はと10
「今日も来てくれたんだね、悟」
日菜が微笑む。俺が丸椅子に座ると、彼女はじっと俺を見つめ、口を開いた。
「私、明日退院するんだ」
そう告げた後、彼女は窓辺を見た。この頃、梅雨で雨の降る日が多かったけれども、ここ最近は降水量が減ったものの、蒸し暑い。半袖Tシャツを着る人も多くなった。
窓から見える木が、日光を浴びた葉を茂らせている。
「そうか、良かったな」
沈黙が続いた。
けれども会話が途切れた為、引き起こされる沈黙ではない。日菜が俺から話し掛けられるのをじっと待っている為、引き起こされるものだと思う。
「……あのさ」
ついに、沈黙を破った。
俺は息を吸い、本当に問いたかったことを聞いてみる。この行動が本当に正しいのかは分からない。
いや、正しいも間違いもないのかもしれない。
「今更戻りたい訳じゃないけど……どうしてあの時、俺と別れたんだ?」
どうしても、それだけは気になっていた。
俺が別れを告げられた時、理由も言わずに「さよなら」と言われた。喧嘩をした訳でもない。どうして別れなければならないのか分からなかった。
日菜のことを忘れられない原因の一つかもしれない、と俺は考えた。もしかしたらこの質問で、日菜を忘れる決心がつくのかもしれない。
日菜にとって迷惑な質問だったかもな、と思っていたら意外なことに、日菜はこっちを向いた。さっきよりも安らかな、優しさのある顔で。
「……やっと、聞いてくれたね」
静かな空間に、凛とした声が響いた。
「悟は、優しいよね。相手のことを考えて行動している。私、悟のそういう所が好きだったの。もちろん私も優しくしてもらってたし、幸せだった。……だからこそ、思ったの。私は悟の傍に居てはいけないって」
「え……?」
どうしてだ? 居てはいけない理由があるのか?
それに俺は優しくなんかない。人にしている行為だって、結局は自分の為だ。今、こうやって病室にいるのも、日菜との心残りをなくしたいからなのに。
「実は、時々優しい悟を見ていると……私の自己中心的な性格を見せつけられているようで、辛くなった。そのうち、一緒にいるのが怖くなって……。」
日菜が、白いシーツを両手でギュッと握りしめる。
「変でしょ? 好きなのに怖いだなんて。ごめんね。別れた理由も自分勝手な理由なの」
「……」
「別れるのは嫌だった。でも、このまま複雑な気持ちで付き合い続けるのは、悟に申し訳ないし、悟の彼女として失格だと思って……だから恋を終わらせたの。私もこの辛さを解消したかったから……」
日菜の声が、だんだんと掠れてくる。
「でも、結局残ったのは喪失感だけだった。何も得られなかった。悟のことを忘れようと、気にしていない素振りもした。こっそり大切にしていた悟の腕時計も、勇気を出して返した。けど……駄目だった。最終的に私は、ただの自己中心的な人にしかなり得なかったの……。ごめんね。本当にごめんね……」
日菜の目から、雫が零れ落ちた。微かに光り、やがてシーツに染みを作ってゆく。
いつの間にか、日菜を抱きしめていた。
「俺こそ、何度も日菜をどうやって忘れようか、そればかり考えていた。付き合っている時も、日菜がそんな気持ちを抱えているなんて、気付きもしなかった。考えたこともなかった。それに……」
一息吸って、再び話す。なぜだか胸が締め付けられる感覚がした。
「日菜こそ、俺の憧れだよ。物事をはっきり言えるし、顔はキレイだし、行動する勇気がある。それに俺は、日菜を一度も自己中心的だなんて考えたことがない。だからもう、自分を責める必要なんてない」
今まで、振られるということは、嫌われたという意味だと思っていた。けれども違った。日菜は自分を守る為にも、俺の為にも、別れる決心をした。だから……。
俺と別れたことに、謝らなくていい。
「そういう所が、悟は優しいんだってば……っ!」
俺の肩にしがみつく手に力がこもった。日菜の美しい雫が、俺の襟元を静かに濡らした。
自分は間違っていた。
俺が本当にすべきだったことは、日菜を忘れる努力でもない。決心することでもない。日菜と改めて意見を分かち合うことだったんだ。こんな風に、素直に話してみることが必要だったのだ。
日菜と別れてから引きずっていた心残りがどろどろと溶けていくような感覚がした。
