苦くて甘い帰り道
2月14日。
高校生という年頃の男女であれば、大なり小なり心をときめかせ、何かに期待をしてしまうそんな一日。
それに関していえば、私もその例に漏れることなく今日一日そわそわしていたことに間違いはない。
好きな人のために前の日から、いや、用意の期間を考えればそれよりもずっと前から準備をして迎える今日という日。
誰しもが失敗を恐れ、成功を願うことは間違いない。
学校にその愛の結晶とも言うべきチョコレートを持ってきて、意中の人や日頃お世話になっている人へ渡すところを、今日だけですでに幾度となく見た。
例年の恒例行事であり、特に目新しさもないその光景だが、なぜ神様はこうも私に意地悪をするのだろうか。
よりによって私の見ている目の前で、秀介さんにチョコレートを渡されるところを目撃することになるとは思ってもみなかった。
たまたま通りかかった中庭の一角で交わされる、秀介さんと見知らぬ女生徒との逢引の瞬間。
その瞬間をちらりと見ただけではあるが、気が付けば私はそこから逃げ出してしまっていた。
何も言うことも出来ずに。
一人で歩く帰り道はあまり楽しいものとは言い難く、ただでさえ冷たい冬の風がやけに身に応えるからあまり好きではない。
一人では引っ張るほっぺもなければ、私の手を包んでくれる大きな手もないのだから。
「せっかく作りましたけどどうしましょうかね」
ここ数日、胸の中には常に霞がかかったようなもやもやがずっとあった。
それでも秀介さんに限ってと思っていたし、何よりも信じていたから。
実際のところ、秀介さんが何かをしたという決定的な情報はなくて、ただ私が一人で考え込んでしまっているだけだというのが実情だ。
月陽とさーちゃんから聞いたことと、先ほど見てしまったもの。
どちらをとっても、他の女の子が秀介さんにアプローチをかけたというだけで、秀介さんは何もしていない。
「私、意外と独占欲強かったんですね」
自分でも今まで自覚のなかった事実をここで認識する。
いつも一緒にいることが当たり前だったから、学年の違いにより離れていた時期もあったけど、その時は相手が何をしているかわからなかったから。
でも今は違う。
正式に交際をしていて、その大事さも、喜びも、たくさんのものを知ってしまっている。
以前のような無知な頃の自分とはもう何もかもが違うのかもしれない。
だからこそ、本当なら気にせずにいればいいようなことまでもが気になって仕方がなくて、それに悩んでこうしていつもの帰り道を一人で歩いている。
「ティラミス、初挑戦にしては割と上手にできたんですけどね」
作り始めてしまったら意外と熱中してしまって、昨夜はキッチンを一人で数時間にわたり独占してしまった。
お母さんにも夕食が作れないと文句を言われることとなったが、たまには出前でもというお父さんの一言で落ち着いたのだからそれはいいだろう。
月陽にも試食をしてもらったのだが、あの子が美味しいと言ってくれたのだから味は保証できると思う。
お菓子、特に甘い物には目がないあの子が高評価を出すことは、なかなかに少ないのだ。
「まったく、日和ちゃんというものがありながら、他の女の子に目移りするなんて秀介さんもまだまだですね」
自分を鼓舞するように吐いた言葉は、逆に虚しさを助長する。
いつもは前だけを見据えて、少しだけ前を歩いてくれる人の背中を見つめて帰る道なのに、今日はどうしても顔を上げることができなかった。
