教えられたことがあったのである。
今でこそ退いてしまっているが、私はかつて、ある地方都市の中学校で教職についていた。その都市はさして大きくも無く、さりとて小規模すぎるというのでもない。どこにでもあるような(実際はそんな事は無いに違いないが、あるいは私の記憶が薄れてしまった事が原因であるかもしれない)街であった。教師だった頃の私は、その代わり映えのしない街で、実に平凡と呼ぶにふさわしい人生を歩んでいたのである。
しかしながら、その平凡の中にも時には突出した変事なる物が発生してしまう事は、それに対して全く否定する材料に欠く事が否めない。
私の場合、それは、ある美しい容姿をした少女に関する変事であった。
ある日の昼下がりの事である。
2時間目の休み時間ではなかったかと記憶しているが、私が受け持っているクラスの××××という女子生徒が、職員室に居る私の元までやって来て「相談がある」と言ってきた。周囲は他の教員や職員、さらに生徒達の会話や日常の音によって少しばかり騒がしく、彼女の声はその喧騒の中に消え入りそうな色があった。
私はどうにか彼女の声を聞き取ると、その場で相談に応じようと口を開きかけたが、彼女が持ちかけてきたのは「他の人に聞かれるのは具合が悪い」話であるらしい。
もごもごと、何とか口元を動かしているのがようやく確認できるくらいの最低限の唇の動きに見えた。「放課後に空き教室で待っています」と心持ち小さな声で言って、彼女は私の前から駆け出した。呆気に取られた私が、パクパクと魚のように口を上下させるのがその場に残るのみであった。
中学校の生徒というものはちょうど、子供で大人でもない、思春期の只中にある年頃である。勉強、進路、恋愛。彼らは彼らなりに悩みという物を抱えている。それらは子供の身からすれば思ってもみなかった事に懊悩する羽目になっているし、大人の身から考えれば意外と何でもない事に必死になっていたりするものである。
今までにも何度も生徒から相談を受けてきたし、私自身、中学生の時分に教師に相談した記憶があった。そういう訳であるから、私は何の疑問も抱くこと無しに、放課後に××××の相談に応じるべく空き教室へとやって来たのだ。
その日は夏から秋へと移ろうかという時季であり、暑いのか寒いのか判別し難い中途半端な空気が漂っていた。どこを歩いても温く不快な、まるで粘液のような空気が滞留し、私の肌に絡み付いた。確か、平年より少しだけ気温が高かったという。
私が空き教室に入ったのは午後の3時で、太陽が空の中心からずれ始めてから結構な時間が経っていた。そのため暑さ自体はかなり緩んでいたはずだが、これから何がなされるのだろうという奇妙な緊張を感じて、私は適当な椅子に座りながら、しきりにハンカチで額を拭っていた。
何とも不思議な事である。教室に入るまでは何の疑問も緊張も抱かずに居たはずが、待っている間に緊張を感じるというのは。××××が他の人に聞かれたくない話を私にしようというので、心中に内在していた不安の種が芽吹きだしたのかもしれない。
この「空き教室」というのは、生徒数の減少と共に使用されなくなった教室である。撤去するためのスペースが確保できなかったとの事で、机も椅子もそのまま。非行に走る生徒達の溜り場になっているとか、自殺者が出てから幽霊が目撃されるようになったとか、そうした問題は現実的とオカルティックであるとに関わらず、少なくとも私が知っていた限りではそうした物騒な話は存在しなかった。使わないなら閉鎖しようという意見に対しては明言を控えて「なあなあ」の状態が続いていた。
その状態になってから既に10年近くが経過していたため、私がその場所に入った時には、あまり直前に人の使用した痕跡めいた物は何一つ残っていないような印象を受けた。もっとも、かつての生徒達の日々の生活の営みが――そのほとんどは落書きという形によってだが――結構な数で残されていたようなのだが。
