はと8
「……寒くないか?」
「うん……」
雨音が、次第に弱くなってゆく。
火を付けた暖炉の前に、服を着替えさせた三樹を座らせ、毛布をくるませる。
「ごめんね」
「何が?」
「心配、掛けちゃって……」
三樹が毛布に顔をうずめた。俺は毛布の外に出ている頭を撫でる。
「いいよ。それに俺だっていつも三樹の所へ遊びに行っては、おもてなし受けてたからさ。なにか温かい飲み物でも持ってくるよ」
牛乳が置かれている場所を教えてもらい、俺は地下室へと向かった。そこはかなり冷え切っている場所で、冷蔵庫代わりに使っているようだ。冷蔵庫のような物に入れなくていいのかと思ったが、多分常温保存可能な牛乳なのかもしれない。そんな商品を、ネットで見たことがある。
それにしても、街にも行ったことがなかった三樹が、どうやって牛乳を得たのだろう……。近くにスーパーでもあるのか。
よく考えたら俺、三樹について知らないことも多いなと思った。
台所へ行くと、昔の人が使っていたような、五、六十年代位のガスコンロがあった。
取ってきた牛乳瓶の中身を鍋に注ぎ入れ、温める。温まったら、カップに入れて三樹の所まで持って行った。
「はい、これ」
「ありがとう……」
暖炉の火によって、ホットミルクを飲む姿に温かな影ができる。
……さきほど、平らな石の前で静かに涙を流していた三樹。なぜ、そんなことをしていたのか気になったが訊くに訊けなかった。
ただ、暖炉の前に佇む三樹の隣で、背中をさすってあげることしかできなかった。
「糸井君」
「どうした?」
「糸井君には、忘れられない人っている?」
炎が薪を燃やす音が、線香花火のようにむなしく響いていた。
「僕には、とても大切な……大切な人がいたんだ」
「いた……んだ」
「うん。僕がさっき座ってた場所にあった平べったい石、あれ、実は大切な人の墓なんだ」
切ない眼差しを燃え盛る炎へと向け、三樹は話し続ける。
「その子は僕と同じく両親がいなくて、一人で暮らしている僕の元へ毎日のように来てくれた女の子なんだ。今の糸井君みたいにね」
もしかしてその女の子は、三樹の元で亡くなってしまったのか? そんな疑問が浮かんだが、あえて何も言わないことにした。
「もう何年も前の話なのに……未だに忘れられないんだ」
その言葉に、自分の胸に何かが突き刺さるような感覚がする。
「あの子はもうこの世にはいない。あの子のことを楽に忘れられたら、僕の心は軽くなるのかもしれない。けれども心にあの子と過ごした記憶を刻みつけて、一生忘れないようにしないといけない気もするんだ」
カップを持つ両手が、微かに震えている。
「僕、もうどうしたら良いのか分からなくて、そしたらいつの間にかあんな所にいて……そこでも僕は、ただ泣くことしかできなかった」
「……」
俺と三樹は、どこか共通している所があると思った。互いに、忘れたいと思っていても、忘れられない人がいる。忘れられない人と過ごした思い出は、手についた綿あめのように、常に頭の中に纏わり付いてくるのだ。
やがて雨の音は消え去り、西の窓には美しい茜色が映し出された。俺達二人はその方向をぼんやりと眺める。
三樹が、ゆっくりと口を開く。
「あの太陽、僕たちの住んでいるこの場所では昼の終わりを告げているけれど、ある所では朝を告げているんだよね。あの太陽みたいに、別れは何かの始まりを呼んでいるんだって、明るく素直に考えられたら良いのに……」
暖炉の火が弱くなり、薪を新たにくべた。
俺は思わず考え、祈ってしまった。
三樹の大切な人、その人との別れによって三樹が得た「何か」が、俺との出会いであることを。
結局、親に連絡して今日は三樹の家に泊まらせてもらうことにした。
体調の悪そうな三樹に料理を作らせる訳にはいかない。けれども俺自身料理なんて作れない為、とりあえず自分の分はコンビニ弁当、他にもおかずや明日の朝食を買ってきた。
三樹の晩御飯には、おかゆを作ることにした。といっても水の配分を間違えてべちょべちょになってしまったが。
「三樹、おかゆ持ってきたぞ。上手くいかなかったけど」
ベッドで寝ている三樹に呼びかけ、身体を起こしてもらう。そのままお盆に乗せたおかゆを手渡した。
「ありがとう」
「水分多いけどな」
「そんなことないよ、おいしいよ。ありがとう」
目の前で、俺の作ったおかゆをおいしそうに食べてくれている。
料理を作って誰かに食べてもらうのはこんなに喜ばしいことなのか、と、ちょっと思ってみたり。
その後俺は風呂を借りた。
後に三樹も風呂に入り、お互いに寝ようとしていた時だった。
「あの、糸井君」
「何?」
「寝る場所だけど……」
「ああ、別に俺はソファーでも床でも構わないし」
「そうじゃなくて……」
なぜか三樹は照れがちに下を向いている。
「隣で、寝てくれないかな……」
え?
思わず声が出そうになり、必死に引っ込める。
隣で、ってことは、一緒に寝るのか?
って、なんで返答に迷ってるんだ。別に女子の隣で寝る訳じゃあるまいし。
「別に、いいけど」
三樹がほっとした表情になり、それを見て俺も一安心した。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
ふわり、と毛布を掛ける。
「……」
なんで、向かい合わせなんだ。
ふわふわした金髪に、長い睫毛、整った顔……。三樹はまるで人形のように美しかった。
今日、雨の中で泣いていた三樹。
忘れられない人との思い出を、もう会えないのにいつまでも抱え込んでいる三樹。
今日、自然の中で鳩に囲まれて、悩みもなく生きているように見えていた三樹が、そんな不安を背負っていることを知った。
――世の中、悩みのない人間なんていないのだ。
俺はどうしたら良いのだろう。俺も元彼女を忘れようと思っても、忘れられない。新しく恋をしたらいいのかと言われれば、そんな単純に片付く問題でもない気がする。
――ただ、泣くことしかできない。
三樹は、そう言っていた。
三樹が会えない子の為に泣くのなら、俺は三樹の為に隣に居よう。
隣で寝息を立てている三樹の背中に、片腕を回して優しく抱きしめた。
次回、29日午前8時投稿です。
読んでくださりありがとうございました。