「誰がまだまだなんだ?」
俯いていたせいもあったと思うが、きっと頭の中をぐるぐると回り続ける思考の海に囚われていたのが一番の理由だろう。
いつもは気づくはずの人の気配にまったく気が付かなかったのだから。
「お前が待っとけって言ったのに、先に帰るとはどういう了見なんだ?」
「どうにも秀介さんはお忙しかったようなので、気を使って先に帰ることにした私の心遣いです。むしろ感謝して欲しいものですけど」
口から出る言葉は本音とは程遠いところで勝手に踊る。
一緒に帰って家でティラミスを渡そうと思っていたので、そう伝えていたのだが、どうしてもそうすることが出来ずに逃げるように私は先に帰ってきてしまっていたのだ。
本当は勝手に先に帰ってしまった私を、こうして追いかけて来たくれたことが嬉しい。
本当は今までの疑問を全て投げつけて、その答えを聞きたい。
そう思っているのに吐いてしまった言葉は棘しかない拒絶。
「私の事ならお気になさらず。これからお家に帰って炬燵の中で、夕方の教育番組を見るという使命がありますので。子ども向けと侮っていましたが、あれでなかなか得るものが多くて興味深いんですよ」
なぜこういう時、想ってもいないことほどこうもすらすらと言えてしまうのか。
口が回る方だと思っているが、流石にこうも考えていないことを言えてしまうのは驚きだ。
「そういうわけなので私は帰ります」
多分ここで帰れば後悔する。
最悪私たちの関係もここで終わってしまうかもしれない。
わかっているのに今はこれ以上、秀介さんと話すことが、顔を見ることが出来なかった。
今にも零れそうな涙を我慢することができそうになかったから。
「悪いがその予定はキャンセルだな」
「は……?」
掴まれた腕の感覚とその言葉に思考が追い付く間もなく引っ張られ、そのまますっぽりと落ち着いた先は秀介さんの腕の中。
いつも求めてやまない匂いと感触に、少しの間惚けてしまったが、すんでのところで我に帰ることが出来た。
「ちょっ!?何考えてるんですかこんなところで!通学路のど真ん中ですよ!誰か来たら……」
「ここはもう家のそばだ、ここまで来るやつはそういない。それに日もそろそろ暮れるからな。この薄暗さじゃ誰が誰だがわかりゃしないさ」
「そういう問題じゃ!」
じたばたと腕の中でもがいてみるが、しっかりと抱きしめられてしまった体は秀介さんの胸の中から逃れることはできなくて。
それになにより、私自身、そこから離れたくないと思ってしまっている。
せめてもと声だけは張り上げてみるが、きっとそれもいつのもに比べれば弱弱しいものだったのかもしれない。
だって、さっきまで悩んでいて苦しかったはずなのに、ただ抱きしめられただけで、こんなにも嬉しい気持ちになってしまっているのだから。
「それに誰かに見られたらそれでもいいだろ?」
「何を言って……」
「俺達は付き合っているんだ。間違ったことをしているわけじゃないわけだし、見せつけておけばいい」
正直私は耳を疑ってしまった。
秀介さんが今までこんなことを言ったことがあるだろうか、こんな風に誰かにアピールしようなんてことをしたことがあっただろうか。
この人は本当に秀介さんなのだろうか。
そこまで考えてやめた。
この人はこういう人だった。
いつもは自分の気持ちを何も言わないくせに、何かの一線を越えると逆の路線へと突き進み始めるのだ。
あの時だってそうだった。
あれ、あの時?