「……失くした後に、その人の大切さが分かることってあるんだね」
日菜がぽつりと呟いた。
「そういえばさ」
「何? 悟」
腕を解き、互いに向き直る。
「腕時計返してくれた時さ、『そうやって、また去ってゆくんだ』って言ってたけど、あれ、どういう意味なんだ?」
気を悪くしたかもしれない。けれど訊かずにはいられなかった。
「あー、あのこと?」
日菜がフフっと笑った。
「実はあれ、大した意味はないの。あの時、もうあの頃のように話せないのかと思うとなんだか悲しくなって。悟の気を惹きそうなことを言ってみただけ」
……え? 一瞬、言われたことが理解できずに固まった。が、すぐにその言葉の意味を捉える。要するに俺は、彼女の作戦にまんまと引っ掛かった訳だ。
「あはは、ごめんね」
冗談気味に怒ってみたら、彼女は笑ってくれた。俺達の周りには温かな空間が広がっている様に感じた。
「お見舞い、いままで来てくれてありがとう」
「ああ」
俺は椅子から立ち上がり、荷物を持った。
「……ねえ」
「?」
立ち去ろうとした足を止める。日菜の口元が僅かに震えている。
「もし良かったら……また、仲良くして良い? ……友達として」
友達として。日菜から発せられるその響きが何だか新鮮だった。
俺は明るく返事をする。
「もちろん!」
日菜と心が交わる様な笑顔を交わした後、病室を出た。
嬉しかった。雲がかっていた心も、やがて晴れていきそうだ。
もしも。
日菜の言っていた、「俺は優しい」というのが本当だとしたら。
俺が日菜を忘れようとしていたのは、俺なりの優しさだったのかもしれない。
日菜と同じ思い出を共有していることに、罪悪感を感じていたのかもしれない……。
けれども今日、日菜との思い出は宝物と化したのだ。
もう、日菜のことを無理に忘れたりしない。
俺はその宝物を忘れることなく、いつまでも大切にしようと心から思った。
また、俺が本当に望んでいた別れ方は、こういうものだったのかもしれない。
恋人との別れから、「友達」という新たなスタートラインを見つけることができた。
例え同じ時間帯であっても、ある所では昼の終わりを告げ、ある所では朝の始まりを告げる太陽のように。
日曜日、上機嫌で自転車を漕いで、三樹の所まで行く。今日は快晴だ。まるで俺の心を映しているかのように。
やがて家に着いた。コンコン、とノックすると、しばらくして三樹が出てきた。
「糸井君、入って」
笑顔で迎え入れられる。俺達は廊下をゆっくり歩いた。
「あの、こんなこと言ったら悪いけど……、僕、何だか体がだるくて、少し寝てもいい?」
「ああ、良いけど……」
三樹はベッドではなく、ソファで横になった。来るタイミング悪かったかな、と、申し訳なく思いつつ、そんな所で横になっても疲れは取れないぞ、と思い名前を呼んだ。けれども返事はなかった。
「もう寝ているのか……?」
荷物を椅子の上に置き、三樹の寝ているソファまで近付く。肩をポン、と触ろうとした。
「……え?」
肩に触れたはずの手は、三樹の肩を通過して、ソファの皮に触れた。
もう一度試してみる。けれども手は体に触れず、ただ風を切るだけだった。
「……三樹?」
何度も何度も、同じことを繰り返してみる。けれども結果は全て同じだった。
俺はソファに触れることができる。ということは……。
……三樹が透けてる、のか?
そう分かった瞬間、体中に恐怖が渦巻き、血の気が一気に引いて行くのを感じた。
「……み、樹、三樹!!」
ビクッと体を振るわせ、三樹が目をぱちりと開けた。俺の声に、目を丸くしている。
「どうしたの?」
「三樹……体……」
震えて声がつっかえる。
もう一度、肩に触れてみる。
俺の手は、普通に三樹の肩にぶつかった。
「……あ、あれ?」
「……? 体がどうかしたの?」
三樹が寝ぼけ眼で訊いてくる。
「い、いや、なんでもない。ごめんな急に起こして」
三樹は再び眠りについた。もう一度触れてみるが、今度も普通に触ることができる。
……今のは、幻だったのだろうか。
あまりの驚きに、頭が真っ白になる。
(これは幻だ。幻なんだ……!)
俺の手足が、生まれたての小鹿のようにわなわなと震えていた。
次回、5月1日午前8時投稿です。
読んでくださりありがとうございました。




