今宵は一献、月見酒。
夜十時を回ったくらいの頃合いにインターフォンが鳴って誰だろうと戸を開けたら一升瓶を抱えた女が立っていて全力で戸を閉め「おいおいこらこら」足を戸にガッと挟まれた。
宗教勧誘か。
「宗教勧誘とは酷いな。そこはせめて新聞か国営放送と言ってくれたまえ」
「それはどれも大して変わらないだろうが……なに。何の用」
半目で訊くと、彼女はわざとらしい驚きの顔を作って「馬鹿だなあ何だい知らないのかい?」いよいよもって外へ叩きだしてやりたいのだが如何せん既に彼女は半身をこちらにねじ込んでいる。
「今日が何の日か本当に知らないのかい?」
「今日……?」
振り返ってカレンダーを確認する。だが別段の予定はない。
「別に何も……て、おい。じわじわと入って来るんじゃない」
「っはっはー馬鹿だなあ今日は満月だよ満月」
「満月なら毎月あるじゃないか」
「いやいやこれがただの満月ではないんだよ。格別の満月さ。何せ、中秋の名月なんだからね」
「中秋の……」そういえば確かにそんな話があったような気もする。「けどそれとお前がうちに来ることに何の関係が」
「君は本当に馬鹿だなあ月見酒に決まってるだろう」決まっているのだろうか。「美しい月を肴に酒を嗜む。風流じゃないか」
少なくとも彼女の格好は全く風流ではない。一升瓶を両脇に三本ずつ、胸の前にも三本抱えて計九本だ。嗜むという程度ではない。完全に酒に呑まれに来ている。
「……いやいや、でもそれでうちに来る理由にはなってないぞ」
「君は顔に似合わず料理が上手だからね」顔に似合わずは余計だ。「君に酒の肴を作ってもらうために来たのさ」
「酒の肴は名月じゃなかったのか」
「花より団子だよ」おい。「君が肴を作る。私がそれをつまみに名月を眺めつつ酒を嗜む。見事なまでに美しい役割分担じゃないか」
違う。卑劣なまでに一方的な搾取制度だそれは。
「ま、とりあえず上がらせてもらうよ」「あ、おい」いつの間にか全身を侵入させていた彼女は彼の脇をすり抜けて一片の遠慮もなく上がり込んだ。
「相変わらず小奇麗な部屋だねえ……」
「つまみを作るにしても、材料も何もないんだぞ」
「安心するがいい。その辺りは抜かりない。ちゃんと私が前もって購入済みだ」戸を開けると地面に無造作に買い物袋が放置してあった。パンパンだ。「君にわざわざ買いに走らせる手間を取らせる私ではないのだよ。感謝したまえ」
下手に出てるんだか上から目線なんだかはっきりしないが、少なくとも感謝する気にはまるでなりようもない。彼はため息まじりに買い物袋を持ち上げて部屋に運んだ。
見ると彼女は既に一本目に手を付けていた。グラスも彼のものを勝手に使用している。
「おいこら、傍若無人にもほどがあるだろう」
「小言はいいからさっさとつまみを作りたまえ」
果てしなく偉そうだ。
このままでは埒があかない。それに彼女は酒が入ると輪をかけて横暴になる危険があるため、やむなく彼はため息混じりに台所に立った。買い物袋を探るとどうやら言に違いなく抜かりはないようで呆れるほど潤沢かつバリエーション豊かな食材が揃っていた。調味料まで入っている。どれだけ作らせるつもりなんだ。
「とはいえ、だ。いくら材料があっても、これでは潤沢過ぎて何を作ろうか迷う……何かリクエストはある?」
「うーん……じゃあまずは甘辛いもので」
「甘辛ね……」
よし決めた。さっそく取りかかる。
こちらがつまみを作っている間くらいは静かに酒を呑んでいるだけかと思ったら、カーテンを開ける音が聞こえ「よく見えないな……」電気が消えた。
「ちょっと」
手元が見えない。
「部屋が明るいと月が見えないのだよ。月が見えなければ月見酒ではないね」
もともと月見なんて名目だけのくせに……仕方ないので台所の蛍光灯をつける。
今度こそ静かになったかと思ったら、「あー」とオッサンくさい嘆息のあと、
「 中秋の名月っていうのはな、旧暦の八月に月を愛でて楽しむっつーイベントでな、……あー昔の中国に始まっていつだったかに日本に来たんだと」
「……へえ」
「んで、一番盛り上がっていたのが平安時代で……何だったかな、川で……酒……杯……」
「何でそんな生半可な知識なの」
「いやー今日の昼間に聞いたんだよ。講義んときな、私の前の席に座った女子学生が隣に座ってた男子学生にそんな話をしてたんだ。細かいところは覚えてない」
大筋しか覚えてないじゃないか。
「まあそんなことはいいのだよ。ほら、さっさと料理を持ってきたまえ。酒がぬるくなってしまう」
「初めっからぬるいでしょうが……」
こぼしつつも完成したものを持って行く。どうせ催促されることは目に見えていたので、手間のかからないものから作っていたのだ。
「おう来たね。待っていたよ待ちかねていた」
「あんまりこういうのばかり食べてると太るぞ」
「私は太りにくい体質なのだよ」不作法に手掴みで食べ始めながら彼女は言う。「ケーキをワンホール食べても一グラムとして変動しなかった」
「へえ、それは羨ましいね」胸が悪くなりそうだが。「箸くらい使え」
「ほら次だ次。これだけではすぐになくなってしまうだろう」
はいはい、と再び台所に戻る。確かにあの勢いではすぐになくなってしまうだろう──もとより自分で食べることは考えていない。食べたければ作りながら摘まむし。そもそも彼は酒は飲めないのだ。
「…………」