あの時っていったい何のことだろうか。
「ティラミスをリクエストしたのは、単にこの前の調理実習で作ってるのを見てうまそうだと思ったからだ」
何を思い出しかけていたところに、別の重要な話題が入ってくる。
「俺自身が誰かにもらったわけでもないし、誰かにくれと言った覚えもない」
噴き出した疑問は通り抜ける風のように瞬く間にどこかへ行ってしまって、もう思い出すことはできなかった。
「女と歩いていたっていうのは多分、姉さんのことだろう」
「柚葉さん、ですか……?」
「ああ、あの人は知っての通りあんな性格だからな。何かにつけて人に引っ付きたがるんだよ。やめろって何度も言ってるのに聞きやしない」
それよりも今は目の前の事実を受け止めることの方が重要で、うすぼけた疑問なんかは脇に置いておけばいい。
そうはいっても、どうにもこの話の向かうところは私にとってあまり良いものではないような気がしてならない。
主に私が思いっきり恥ずかしい思いをするという方向で。
「後、言っておくが、今日お前が見ていたのも含めて俺は誰からもチョコの類はもらってないからな」
「気づいてたんですか……?」
「俺が日和に気づかないわけないだろう」
この人はそれが殺し文句だとわかって言っているのか、それとも無自覚なのか。
きっと後者だとは思うが、それが私にどれほどのダメージを与えることになるか、少しは考えて欲しいものだ。
さっきまで涙がこぼれそうだったと言うのに、今は鼻血が出てきてしまいそうだ。
この状況で鼻血など、これから先一生笑われることになるだろうから絶対に避けねばならないというのに。
「だからお前が心配することなんて何もないんだよ」
いざ本人から聞いてしまえばなんとあっけないことか。
これまで心配していたことなんて、蓋を開けてしまえばただの私の考えすぎで、さっき思った通りの結果となってしまったではないか。
「でもどうして私が心配していたことがわかったんですか?」
「何度も言わせるな」
この時私は抱きしめられた腕の中から、秀介さんの顔を見上げてしまったことを心底後悔した。
「日和のことくらい俺にわからないわけがないだろう」
キュン死なんて言葉が巷で流行しているらしいが、私にはきっと無縁のことだと思っていたのに。
もはやその表情と言葉に私のライフは残っておらず、無様にも腕の中で体重を預けることしかできなくなってしまったのだった。
部屋の中に広がる甘い香りと、入れたてのコーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。
なるべく綺麗に見せようと片付けた私の部屋だが、ところどころ綻びが見え隠れしているものだから、部屋の主としてはまさにひやひやものだ。
きっと不要な物を一気に詰め込んだあの押し入れは、次に開けた時には雪崩を起こすことだろう。
「美味いな」
「当然です。私が丹精込めて作ったんですから美味しくないわけがないんです」
「確かに程よい甘さでコーヒーにも合う」
「さっきミルで挽いてネルドリップで淹れた日和さん特性のコーヒーです。お店で飲んだら1000円はくだりませんよ」
秀介さんの好みに合わせて選んだ苦みが強く深煎りのコーヒーは、何も知識のなかった私が一から勉強したもの。
彼氏の好きな物を勉強するなんて乙女丸出しのことをするなんて思ってもいなかったが、一度してしまえば楽しくなってしまうのだから不思議なもので、その結果表情を崩しながらそれを飲んでくれる秀介さんが見れるのだから、頑張った甲斐があるというものだ。
あの後、羞恥に満ちた私が再起動するのを待っていた秀介さんをつれて私の部屋にやってきていた。
もちろん目的は作ったティラミスを食べてもらうためだ。
「これだけ私が頑張ったんですから、来月は3倍どころか5倍返しを期待してもばちは当たらないと思います」
「そうだな」
すっかりいつも通りの雰囲気に戻った私達。
やっぱり私は二人の間に流れるこの空気が大好きで、できることならいつまでもこんな時間を過ごしたいと思っている。
結局私はどうあがいてもこの人のことが好きなんだろう。
「期待に添えるように頑張るとするかな」
そんなことを言いながらあまり見せない笑顔を私に向けてくれるものだから、ここ数日溜まっていた物が溢れてしまったとしても、決して私に非はないと思う。
例えそれがいつもはしない、私からのキスだったとしてもだ。
「大好きです」
触れた唇からは、ティラミスの甘さとコーヒーの苦さ、両方が伝わってきて、それはさながら私たちの恋模様のよう。
これからもきっとこんなことは度々あると思うけれど、それでも秀介さんとなら大丈夫かなって、そう思えたバレンタインデーの帰り道。
明日からもこんな日がずっと続きますように。
そういえば何かを忘れている気がしますが、なんでしょうね。
何かとても大事なことだった気がしますけど、まぁそのうち必要なことなら思い出すでしょう。
それよりも今はこの甘い時間を楽しむべきですね。
END