××××が空き教室に入ってきたのは、私に遅れる事およそ10分ほど経過した後だった。私は××××がやって来るまで腕時計にしきりに目を落としては時刻の確認をしていたから、今でもはっきりと覚えている。私が彼女に座るよう進めると、××××は辺りにあったいくつかの椅子から適当に一つを取り、軽く埃を払い落としてから私の眼前に椅子を引き摺って、それから座った。その時の彼女の表情は、動揺とも歓喜ともとれるような……どこか複雑なものだったのだ。
私の顔を正面から見据えようとする××××。私よりも背の低い彼女は、ちょうと上目遣いの状態になりながら私の顔をじっと見詰めた。
ここで、××××という少女の容姿について、少しばかりの説明をしておかなければなるまい。
多分に私自身の主観が挿入されてしまっているであろう事は否定しきれないが、彼女は世間でもそうそうお目にかかれないのではないかというような、俗世を離れた清らかな世界からやって来たかとも思えるような――端的かつ古臭い表現をするならば天女のような美少女であった。
雪のように真っ白い肌と夜の闇よりなお深いとも思われる黒さの髪は、肌と見事な対照を成していたし、形の良い眉、ふっくらとした瑞々しい唇、大きく愛らしい両目――そのいずれもが完全で絶妙な調和を保ち、また、そのどれか一つでも仮に神様かお天道様のいたずらで別の形に造られていたら、元の容姿に比類することはできなかったであろう。
当時、私はすでに妻子を持ってはいたが、情けなくも時にはボーッと××××に見とれてしまう事もあった程である。もちろん、周囲の男子生徒で多少なりとも彼女を意識した者は数多いであろうし、むしろ関心の無い者の方が少なかったのではないだろうか。
学校中の憧憬の視線が彼女に注がれていることは、校内での周知の事実であったように思う。
口さがない一部の生徒達の間では、彼女は中学生にして何人も男を手玉に取っているとか、かつて恋人であった男の子供を身篭って堕胎したとかいう、一種の嫉妬と羨望に起因するのではないかと思われる不穏当な噂が囁かれていたようである。
そのように可憐なること真に無比である××××は、見上げた私の顔からさっと視線をそらすと、そのまま顔を自分の膝に向けて俯いた。何か思うところが……ためらいでもあるのか。そのまま「ふっ」と息を吐くような音がし、それから少しの間沈黙が続いた。
滞留し、沈滞する温い空気が溢れ、心中の状態に由来するのであろう熱が、ゆるゆると私の上半身を支配し始めていた。何度も何度もハンカチで額の汗を拭った。その間も××××は俯いて押し黙ったままであった。
しかし、そのうちに覚悟が決まったと見えて、開口一番、彼女は「先生、先生はエリザベート・バートリーという人を知っていますか」と尋ねてきた。顔を上げ、明確な決意の火焔を宿した二つの眼の球をこちらに向けている。随分とはっきりとした口調で言い切ったものだと驚かされたものである。
だが××××が口にした「エリザベート・バートリー」なる名前は、その時の私には全く聞いた事の無い名だった。聞いた事は無かったが、さすがに女性名であることだけは漠然と解る。
「いや、知らないな。女優か誰かかい、外国の」
知らない名前を出されたことによる若干の動揺を覚えていた。私はきっと、いやにわざとらしい作り笑顔を見せていたに違いない。
「違います。彼女は殺人鬼ですよ」
「殺人鬼……?」
私は××××の口から直接にその「エリザベート・バートリー」なる名前を聞いたとき、私の知らない外国人の女優ではないかと思った。そして彼女はその女優に憧れて「自分も女優になりたい」とでも言い出すのではないか。この相談は、いわば進路相談ではないか……というくらいに飛躍した考えを持ってしまった。
くどいようだが彼女は非常な美貌を持つ少女であり、恐らく女優だとかの世人によく知られるような職業にもしも就いたとしたら、それこそ多くの人気を獲得するに違いないと思っていた。だから、虫も殺さぬような可憐な容姿をした彼女の口から「殺人鬼」なる説明が飛び出した時はさすがに驚いた。
