不本意な帰り道
期待してなかったと言えば嘘になるし、正直めちゃくちゃ今日という日を楽しみにしていたのは事実であり、昨日の夜も興奮してなかなか寝付けなかった。
そんな小学生さながらなことをしていたせいで、今日一日瞼が落ちてくるのを必死に耐えなければいけなかったけど、それも放課後の甘美な時間を迎えてしまえば些末なこと。
そのために気怠い授業も気力で乗り越えたのだから。
「だというのに一体全体、この世の中はどうなってるというのでしょう」
「確かに不運なことに同情はするけど、世の中を否定するのはどうかと思うよ」
「私を陥れるのであればそれすなわち敵なんです。さーちゃんのほっぺを引っ張ったくらいじゃ解消されないんですよ!!」
「ほういうにゃら、ひっふぁらないでー」
何を言っているかわからないさーちゃんは放っておいて、しばらくの間このほっぺを引っ張ることにしましょう。
そうでなければ私のがストレスでどうにかなってしまいます。
そう考えてみると、引っ張るだけでストレスを軽減できるさーちゃんのほっぺは、さながら精神安定勢のようなものではないだろうか。
「やりましたねさーちゃん」
「意味がわかりゃないよー!」
やっぱり何を話しているかわからないので、しばらく放置プレイです。
しかし本当に今年の私は運が悪い。
もしかしたら何か厄年のようなものなのかもしれませんね。
まったく信じてはいませんが。
そんなことを考えながら、さーちゃんのほっぺを堪能しつつ帰る帰り道。
そしてやっぱり今日この時も、隣にいて欲しい人はいなかった。
ホワイトデーはバレンタインデーに比べると若干の話題性に欠ける気がする。
それはおそらくメディアの報道具合の差であり、また、イベントにかける男女の総合的割合の差でもあるのだろう。
それでもことカップルにおいては、少なくともなんらかの特別な意味をもつ日であることに間違いなく、バレンタインデーに贈り物をした側からしてみれば、程度はどうあれ、そのお返しに期待を抱いても仕方のないことだ。
『悪いが先に帰っててくれ。どうにも課題が終わりそうにない。俺のじゃなくて本郷のがだけどな』
もちろん私も例に漏れずそれを楽しみにしていたのだが、終業間近に来た秀介さんからのメッセージで奇しくもお預けをくらうこととなってしまったのである。
このところ学年の終わりに差し掛かり、大量の課題を課せられた秀介さんのクラスというか学年なのだが、秀介さん自身は持ち前の頭の良さと効率性できっちりとそれを終わらせていた。
しかし全員がそう言うわけにもいかないのが世の中の常。
終わらない者の中には、当然ではあるが秀介さんの友人も含まれているようで、どうやら今日はその手伝いを頼まれてしまったというわけだ。
メッセージの中に登場した本郷さんという人は、秀介さんとは真逆のタイプのお気楽な人で、座右の銘はと問われれば、明日は明日の風が吹くという言葉が非常に似合う人で、一度会ったことがあるのだが、それはもうどうしてこの人が秀介さんと友人なのかと疑ってしまったほどだ。
まぁ、悪い人ではないのだけれども。
ともかくそんなお気楽な人なので、今回もなんとかなると高を括って課題に取り組まず、締め切りギリギリになって秀介さんに泣きついた。
事の顛末はそんなところだ。
「秀介さんが友人想いなのは知っていますが、何も今日じゃなくてもいいと思います!可愛い彼女よりも男友達ですか!友情が大事なんですか!」
「違うってわかってるくせにそう言うこと言うよね、ひよっちって」
ずばりな返答が横から飛んできますが知ったことではありません。
例え違うとわかっていても、人にはそう言いたくなる時があるんです。
今日も夜に秀介さんが家に来ることになっている。
お返しを渡しに来るのであろうが、幼いころからの家ぐるみの付き合いもあってか、特にうちの両親も秀介さんが夜に私の部屋にいることに何も言うことはない。
というよりも、むしろ早いところ秀介さんに嫁いでしまえと言っているくらいだ。
“お前はきっと秀介君ぐらいしか面倒見てくれる人がいないんだから、絶対に逃がすなよ”
およそ父親の発言とは思えない気もするが、反対されるよりはずっといい。
そういえば付き合い始めた時も、何も言っていないのにすぐにばれていた気がする。
