第一話 会社社長と無表情な私
お久しぶりの方も初めましての方もお楽しみいただけたら幸いです。
他作品のキャラがちらりと登場しますが、本編には直接影響がございませんのでご安心ください。開店休業。をご存知の方にニヤリとしていただけましたら嬉しく思います。
「この男と結婚しなさい」
「はい、お父さん」
目の前に置かれた写真と、文字が並んだ紙一枚。ちらとも目を向けずに即答した私に、父が僅か目を丸くする。
「……一応、それに目を通しておきなさい。先方に失礼の無きよう」
重厚な黒革のソファから立ち上がった父の言葉に、短く是と返事をする。広々とした客間に自分ひとり取り残されて、私はテーブルに置かれた紙をそっと手に取った――同時に、外からすすり泣くような声が聞こえる。扉を一瞥して、手に持った紙切れへとまた視線を戻した。
「紙一枚なのね」
ぽつんと落とした言葉は、きっと彼にではなく、自分に向けたものだ。こんな風に省略されてしまったひと一人の人生。ここには書かれていないものがどれだけ彼にはあるのだろう。私にはきっと、ないのだ。省略する必要もない。本当に、紙一枚だけの人生だ。これからもきっと。
「真奈花」
「……お母さん」
小さく音を立てて扉を開いたのは、母だった。部屋に入るでもなく出入り口に佇みながら、はらはらと涙を流している。
「ごめんなさい、一度も出会った事もない方と……」
「……いいえ」
「だけれど」
「たくさんの恩恵を与えてくれた方々を私が助けられるなら、これ以上ない幸せだから」
「真奈花……どうして……いつもそうなの? こんな時くらい、感情的になったっていいじゃないの!」
髪を振り乱して泣き出す母へと顔を向けて、私は立ち上がる。
「誰か呼んできます。座ってください、お母さん」
「真奈花!」
「温かいお茶を淹れてもらいましょう、ね」
母の肩へと手を置いて、部屋の中へ促す。母は泣きながらも、とりあえず席へ着いてくれた。
「あなたが悲しい顔をして泣いてくれたら……せめて、私もあの人も、謝る事が出来るのに……それすらあなたは、許してくれないのね」
「…………私はもう寝ますね、お茶をここに運んでもらいますから」
部屋を出て、厨房に声をかけた。家全体がどこか湿っぽい空気だけれど、仕方がないのだろう。
私の家は、裕福だ。親に決められた人生だったけれど、それに不満はなかった。幼稚園から短大まで、自分の意思はそこにはなかったけれど、無感動な私だからこそ、ここまで来たのだろう。
「こんな私と結婚しなければならないなんて、不幸な方」
経営は至って順調だったが、急成長した同業者に目を付けられてしまった。あっけなく吸収合併されたと思えば、今度は結婚話。どうやら父の立場は形だけでも共同経営者としておきたいのか、双方の会社が共に歩いていくという証になるべく、私たちの結婚は決まったらしい。実際に条件はそう悪くはないようで、父はこれからも前とそんなに変わらない権利を得ているそうだ。戦国の世ならばまあ、人質として相手の家へ入るみたいなものなのだろう。
それにしても。
「これが所謂、『いけめん』というものかしら」
てっきり年齢も離れた方なのかと思っていたら、随分とお若いようだ。三十五歳。男性ならばいちばん脂が乗っている時期だろう。浮気やら愛人やら面倒事は多いかもしれないが、口出しさえしなければ大丈夫だろう。落とし種があっては困るが、こんな大企業のトップだ。そこまで馬鹿ではないだろう。
言われるまま縁故採用で家族の系列にあたる会社で働いていた私の社会人生活も、あっけなく幕を閉じるというわけだ。
「それにしても、どうして若くもない私と結婚しようなんて思ったのかしら……」
そうなのだ。言われるままにやってきた私が唯一こなせなかった問題が、結婚だった。
今日まで、もちろんお見合い話はたくさんあった。それこそ短大を卒業したらすぐにでも、とすら父は考えていたのに、ついに来年には三十の大台へ乗ってしまう。
というのも、私があまりにも無口で無表情なので、先方からお断りされてばかりだったのだ。