極力、その驚きを顔に表さないように努めたつもりだったが、動揺を堪え切れずにやはり幾分かは顔に出てしまったらしい。××××は私の顔を見据えるとクスクスと微笑んで「彼女はとある貴族の妻でした。歳月と共に衰え朽ちてゆく自分の美貌を保つために数百人の少女を殺してその生き血を浴びていたといいます。血を浴びる事が彼女にとっては最高の美容法、若さを取り戻すための、何にも代え難い至上の妙薬だったのでしょう」
と、さらなる解説を行った。
「し……しかし、それが君と何の関わりがあるんだ」
私の肉体は、激しく発汗を行っていた。殺人鬼に関する講釈への驚きとこれから何が始まるのかという不安が胸をギリギリと締め付けていたが、もう手の中のハンカチで汗を拭くことはすっぽりと意識の中から抜け落ちてしまっていた。だから我知らず、手の中のハンカチを強く強く握り締めていた。
××××がそんな私の様子を知ってか知らずか、なおも話を続けようとしている。その顔をチラと見たとき、話を始める直前の状態をさらに増したかの如き火焔が、彼女の双眸から轟轟と音を立てているようにさえ錯覚してしまった。つまり、それだけ××××は私に対して投げ掛けている自分の言に深く陶酔していたという証である。
私は次第に恐ろしくなった。終いには顔を伏せて自分の膝ばかりを考え無しに凝視するようになってしまっていた。これでは最初と立場が逆ではないかと思った。
「私は自分の事を、エリザベートと同じなんだと思っているんです。誰かの血を浴びないと、自分の容姿が日々醜く老いていくような感じがしてたまらなく恐ろしくなるんです。もちろん血は生きるために必要な糧では決して無いのだから、飲んだりする訳ではないのですが。ともかくも、それを最初に自覚したのは4,5歳の時でした。もっとも、その時は自分の容姿についての自覚など無きに等しいものだったのですけど。
事の起こりは簡単です。ある日、一緒に遊んでいた友達の女の子が転んでケガをしてしまって、心配した私は友達の傷に少しだけ触れてしまいました。そうしたら、友達の血が付いた指の一部分が……とても、とても綺麗になったように見えたんです。それが最初でした。もしかしたら光の加減かも、単なる錯覚かもしれないと、今となってはそのように思わないではないですが……やはり幼児体験というのは強烈な物だと思います。脳味噌の可塑性がまだ十分に残っていて、なおかつ人間としての心の形がまだしっかりと定まってはいない時期の出来事なのですから、この経験が私の心のある一点に強烈な証を刻み付けてしまっていたのだとしても、何も不思議な事はありません。
小学校に入学すると、あの血による綺麗な肌をもう一度見たくてわざと体に傷を付けたり、家やら学校の近所から――もちろん法に触れない程度の行動には違いありませんでしたが――小動物を捕まえては切り刻んで、その血を塗りたくってみました。私はそれを誰にも話したり教えたりする事は決してありませんでした。誰かに教えると、あの綺麗な肌の思い出が脆くも崩れて失われてしまうような気がしてならなかったのです。
それほどの配慮を行ってまで血を求めたけれど、自分の血や動物の血はダメでした。どういう訳か汚くなるばっかりで一向に綺麗には見えません。それに加えて、自分の体から血を流すようにするというのはある種の自傷行為です。幼い頃は親に裸を見られるのは珍しい事ではありません、すぐに私の傷ついた肌は両親に見咎められてしまったのです。言うまでも無く、随分と大きな騒ぎになりました。母がただただ泣いていたのを鮮明に覚えています。
それもあって、次第に私はその行為をおかしな事だと思って封印してしまいました。
