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近く彩る恋模様  作者: 葵翠
【菓子の縁】
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神童に魅せられた俺1

楽しんでいただけると嬉しいです。

 ヘリー。かつて一度たりとも注目したことのない女子。

 だがそいつの菓子は俺にとって重大な衝撃を与えた。

 菓子世界の神童。この町でそう呼ばれたところでたかが知れてるなんて思っていた俺は額を擦り付けて土下座すべきだろう。


 ――あの日以来、俺は菓子を食っても満たされぬ思いに苛まれていた。

 菓子は確かに美味い。だがあのヘリーのマカロンが圧倒的に美味かったのだ。あんなものを口にしてしまっては、どんな菓子を食べても味気ないと心の片隅で訴えるのだ。

 そしてそれ故に、俺はヘリーを見続けた。


「おはよう〜」


 やや間延びした口調で、どちらかというと話はするよりも聞く方が多い。

 勉強は可もなく不可もなくだろうか。どうやら計算よりも暗記の方が得意な気はする。

 運動が苦手なのは一目でわかるとして、やっぱり何かを食ってる時は幸せそうだ。


「これ、美味しい~」


 などと言って他の女子と飯を食ってる姿は本当に幸せそうで、思わずこっちの気が緩む程である。

 顔も身体も丸いが、他の女子よりも白い肌はもちもちすべすべで触り心地が良さそうだ。


「おい、ヨエル。最近どうした?」


 暇さえあればヘリーを観察している俺に男子達はいろいろと声を掛けてきている。


「最近すげぇ不機嫌そうにヘリー見てないか?」


 あまりにも真面目に見すぎてて、男子達は俺がヘリーに恨みや文句があるように感じているらしい。


「アイツなんかやったのか?」


 やった。

 いや正しくはヘリーは意図せず、俺が勝手にやられたんだが。

 あの壮絶なマカロンと衝撃を思い出し、俺は無意識にため息をついてヘリーから視線を外した。


「いや、なんでもない」


「なんでもないって感じじゃねぇだろ」


 そう突っ込まれて話せる内容でもない。

 ヘリーの菓子は食いたいが、菓子に関する事実を誰にも知られなくない俺はただ遠くから見ることしかできないのだ。


 そんな、ある日。

 仲間内で遊び、遠くまで飛んでしまったボールを追いかけたところで甘い香りに気がついた。

 この匂いはなんの菓子だろうか。

 犬のように鼻をひくつかせて、誘われるように進んだ先にヘリーがいた。

 緑あふれる庭の奥、そこは宿直室があった。今はたまに教師が泊まり込む時だけしか使われていないはずのそこで、なにやら一人楽しそうに手を動かしている。

 小麦粉にバターにミルク、その他の材料はよくわからないがたくさん並べ立てられた台に向かって、ヘリーは鼻歌交じりに泡立て器を片手にボウルの中をかき混ぜている。

 その動きのなんと滑らかなことか。


 俺が眼を見張る中でヘリーは食い物を食ってる時の何倍も楽しそうな顔で、運動が苦手とはまるで思えないほどの速さと細かやさであっという間に生クリームを仕立て終えた。


「出来上がり〜」


 ヘリーがそう独り言ちて、それから少し離れたところに逆さにされていた真ん中に長い筒がついた型をひっくり返した。

 ナイフを型の縁に入れて切り離していく。

 漂う香りの中に含まれているのは紅茶だろうか。

 そんなことを考えていると、やがて姿を現したのは黒いつぶつぶの混じった黄色い生地のシフォンケーキだった。


「うん、いい感じ」


 そう顔を綻ばせたヘリーはシフォンケーキをカットし、そのうちの一切れを皿に盛り生クリームを添えた。


「よしっ、と」


 完成した一皿に満足そうに頷いたヘリーは残りのシフォンケーキと生クリームを簡易容器に入れると、それを手に宿直室を出ていった。


「お待ちどうさま〜」


「わぁ、ありがとう!従姉妹が喜ぶわ!」


「どういたしまして〜。一切れだけいただくね」


「もちろんよ。むしろ材料費と一人分だけで作ってくれるなんて、本当にいいのって感じだわ」


「私はお菓子が作れればそれでいいから」


 なんて話が聞こえてきて、目の前に残った一皿がヘリーの分なのだとわかった。

 生クリームの添えられた紅茶のシフォンケーキ。

 その皿に視線を戻すと、より一層美味そうに見えて思わず唾を飲み込む。

 最近いくら食べても満たされない美味い菓子への飢えが、俺の中で囁く。


 食っちまえ。

 アレを食えば満たされるぞ。

 生クリームもついた贅沢なあのシフォンケーキはさぞ美味いことだろう。


 視線も思考もシフォンケーキに釘付けになって、もうその他のことは考えられなくなる。


「うん、うん、それでね――」


 辛うじて耳に入るヘリー達の会話は未だ途切れることはなさそうだ。


 今がチャンスだ。

 これを逃せば一生食べられないかもしれないぞ。


 そんな悪魔の囁きに――俺は開いていた窓枠に足を掛けた。

 まるで操られたかのように一直線に皿の前までやってきて、そこに用意されていたナイフとフォークで一口分を切り分け生クリームをつけて口へと運ぶ。


 美味い。

 まるで羽が生えたかのようにふわふわなスポンジはほんのり甘く、茶葉の香りが鼻を抜けていく。


「っ――」


 そこからはほとんど何も考えなかった。

 切り分けることすらもどかしく、シフォンケーキを手掴みして生クリームを付けて食らいつく。


 美味い。うまい、美味い。


 がぶがぶと齧り付き、指先に残った僅かな欠片を舐めとると、大きく息をついた。

 あのマカロンの時のように無心で食べてしまったが、口内と心は溢れるほどに満たされた。

 出来るならこれを毎日食いたいところだ。


 と――椅子に座りゆったりとしていると、あまりにも菓子に集中しすぎて聞こえなくなっていた聴覚が戻ってきた。


「いけない、早くしないと生クリームも作ってくれてたんだった!」


「気をつけて帰ってね」


「うん、それじゃあね」


 それは話し込んでいた二人が別れることを示していて、つまりは。


「やっべ……!」


 俺は大慌てで辺りを見回し、猛ダッシュで入った窓から飛び出した。

 窓の外へでてしゃがみこんだ瞬間にドアが開く音がして、間一髪逃れたことを悟った。

 ばくばくという心臓の音を感じながら壁にぴったりと背を貼り付けること数秒。


「ああ〜〜っ、なくなってるぅ〜」


 ヘリーの悲痛な叫びが辺りを響かせるのだった。

読んでいただきありがとうございます。

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