何だか搾取されることに芯から順応していはしないか。
「そらもうなくなったぞー」
「早すぎなんだよ、もうちょっと大事に食べろ」
手間をかけず、量もそれほど作らないで次々と作っていく。持って行ったらもう先に出したものがなくなっているのだ。これでは食材もすぐに底をつくだろう。
うまうま、と肴を貪っていた彼女は目を細めて笑う。
「しかし本当に、君は料理がうまいね。これでは君の恋人になる人の立つ瀬がなさそうだ。いや、むしろそれ目的の恋人になるのかな」
「そもそも恋人ができない……縁がないんだけどね。そんなことを言ったら、そっちだって彼氏のひとりやふたり作って、そこに転がり込んだらどうなんだ」
「ふたりいたら問題だろう……だがまあ、私も君と同じかな。縁がない」
「そうなのか」
「ああ」彼女は頷いた。「なかなかいないんだよね。宇宙人も未来人も超能力者も」
それはまあいないだろう。小説の読みすぎだ。
「ま、そんな与太話はどうでもいいさ。ほら、さっさと作ってきたまえ!」
「へいへい」
「へいは一回で十分だ!」
「へいであることには問題ないのか」
それから小一時間ほどは、ひたすら彼が作っては彼女が食べるという時間が続いた。
「…………」
まさしく初めに言ったとおりの搾取の構図だった。
「そんなに不満なら君も飲めばいいのだ」
「だから俺は飲めないんだよ。アルコールは苦手なんだ」
「それはもったいない。では私がいただくよ」
言って一息にグラスを呷る。見れば既に、持ってきた瓶の半分を空けていた。
「というか、月見酒に来たんだから月を見ろよ月を」
「んー? んー、そうだなあ」
大分酔いも回っているようだ。やや呂律を曖昧にしながら彼女は月を見上げ、グラスをかざす。
「美しい月夜に乾杯」
「なぜそんな気取った台詞を」
「んー……」
酒に透けた月光を眺めながら、彼女は何か考えている様子だ。食べる勢いも落ち着いて、急いで作る必要もなくなったので彼もグラスを取って一杯だけ注いだ。
「むー……」
「どうかしたのか?」
問うと、彼女は依然としてグラスを透かしながら、
「いや……何か足りない気がして」
「つまみはもう十分に作ったぞ」
「いや、つまみはまあ足りてるんだが……何かワンポイント足りない……」
何のことだかわからないが、どうせ酔っ払いの言うことだ。深く取り合う必要もあるまい……と適当に受け流していたら突如として「そうかわかったぞ!」「おいこぼれてる酒こぼれてるから!」
グラスを持ったまま手を打ったせいで散らばった酒を拭きつつ、何がわかったんだよと見ると彼女はもっともらしい顔をして、
「風流が足りないのだ」
「花より団子なんだろ。月見酒なんだから月で満足してくれよ」
「っはっはー馬鹿だなあ月見には月だけじゃなくて、他にもあるだろう? ほら、なんだ……ちょっと出てこないが」出てこないのか。「ほら、見てみたまえよこれを」
再び彼女は酒のなみなみと注がれたグラスを月光にかざす。何だよ、と彼もそれを見る。
ふふん、と彼女は得意げに笑って、
「これに桜の花びらの一枚でも浮かんでいれば言うことはないとは思わないかね。風雅の極みだろう」
「今は秋だ」それは花見だ。「中秋の名月なんだぞ。中『秋』なんだから。秋なんだから……ほらあれだ、薄じゃないか、月見と言えば」
「ん? んー……」
眉間にしわを寄せて、ぐずるようにうなり始めた。これはいけない、完全に酔っ払いのそれだ。
「んー……じゃー薄持って来い! 今すぐ!」
「はあ!? 薄って……」時計を見る。「もう深夜回ってるんだぞ。それにこの辺でどこに薄が生えてるかなんて知らないし」
「いーから持って来い! 近くにないなら遠くまで行け!」
「そんな横暴な!」
抗議の声も虚しく、彼は彼女に蹴り出されてしまった。この部屋は自分の部屋なのに……だがこれでは帰れない。空手で帰ってもさらにどやされるだけだろう。探すしかない……どこにあるだろう。河原になら生えているだろうか。
やれやれとため息混じりに、彼は自転車にまたがった。
名月に照らされた道を自分は一体何をしているんだろうと自問しながら風雅の欠片もなく片道20分かけて一番近い河原まで行き、30分かけてようやく薄を探し当て、適当な本数を失敬してまた片道20分かけてやっと自室にまで戻って彼女に献上しようとしてみたらあろうことか彼女は人のベッドに堂々と寝ていた。
爆睡だ。
「おい」
思わず突っ込んだが起きる気配は皆無だ。どんな大魔王だ。手持ち無沙汰に持ってきた薄を見て、仕方なくバケツを水差し代わりに差して、床やテーブルに散らばった空き瓶や皿を片付ける。
「はあ……」深々とため息。
こっちはこれだけやってやったのに彼女は全く自由に生きている。羨ましいことだ。
太平楽な寝顔の何と安らかなことか。
「……ふ」
全く、毒気も抜かれる。
やれやれ、と先程までとは少しばかり色の違うため息をついて、彼は彼女に布団をかけた。
翌朝。
「……それで、どうして君はベランダで寝ていたんだい」
「いや、それは、ほら……月が綺麗だったから。眺めているうちに寝ていたんだ」
「ふむ……ふふん。まあ私は別に、君なら間違いが起こってしまっても構わなかったんだがね」
「え……本当に?」
「っはっはー馬鹿だなあ冗談に決まっているじゃないか」
「ですよねー」
「うん」
「……本当に?」
「…………」