多少性格に問題があっても、きっとお嬢様特有のわがままだと受け入れられただろう。しかし何を言ってもしても反応しない私を、しだいに不気味がり、最終的には断られてしまう。格下相手ならば断られないだろうが、そこは父も欲望に素直だったのだろう。釣り合いが取れる相手にこだわった。しかし何回もそんな事をしていれば、当然噂になる。やがて私と見合いをしたいという相手自体がいなくなり、父は渋々私を就職させたのだ。
世間体が第一ならば誰かに嫁がせようと躍起になったかもしれないが、あくまでも家格にこだわった父は、それ以上私を結婚させようとはしなかった。正直、かなり稀な例だとは思うが。
「父にも罪悪感があったのかもしれないわね……」
両親の言いなりに生きてきたが、不満を一切言わない私が結婚に乗り気ではなかった事も、恐らく知っていたのだろう。こんな大きい家だけれど、幼い頃からコミュニケーションを取ってくれた方だと思う。私はこれまで、大きな幸せも、不幸も、感じた事はなかった。そんな私が僅かでも結婚の二文字に顔を曇らせたから、父は強く出られなかったのだろう。
私の性格は、多少だが父に似たと思う。不器用で口下手で、とても誤解されやすい。先ほども辛そうに顔を歪ませていたから、かなり心が痛んだはずだ。私ほどではないにせよ、父もまたあまり感情を表に出す事をしない。そんな父が少ない時間ながらあんな表情を見せたのだ。恨もうとは思わない。そんな私の態度が、謝罪すら受け入れないつもりかと両親を誤解させてしまったみたいだけれど。
「他人と共同生活と考えるだけで、ちょっとげんなりするわね」
あまり干渉しない人ならばいいな、とぼんやり考えていた。
まあ――私に興味なんて持つはずもないか。
初顔合わせはなかなか叶わなかった。相手が忙しすぎたのだ。大企業のトップともなれば、それも当然だろう。もしかすると結婚式が初顔合わせになるかもしれない。昔の偉い人のようだが、あまり気にはならなかった。婚約発表を済ませてからしばらくして結婚という流れも珍しくはないだろうし、そう急く事もあるまい。
焦りもせずに淡々と社会人生活を送っていた私は、しかしどこか現実味を帯びない現状に安心していた。ひょっとすると取り止めになるのではないかとすら思った。けれどやはり、私と同じように淡々と、時は経過していくものなのだ。
「日取りが決まった」
「え?」
「お前と篁さんの初顔合わせと結婚式だ」
仕事から帰り着替えもまだ済ませていない私に、珍しく早い帰宅を果たした父から声がかかった。いつかの客間であの時よりも平常心らしい父の声が響く。
そうか、もう決まってしまったか。話を聞いてから、もう三ヶ月も経過していたから、流れたのかもしれないとどこか期待する自分もいたのだが。
「……いつですか?」
「顔合わせは今月末。式は六月二十二日だそうだ」
「それは……来年のという事でしょうか」
「今年の六月二十二日だ」
今年。そんな馬鹿な。
声こそ上げなかったが、さすがに驚いて目を丸くする。今は三月だ。通常の式だってそれなりに時間がかかると聞いている。会社同士の繋がりで結婚をする私たちは、ただでさえ大々的にやらねばいけないはずなのに、準備期間がいくらなんでも短すぎやしないだろうか。びっくりしたといわんばかりの、そんな私の表情を父も同じような顔をしてまじまじと見つめている。とても珍しいものを見たかのように。いや――実際に私が目を見開くなんて、とても珍しいのだろう。
「いくらなんでも急ぎすぎではありませんか? 先方が式を急く理由でもあるのですか?」
「うむ……両社が合併後の業績を発表する時期と合わせたいとはおっしゃっていたが……」
「けれどそれは来年の年度末の少し前にとおっしゃっていましたよね」
「そう、だな」
珍しく口ごもる父を訝りながらも、私はこれ以上追及めいた事をしても仕方がないと言葉を切った。
「…………かしこまりました。どうぞご随意に」
小さく息を吐いて言った私に、戸惑いを見せながらも父が頷く。私は少し迷ったが、立ち上がろうとする父を呼び止めた。父がゆっくりと私の顔へ視線を向ける。何かに怯えているようにも見えるその顔に、私は小さく苦笑をもらした。
