第六話 剣闘
試合開始の合図とともに対戦相手のベイズは、そのやや小さな体をさらに低くし、こちらをうかがいながら、私の左へ回りこもうとする。
盾を持っていない私は、左からの攻撃には無防備だ。やはり、この相手は剣を使った戦いに慣れているようだ。
左に回りこまれないよう、すり足で左へ動く。
私が動いたとたん、ベイズが仕掛けてきた。
短剣を槍のように突きだしてくる。
ただ、思ったほどの速さではないので、余裕をもってかわすことができた。
ベイズの表情は、全く変わらない。
先ほどの攻撃は、ただの牽制だろう。
剣を持ちなれない私は、自分から攻撃することは控えた。
身体の前で斜めに剣を構え、目の端でベイズの足元に注意を向ける。
闘技について書かれた本で読んで知った、相手の動きを先読みする方法だ。
闘士は足首に革を巻きつけるだけの素足が作法だ。
そのため、足の動きは丸見えとなる。
特に軸足の親指は、特徴的な動きを見せる。
ベイズの足指に力が入った瞬間、私はさっと右へ回りこみ、黒剣を振るった。
剣先がベイズの肩をかすめ、彼は驚いた顔をした。
しかし、彼より驚いたのは私自身だ。
なぜか?
それは剣技に慣れないはずの私が、やけに鋭い動きができたからだ。
剣を振るった瞬間、私の身体はまるで羽根が生えたように軽やかに動いた。
この驚きで私には決定的な隙が生まれたが、肩を切られて警戒したのか、ベイズは攻撃しようとしなかった。
私がそこで再び剣を振るったのは、恐らく不用意だったろう。
ベイズは、最初の動きからすると信じられないくらいの速さで、私の攻撃を盾で弾き、お返しの一撃をくり出そうとしていたのだと思う。
ところが、来るはずの反撃は起こらなかった。
ベイズは信じられないという表情を浮かべ、地面に膝を着いた。
盾を構えた、その下から見える彼の足に、血が滴っている。
さっきの激しい動きで、古傷でも開いたのだろうか。
そう思う間に、ベイズの体が前のめりに倒れた。
闘技場は一瞬音を失ったが、次の瞬間には観客の叫び声に包まれていた。
それは、私がこれまで一度も経験したことがないものだった。
何が起こったかよく分からぬまま、剣闘初戦を生きぬいたことになる。
◇
「おい、いってえどんな技ぁ使ったんだ?」
ゾラが尋ねてくるが、私自身それがわからないから答えようがない。
「ベイズさんは、どうなりましたか?」
「今、救護班が面倒見ているが、恐らく大丈夫だろうということだ」
「……そうですか」
私は息をついた。
初めて対戦対手を殺したかもしれないという事実が、知らぬ間に心の重しになっていたらしい。
「ヤツは、以前ここで剣闘の王者として鳴らしてたんだぞ。よく勝てたな」
彼の体を覆っていた古傷と彼が出てきた時に観客が見せた反応は、そういう理由があったのか。
ゾラは首を傾げると、自分の予想を口にした。
「ヤツが盾を動かした時、それが自分の剣に当たり、体を傷つけたのかも知れねえな
いわゆる自滅ってやつかな?」
戦っていた私には、それがあり得ないと分かっていたが、指摘はしなかった。
「とにかく、おめえが言ってたように、報酬分全てを賭けておいたぜ」
ゾラは、かなりの重さがある革袋を、私の掌に載せた。
それはベイズと私、二人分の命を意味する重さだった。
「ありがとうございます」
「まあ、今日から『学者』に対する観客の印象は変わるだろうよ」
ゾラの言葉を背に、革袋を抱えた私は闘技場を後にした。