流石は親と言ったところなのか、それとも私たちがわかりやすすぎるのか。
これはもう特に考えないようにしている。
「でもひよっちはいいよね。素敵な彼氏さんとこの後会えるんだから。私なんて今夜は親がいなくて一人寂しく冷食をぱくつく予定だよ?」
「いいじゃないですか。さーちゃんの将来の姿をいち早く再現できるんですから。一人でテレビに突っ込みを入れている姿が目に浮かびますね」
「なんでだろう。ものすごく失礼なこと言われてるのに、否定できない自分が辛い」
せっかくちゃんと喋れるようになったというのに、今度はいじけだしました。
やはりさーちゃんは放置するのが一番いいようですね、それになんとなく喜びそうな気がしますし。
いつも通り帰り道。
隣を歩く人が秀介さんかさーちゃんかの違い。
不満はあるにしても、後数時間もすれば私の部屋で甘い時間を過ごすことが出来るのだから、今は我慢すればいい。
私もそこまで子どもではないのだから。
そう思っていたのに。
せっかくそう思ってさーちゃんをいつも通りからかいながら帰ろうと思っていたのに。
「おや可愛いお二人さんじゃないか。こんなところで会うなんて奇遇だね」
この時の私の顔は、きっと形容するなら心底嫌そうな顔をしていたことだろう。
絡んだことはあの一度きり。
それでも記憶の中に残る非常に嬉しくない記憶。
「さ、帰りますよさーちゃん。早くしないと今日の教育テレビを見損ねてしまいからね」
「ひよっちも見てるんだ。あれたまに見るとすごく懐かしくてほんわかするよね」
「え、まさかの冗談を本気で返すやつですか?想定外すぎて思わず返答に窮してしまったじゃないですか」
少し子どもっぽいところはあると思っていましたが、ここまでとは思っていませんでした。
もしかしたら履いている下着もそれを反映したものかもしれませんね。
クマのバックプリントとか。
うん、今度チェックの必要があるでしょう。
「相変わらず反応が冷たいな。そんなに邪険にしなくてもいいじゃないか」
人の進路をふさぐように立つ軽薄な笑みを浮かべた男。
せっかく人がさーちゃんの新ネタで全てを水に流そうと思っていたというのに。
どうしてこうも人の神経を逆なでするというのだろうか。
「どいてもらえますか新瑞橋先輩。こちらはあなたに用はありませんので」
「だからそう冷たくしなくてもいいだろ?たまたま会えた君たちに、この前のお詫びも兼ねてどこかお茶でもと思っただけなんだからさ」
「結局はこの前と同じ台詞ですね。いつもの取り巻きさんでも連れてお茶でも、ケバブでも食べてくればいいでしょう。私は遠慮させてもらいますけどね」
「なんでそこでケバブなのひよっち?美味しいことは否定しないけど」
「ちょっとさーちゃんはその口を閉じててください。出来ないなら後で縫い付けてあげます」
どこまでを本気と捉えたのか知らないが、口をつぐんで後ずさりをするさーちゃん。
こんなにポンコツだったかという考察をしたいところだが、それよりも今は優先しなければならないことがある。
私のあからさまな拒否にも関わらず、この男はまったく笑みを崩すことはない。
いつも人を選べる立場にいることから来る余裕なのか、はたまたまったく別の理由なのか。
そんなことはどうでもいい。
とにかく私はこの男と一瞬でも一緒の空間にいることがたまらなく嫌だ。
「千種は本郷の課題の手伝いだろ?その間の暇つぶしのお誘いだよ。そう構えることなんかじゃない、ただ美味しいものでも食べながらおしゃべりしようってだけじゃないか」
「どんなに美味しい物だろうと、それは一緒に食べる人によって価値は変わります。そんなこともわからない人は小学生を通り越して、ゆりかごの中からやり直すことをお勧めしますよ」
「口が達者だね」
本来であれば、私だって礼節の一つは弁えているつもりだし、むやみやたらにこんな敵意を飛ばすことはない。
しかもそれが年上であるのなら尚更だ。
だけどどうしてもこの男には一ミリたりとも優しくしようという気がおきない。
棘というよりも悪意を含んだ言葉以外のものが出てこない。
しかしそれでも相手が一枚上手だった。
これも前回と同じ。
急激に詰められる距離と引っ張られる腕。