小学校6年生くらいになると、自分の容姿がどんなものなのか分かってきました。そして、それがいつかは廃れてしまうことも。その頃になると、いくら子供とはいえある程度の分別や観察眼が身についてきます。今まで気が付かなかった素晴らしい事も恐ろしい事も知るようになったのです。子供の頃は世界の何よりも誰よりも美しいと信じて疑わなかった母の姿も、齢を重ねるごとに皺を刻んで小さく変化し続けている事をまざまざと思い知らざるを得ませんでした。それというのも、全ては老いのためです。老いはどんなに壮健な人をも、どんなに綺麗な物事をも死と消滅と忘却の縁に追い遣ってしまうのです。私はそれが怖かった。いつかは私も母のように老いた顔を引っ提げて人の視線を受けなければならないのだと思うと、たまらなく不安になった。
それでも私は血を求めることを封印していました。やはり、それまでの短い人生で構築された道徳観や倫理観がまだまだ健全に機能していたのでしょう、
けれど中学生になってからは、もう本当に我慢できなくなってきたんです。同年代の女の子を見ると、その血を肌に塗りたくて仕方がなくなるんです。友達の肌を見ていると、あの血管の中にはどんな色艶をして血が巡り回っていて、肌にどんな変化を与えるのだろうとか、そんな事ばかりを考えてしまうんです。
あんな断崖のような深く醜い皺が私の顔に刻まれるなんて言う事は本当に耐え難い。それを思うと、私は例えどこであっても身悶えしないばかりに苦しみました。
その頃でした、たまたま読んだ本にエリザベート・バートリーの話があって……。次第に私はこの人と同じなんだろうと思うようになりました。」
××××はここまで一気に話すと、大きく深呼吸をした。彼女の半生とも言うべき長い口舌はやはり、話者にかなりの疲労をもたらしたらしい。彼女が僅かばかりの休息をとらんとしてるその一瞬、私の意識の中を幾つかの思考が駆け巡った。
……この少女は私に長々とした冗談を話しているのだろうか……
……この少女は自身の妄想をひたすら語っただけではないだろうか……
……この少女は作家にでもなるつもりで、創作した物語を話してみたのではないだろうか……
だとしたら、あまりにも悪趣味だ。あまりにも馬鹿馬鹿しい。まるで三文怪奇小説の筋をそのままなぞったようではないか……。
「それで。一体君は何のためにこんな話をしたんだい?」
笑顔、だったと思う。彼女の執着――「血液」に対してとも「美」に対してとも考えられるが――を知るにつけ、私は落ち着きを失っている自覚をしなければならなかった。顔面の筋肉がまるで麻痺したかのようだった。きっとひどく不恰好な作り笑顔だったろう。その場に必要の無い表情だったのかもしれないが、私にできるのはそのくらいがせいぜいだった。××××が私の作り笑顔を見て「冗談です」と言ってくれたら良いのに、と、数秒の間に何度考えたことだろう。
「私もとうとうエリザベートと同じになろうと思ったからです」
彼女の口調は実に明瞭、かつ自信に満ち溢れたものだった。
「もう我慢なんてできません……!だから私がエリザベートと同じになる前に、本物の殺人鬼になってしまう前に、誰かにこの話をしてスッキリとしておきたかったのです。どうしても、誰にも打ち明けないまま行動に移るというのだけは私の自尊心が許しませんでした。それだけです。ここで私が話した事は、自分の両親にも打ち明けていません。先生、あなただけが、××××という人間のある一面に対する、最大級の証人となるのです。
こんな変な話を聞いてくださって、本当にありがとうございます」
そう言うと××××は椅子からスックと立ち上がって教室を飛び出し、一体どうやっていままで隠し通してきたものか、懐から鈍く光るナイフを取り出して、呆けた顔で椅子に座りっぱなしの私を尻目に、近くを通りかかった女子生徒にまッしぐらに突っ込んでいった。
その時の彼女の表情はこの世のものとは思えぬ程の、これ以上無いという程の空前と言うべき喜びに満ち溢れていた。
その顔をした××××は、やはり、恐ろしいまでに美しかった。