「今まで私のわがままを聞いていただき、大変ありがたく思っております。何不自由なく暮らしてきた恩義も忘れ、今まで独り身の生活を許されていました。重ね重ね、ありがとうございました。最後にこの家に住む皆さんや、会社の従業員の方々に恩返しが出来て、真奈花は安堵しております」
ゆっくりと背筋を伸ばしたまま頭を下げる。
本来なら、嫁ぐ時にする挨拶なのかもしれないけれど、今言わなければ永遠に失うかもしれない機会だから、すっぱりと言ってしまいたかった。
これは間違いなく私の本音だ。こんな難しい娘を投げ出さず、無関心になる事もなく、愛してくれた。それに感謝をしないわけがない。お母さんが少し癇癪を起こす事があるのだって、私があまりに無表情な人間だからだ。戸惑いながらも歩み寄ってくれたからこそ、お母さんは苦しんでいた。
「どうして――そんな事を言う」
「――お父さん?」
頭を下げたまま動かなかった私にぽつんと落とされた言葉に、私は顔を上げる。目の前の光景が理解出来なくて、私は固まった。
「一人娘のお前には、幸せな結婚をしてもらいたかった。お前の難しい部分を受け入れてくれる相手を探し続けたが、それもかなわなかった。それどころか――」
言葉を切った父の瞳は、潤んでいた。
続きは、言わずともわかっている。けれど私は、確かに安堵しているのだ。家を保つ道具にすらなれなかった自分が、こんな所で役に立てた。返しきれないものをすでに貰っているのだから、ここで駄々をこねるほど子どもにはなれないし、無知でもない。
しかし、父の言葉がひとつ気にかかった。
「……お見合いを断ったのは先方ではなかったのですか?」
「もちろんこちらからよ。うちみたいな家と繋がりが持てるのだから、外で愛人を作ってなんて考えている輩、それはたくさんいたのよ」
「! お母さん」
扉を開いて入った母の手元には、ティーセットがあった。お盆に載ったそれを静かにテーブルへ置く。母が手ずからこんな事をするのは大変珍しい。
「お父さんがそれを篩いにかけていったら、見事に誰もいなくなってしまってね。あそこは条件が厳しいなんて色々と言われて。そういう、娘可愛さの甘さが今回の合併騒動を招いたかもしれないけれど」
「…………うるさい」
父のぶっきらぼうな物言いに、はあ、とため息を吐いて母が気に入りのフルーツティーを淹れる。紅茶好きには邪道と言われるかもしれないけれど、昔からこれが好きなのだと母はよく言っていた。
「でも真奈ちゃん、本当にいいの?」
「え?」
真奈ちゃん。これまた懐かしい呼び名だ。母はいつからこう呼ばなくなっていただろうか。
「あなたは苦しい事や悲しい事を押し込めるのが上手だけど――傷付かないわけじゃないって、私もこの人もわかっているつもりよ。そんな風にすべてを諦めて本当にいいの? 結婚しなくてもいいだなんて、苦しいけれど私もお父さんも言えないわ。だけれどせめて、相手方にわがままを言ったっていいのよ? 条件でもなんでもつきつけてやればいいのよ」
次に続いた母の言葉に、私は戸惑う。正直こちらを見初めたとかならまだしも、会社のしがらみで渋々結婚をせねばならないのだから、そんな相手に少しでも反感を買うようなことをしてしまえば、行く末はどうなってしまうかわからない。母も、そんな事はわかっているはずだ。
「そんな事をしたらこちらの立場が悪くなってしまうでしょう?」
「どうかしらね。ねえ、あなた?」
「…………ふん」
楽しそうに父へ囁く母。父はずっと仏頂面だ。私は首を傾げながらも、母が淹れてくれた紅茶を飲む。
懐かしく、とても優しい味がした。
月末の顔合わせは、両家の挨拶も兼ねて日曜日にという事になった。
着物に袖を通して化粧を施した私が硝子越しに無表情に佇んでいる。着飾ってもなかなか華やかさが出ないのは、やはりこの顔のせいなのだろう。ホテルのロビーでぼんやりしていると両親に呼ばれて、私は歩を進めた。……いよいよ初対面だ。緊張しているような、そうともいえないような、妙な気分。
予約した一室に辿り着いて、従業員が扉を開く。相手の方はもうお着きです、と話していた通り、若い男性ふたりが席に着いていた。
おや、と私が考えていると、父がちらりと私を見て視線を戻す。ひょっとしてなにか理由ありなのだろうか。父は私に何かを言い忘れたらしい。微妙な空気が流れ出したところで、ひとりの男性がにっこりと微笑んだ。