自分の意志に反して前のめりになる体。
前回と違うのはただ一つ。
それを支えてくれたのが、秀介さんではなく大嫌いなこの男だということだ。
「軽い体だな。ちゃんと飯食ってるか?」
「な、何を!?」
「スキンシップだよスキンシップ。抱き合うくらい海外なら普通だろ?」
なぜ私は今、こんな男の胸の中にいるというのか。
自分の思いとは真逆の行為をされてこの男は私が喜ぶとでも思っているのだろうか。
身に着けているのであろう、ミントか何かの香水の香りが鼻につく。
ここは海外じゃなくて日本だとか、気持ち悪いことをするなとか、言ってやりたいことは山ほどあったが、時には言葉よりも威力を発揮する行為だってあるのだ。
「触るな!!」
武術を幼少の頃から習っている秀介さんに、少しだけ教えてもらった護身術。
いや、もはやそんな大それたことは言えないであろう私の攻撃。
それでも教えてもらったそのフレーズだけはその時しっかりと思い出すことが出来たから、だからその通りに私は動くことが出来たのだろう。
“余計なことは考えるな。とりあえずぶち抜け”
密着状態だったから、たいした威力はでなかったと思うけど、それでも握った拳は間違いなくこの軽薄薄ら笑い男の顎を直撃した。
「私に触れていいのは秀介さんだけです!!このくそ野郎が!!」
予想外の攻撃だったせいか、それとも当たり所がよかったせいか。
攻撃によろめいてうずくまった先輩は、そのまま立ち上がりはしない。
「ひよっち大丈夫!?というか強いねひよっち」
「行きますよ!こんな痴漢に関わっていたら清純な私が汚れてしまいます!」
「あ、うん!」
反撃も何もないならそれに越したことはない。
そもそもにして今の状況は、明らかに正当防衛で、なにより出るところに出ればこちらが勝てる案件だ。
私が咎められるいわれなどない。
「ちょっと待ってくれるかな?」
それなのに横を通り抜ける間際に腕を掴まれてしまった。
しかも今度はさっきのような優しい抱擁とは違う。
少しだけ力のこもった、決して私の力では振りほどけないくらいの力加減で。
「離してもらえますか。これ以上私に触れるのであれば、警察を呼びますよ」
「人のことを殴っておいてそれはあんまりじゃないか?」
「正当防衛です。証人もいるんですからあなたに非があることは明白です。なんならストーカーという罪状もつけてあげますよ」
「それは困るな」
さーちゃんは先ほどからおろおろするばかりで役に立ちそうにない。
辺りを見渡してもみても、誰かが通りかかる気配もない。
秀介さんも今回は来てくれそうにはない。
「まぁ今日はこのくらいにしておこう」
しかし、予想に反して離される腕。
「嫌がる女な子を無理やりって言うのは俺の主義に反するからね」
「どの口が……!?」
さっきの行いが無理矢理じゃなければ、何が無理矢理なのか。
やっぱりこの男の思考は私には理解することは出来そうにない。
「悪かったね二人とも。また今度改めて誘うからさ、そのときは一緒に来てくれると嬉しいな」
まるで今までの出来事がなかったかのような口ぶりに、私は少し恐怖を感じる。
この男の底が見えない。
考えていることはおろか、狙いすらも何一つわからない。
踵を返し、歩き去る後姿はしっかりとしていて、やはり私の攻撃によるダメージなんてものはなかったのだろうことは明白だ。
「あ、そうそう」
歩みを止め振り返りこちらを見る。
その様子が少しだけ、ほんの少しだけ様になっていると思ってしまったのは、末代までの秘密だ。
「俺、新瑞橋祐樹は君のことが気に入った。ここからは本気で狙いに行くから覚悟しといてくれよ」
爆弾の投下。
まさしくそれが今の状況を示すには一番いい言葉なのではないだろうか。
今度こそ歩き去っていく様子を、私はただ茫然と見送ることしかできなかった。
「三角関係だね。私漫画以外でこんなの初めて見たよ……」
とりあえずほっぺを引っ張っておこう。
出ないと私の精神状態がどうにかなりそうだから。
好きな人と過ごすはずだったホワイトデーの帰り道は、まさかの展開で終わりを告げる。
私の今後に、新たな波紋を広げながら。
こんな展開は特に望んではいないのだが、本人の意向などてんで無視して物語はどんどんと進んでいく。
END




