秋瀬巡と椎名悠生の匆匆たる日常。
---都会近郊、住宅街のはずれにて。PM11:00。晩春。
とある残業終わりのサラリーマンが、スーツのジャケットを脱ぎ、小脇に抱え、少し速足で帰路についていた。
季節は夏が来ようとしているらしく、もう十分に暑く、シャツにじんわりと汗が染みこんでいく感覚があった。
彼の名前は、秋瀬巡である。
20歳を越えたごくごく普通の会社員であった。
・・・"あった"のだ。
・・・まあ、その話は、後々するとして、秋瀬巡は今日の仕事の愚痴を一人ごねていた。
今日の仕事は、酷かった・・・。部長が、あれほどの仕事を自分にまわしてくるとは・・・。その部長も、キッチリ定時退社。他の社員と一緒に、仲良く帰って行った・・・。
今日何度目かの深いため息をついていると
「フワッ」
と、夜風に乗って、どこからか甘い石鹸の匂いが漂ってきた。
顔を上げてみると、古びたボロアパートのベランダから、ダランと生足が覗いているのが見えた。
ギョッとして、眼を凝らすと、こちらを見下ろしている眼と、眼が合った。
「・・・こんばんわ。お兄さん」
そこには一人の少年がいた。
彼は夏らしく半ズボンだった。
「今日は、一人・・・?」
少年がそう微笑む。
彼の瞳の色は、髪色や"闇色"と同じ色の深い藍色とも漆黒ともとれる色をしていて、不覚にも月明りに反射して、怪しげにキラリと光った。どこか夜の闇に似ていてるその瞳は吸い込まれそうで、危うい"暗さ"を宿していた。
星が瞬く夜空には"最後の夜"にはぴったりなオレンジ色のくっきりとした満月が浮かんでいて少年の顔が不本意にもよく見えた。
その時、風が吹いて、少年の前髪がなびき、顔に影をつくった。
少年の輪郭はやみ夜にぼんやりと映り込み、その儚さをより強調した。笑顔と相まって、どこか妖美であった。
なぜ少年が、自分が今一人で帰宅しているかを問うのか、少し疑問だったがそれはそうと、この状況でなぜピンポイントに自分に声をかけたのかが不思議であった。
少しだけ、ぞくりとして暑さとは違った汗がこめかみから頬を伝い顎から滴り落ちた。
「・・・やぁ。こんばんは。君も一人なのかい?」
少し出遅れて、言葉を返す。
「ええそうだよ。お兄さんは、今日もずいぶんと遅い帰りだね・・・?残業・・・?大変だねぇ・・・」
少年はそう言って、ニヤリと笑ってみせた。
彼はそれが少し"猫"のように見えたのだった。
「それに、いつもの相棒もいないみたいだしね・・・」
相棒・・・?確かにいつも一緒に帰る相手はいるが、そいつのことかもしれないなと、彼は思った。
「それはそうと、気を付けてね。近頃、なにかと物騒だから・・・」
「えっ・・・」
突然のことで彼は、驚き、呆気にとられた。
実は、今日の朝、会社の朝礼でそのことに触れられたばっかりだったからだ。
「なにかあったら、僕のところにおいで・・・。美味しいお菓子とお茶を用意して待っててあげるから・・・」
眼を細め、まるで自分がこれから物騒な目に遭うのが決まっているかのごとくそう言うと、少年は部屋の奥へ消えてしまった。
春風が吹いて、アパートの隅に植えられているハナミズキの花びらが、夜空に舞い上がった。
それは、どこか"別の世界"にいるような光景であった。