「私の両親は既に他界しておりましてね。親代わりの祖父母がおりますがあまり体調が優れないので、今日は秘書を同席させました」
「篁の第一秘書を務めます榊と申します」
なるほど。確かにこれ以上ないほど身内だ――ビジネスパートナーとして私を受け入れるならば、尚更。
本当に、偽装結婚なのだな。ここに秘書を連れ立つ理由が他に考えられない。理想的なタイミングや見せ方、その他諸々をするには協力者が必須だ。あくまでも大切なのは両家の繋がり。ひょっとすると、彼には長年連れ添った女性が存在しているのかもしれない。だからこそ、私に変な期待をさせないように必死なのかもしれない。
まったくもって、そんな必要はないというのに。
「一ノ瀬真奈花と申します――どうか、末永くよろしくお願いいたします」
無表情に頭を下げる私に、篁さんは顔を上げてください、と声をかける。
「色々と急かして、申し訳ないと思っています。しかしご理解いただけるとありがたい」
「……ええ、もちろんです。こちらは、何も問題ありません」
「それを聞いて安心しました――改めまして、篁登流です。こちらこそ、末永くよろしくお願いいたします」
定型化された挨拶。しかしそれだけで済んでしまう間柄。
私と彼のこれからも、きっと変わらないのだろうと考えて、どこか安堵している自分がいた。
大きな不幸も幸せもいらない。平らかな毎日があれば――私はそれでいい。
結婚式も、婚姻届を出すのも、同じ場所へ居を移すのも、なんだかすべてが早送りみたいだった。その間も会話らしい会話はあまりする事もなく、やはり外側からの繕った形でしか私たちを位置付ける言葉は出て来ない。『仮面夫婦』とは、こういうものだろうか、と、ぼんやり考えていた。
「でも、村重さんも変わってるね。てっきり寿退社するものだとばかり思っていたけれど」
渡した書類に認印をもらい、小さく囁く上司に、私は短く、はあ、と返事をする。
仕事については、私のたったひとつのわがままだった。けれど通るとは思っていなかったのも事実だ。
――仕事を続けたい。
篁さんにそう話したら、彼は僅か目を見開いて、短く「かまわない」と答えた。
大々的に結婚式は開かれて、上の役職に就く人間は私がどういう家の人間かを知っている。しかしあくまでも両家のふたりが結婚を果たしたという事実しか知らない一般社員は、イコールで私が彼の相手だとは知らないし、もっと言うと一ノ瀬の人間だというのも知らない。これも私が通したわがまま。コネ入社なのに、それを表に出したくはなかった。口さがない人々に何かを言われるのは当然の代償だとは思うが、それよりもすり寄ってくる人間に対処する術を私は知らないから、とにかく家に迷惑をかけたくはなかった。だから母の旧姓を対外的には名乗って、万が一にも周囲に悟られないようにした。それが幸いして、現在も私が社長令嬢で、なおかつ合併した先の社長と結婚している事は、目の前にいる上司と一部の重役しか知らない。
ありがたい話だと思った。今までとほぼ変わらない生活を私はしているのだから。
「色々と役割もあったりするんじゃないのか?」
上司の声にぼんやりと考えていた私の頭がクリアになる。
「……あまり。女性同伴の席はもうしばらくは落ち着くと思います」
「しばらく休んでたもんな……まあ、何か困った事があったら相談しろよ」
「ありがとうございます」
頭を下げて、私は仕事に戻る。我が部署は雑用係のようなものだけれど、優秀な人は色んな所から補填要員として呼ばれる。雑用係も間違ってはいないけれど、ざっくばらんになんでも屋とする方がわかりやすいのかもしれない。
「あ、村重! 待った!」
「はい」
席に着いて新たな書類と向き合おうとしていた私を、先ほどまで話していた上司が呼び止める。
「今、営業から連絡入った。急ぎで纏めないといけない資料があるらしいんだが、出払ってる人間が多くて打ち込み早い奴寄越してくれって。悪いけど頼めるか」
「わかりました」
席を立った後ろから、小さく声が聞こえる。「どうしていつも」「いいよね花形部署に行けて」などと女性社員が耳打ちし合っている。……ヘルプに行ったところで、無表情の私に何かが起こるわけではないのに。そもそも行きたいならば、もっと自分の手を早くするよう努力したらいいのに。
一部の優秀な人材に自分が入っているなんて驕っているわけではないけれど、最低限やっているという自負はある。彼女達とは違う立場の人間だからこそ、気は抜けないとずっと思っていたから。
「我ながら、かわいくない」
小さく呟きながら、私は歩く速度を上げた。
「お疲れ様でした」
「ありがとう村重さん! 本当に助かった。これからみんなでメシ食いに行くんだけどどう? おごるよ」
営業のエースだと持て囃されているらしい男性社員が声をかけてきた。しまった、この人の名前をおぼえていない。なんだったかな、と一拍考えたけれど、結局は思い出せなかった。私はエースさんの瞳を見ながら、口を開く。
「とんでもないです、仕事をしただけですから。申し訳ありませんが両親が帰りを待っていますので」
「え? そんな箱入りお嬢様でもあるまいし門限なんてないでしょ?」
「ええ、そうなんですけれど――世話をしないといけない人がいまして」
目を伏せて言うと、無表情でも、いや、だからこそなのか、悲し気に見えると、以前この言い訳を考えた上司が言っていた。昔から親交のある重役だから、仕事上かかわりがないので上司と言うのもおかしいが。
あまり会社の人間と深くかかわりたくないと話した私に、こう言えば誰も深く追及して来ないだろうと言われたのだ。「世話」という言葉に何を連想するかはわからないけれど、皆一様に暗い方へと考えが及ぶらしく、困った顔で離れて行く人が多い。
「あ――そ、そうなんだ。ごめんね、変な事言っちゃって」
やっぱり。彼も例に漏れずのようだ。
「いいえ、誘っていただいたのに申し訳ありません」
「いや、お疲れさま」
ぎこちなく微笑んだエースの彼は、そそくさと皆の輪へと戻って行った。
会社から新居までは、近くも遠くも感じない。電車の乗換えをしないからと思うけれど、ひとつの場所にしばらく留まっていると多少は遠さも感じてしまうから、どうにも判然としない。駅からはまた少し歩くけれど、それもやはり疲れたと思うほど歩くわけではないから、近いが正しいのかな。
「どうでもいいことばっかり……」
ぽつんと落とした言葉に、疲れているのだろうかと思わずため息がこぼれた。
帰る家はあるけれど、そこは安息の地ではない。仕事の続きをするようなものだ。頭の中でどうでもいいことばかりを考えるのは、現実逃避をしたいからなのかもしれない。憂鬱になりながらも、刻一刻と近付く我が家に、また息を吐いた。
「こんばんは」
「おかえりなさいませ」
マンションのエントランスでコンシェルジュと挨拶を交わす。エレベーターまで向かうと足が一層重くなるのを感じた。暗証番号を入力しカードキーを差し入れ、いちばん上の階を押す。
「真奈花!」
閉まる寸前の扉の先で声をかけられて、私は少し急いで開ボタンを押した。
「今帰りなのか?」
「はい」
「ずいぶん遅かったね」
「あなたも」
お互いに淡々とした口調で、会話だけなら親しみのありそうなものも雰囲気を見ればそうではない事が一目でわかる。
ひとつ驚いたことがある。登流さんは、私と同じくらい表情がなく、また感情もあまり表に出さない人だっだ。エレベーターを呼び止めた時の大きな声に多少びっくりした。登流さんもあんな風に声を張る事があるのだと。
初対面での笑顔は、対外的にと身に付けたものなのだろう。そこが私とは決定的に違う所だ。その肩にかかる責任の重さが、彼に苦手な笑顔を浮かべさせるのだろう。私はそれを知った時、とても苦しくなった。彼が私と同じくらいそれを苦痛だと感じているならば、なおさらだ。
同情なのかもしれない。共感なのかもしれない。それでも――淡く芽生える何かがあったから、彼とやっていけるかもしれないと思えた。
けれど。
「もう二十二時だよ。普段はこんなに遅くはならないと思うが」
「残業をしてました」
「それならば一言あってもいいだろう。あらぬ嫌疑をかけられては困る」
「やましい事は何ひとつありません」
「もちろん事実がそうだとしても、君を知るどこぞの誰かに妙な話を流されればお互いの会社に不利益が生じるだろう」
「でしたら私を家に閉じ込めてしまえばよろしいのに」
最上階に着いて、私たちしか住人のいないフロアへ降り立つ。私の後ろを無言になった登流さんが続く。深いため息を吐いた音が耳に届いて、私はとても哀しい気持ちになった。
きっと、どうでもいい人相手ならばこんな風に沈まない。少なからず、経営者としての篁登流を尊敬していたと思う。私の会社も、父も、悪いようにはせずにきちんと地位を確立してくださった。吸収合併だなんて言い過ぎではないかというくらいには、驚くくらいに良くして貰っている。だから情に厚い所があるのだろうと思っていたけれど――結局、自分の会社が大事だからこそ、なるべく敵を作らない方針だというだけなのかもしれない。従業員を大切にする姿勢は素晴らしいと思うけれど、『会社』という二文字を出されるたびに、私個人が踏みにじられていく。これが仕事の延長なのだと気が付いた時には、肩にずっしりと重い何かが乗った気分だった。
やっぱり人質なのかしら。昔々の、敵方の養子になったり側室になったりした人々はこんな重たい日々を過ごしていたのだろうか。いや、そんな辛い状況と比べては失礼だろうけれど。私は、会社を持ち出されたら逃げられないし、両親や仕えてくれる家の人々を思うと、離婚してやる! なんて口にも出せない。だから沈黙するしかない。この家の空気は、どんどん重くなっていく――悪循環だ。
ほんの少しでいい。彼の内側を見せてくれたら。私から言いたい事を伝えるのはとても怖い。会社をどうにかしてしまえる能力を彼は持っているのだ。何か気に障るような事をしてしまったら、言ってしまったら、と思うと雁字搦めになってしまう。決定的に彼に失望するのもまた、怖い。
とても臆病ね――私。
キーで扉を開けて、私も先ほどの彼と同じようなため息を吐いたら、後ろからぽつんと声が聞こえた。
「閉じ込めれば――傍に置けても、きっと永遠に君は手に入らないんだろうね」
「え?」
「え?」
振り返って、目を丸くする私に、登流さんは同じように間の抜けた声を上げて目を丸くした。
あら? とても珍しい表情。
でも、今の言葉って一体どういう――?
「あの」
「聞こえた……?」
どういう意味なのかを訊ねようとすると、口元を引き攣らせた登流さんが弱弱しく問いかけるので、私はこくんと頷いた。登流さんの顔色が、みるみる間に紙のように白くなる。
「登流さん、お顔の色が……」
あまり良くないですよ、と彼の顔に伸ばした手を、登流さんが避けた。それは――徹底的な拒絶のように思えた。
「……最悪だ」
「え?」
拒絶された手が哀しくて項垂れていると、またも上から声が降る。最悪って、それは私の台詞ではないか。触られるのも嫌だというのならば、なぜ結婚なんてしたのだろう。外に愛人を作るにしても、最低限、子どもくらいは作るものだと思っていたのに。義務で触れられるのも辛いは辛いが、義務ですら触られたくないのだとしたら、余計に私が惨めではないか。
しかし俯く私の気持ちになど及ばないほど、この時の彼が慌てていたのだと次の言葉で私はすぐに知る事となる。
「お願い今の忘れて! なし! マジで! 心の中で思ってたのに口に出てたなんて俺なんなの馬鹿なの!?」
え?
「ああもう! せっかくここまできたのに、こんな所でぽろっと零しちゃう俺って」
「の、のぼ、登流、さん?」
これ以上ないくらいに目を見開いて私が呆然と彼を見ていると、彼もまた静止して私を見つめる。しばらくそうしていると、ふっと私の顔に影がかかった。
「珍しい顔。超可愛い」
唇に軽く触れた何かの意味に思い当たって、私はますます混乱を極める――が、それは登流さんも同じだったようで何とも言えない叫び声を上げたあと、「もう全部終わりだ」とこれまた大声で叫んだ後、家の扉を開き猛然と廊下を走りありえないほどの素早さでエレベーターの中へと吸い込まれて行ってしまった。
「今の――いったい誰?」
あまりにも間抜けな言葉が口を衝いて出てしまったけれど、この状況下ではそれも当然だったろうと今ならば私は思うのだ。