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夜中出歩くものたち

作者: 吉村杏

 エドワード・G・ウェルリッジは死んだ。

 その葬儀に出た人々は、かれの残した莫大な遺産の行方をあれこれ心配し噂し合った。女たちは、いったいだれがほんとうにかれに愛されていたのかと考え、結局それは自分だというところに落ちついた。彼女たちのひとりひとりに、夜の代償としては充分なくらいのものが渡されたからだった。もちろんひとりずつ、極秘裏に。

 若き青年実業家の死に顔をひと目でも見ることのできた者たちは、かれがまるで死を待ち望んでいたかのように錯覚した。

 まったく生前と変わらぬ装いに、うしろに撫でつけられきっちりと整えられた、ゆたかな暗褐色の髪。死人特有の、青白い臘のような肌にはいつも漂っていた雄々しさはなく、もう二度と輝くことはないオニキスの瞳も閉じられてはいたが。

 しかし特筆すべきは、そのかたちのよい唇と、口の端に浮かべられた笑みだった。唇は生命力に溢れた少年のものより紅く、まったく短かった人生に悔いはないというふうに、微笑みのかたちにつくられていた。

 実際、かれは眠っていた。自分の書斎オフィスの安楽椅子にもたれながら。忙しい午後の、ほんのまどろみのなかで、かれの魂は天に召された。静かに、そして不思議なかたちで。眠っていたかれのシャツの襟は乱れ、その首筋には、情事の痕跡を示すかわいらしい噛み痕がついていた。それ意外には、自殺や他殺を示すものはなにも見られなかった。医者は死因に首をひねり、苦心の末、急性の心臓麻痺と片付けた。

 しかし、ともかくかれの葬儀は通例通りに行われ、この、聖なるクリスマスに生まれた青年は、ハロウィン前に墓に入った。

 閑静な墓地で、かれの棺に土がかけられると、年老いた重役たちは、ふいに頭に浮かんだことを、ばかばかしいと一笑に付した。

 新しき自由の国に渡ってくる前に、信心深い祖先が信じていた、聖誕祭(クリスマス)に生まれた者は、<夜中出歩くもの>になるという言い伝えを。


 エドワードには、懇意にしている青年がいた。名を、シエルという。

 かれの名字を聞いたものはいなかった。彼自身も語らなかった。だから周囲の人々が知っていたのは、かれが神父だということと、そのたぐいまれな容貌だけだった。

 海の蒼さを持つ瞳に、それに華を添える黄金(きん)の髪は、肩につくだけのわずかな長さを残して切り揃えられている。かたちよい額と通った鼻筋、線のほそい顎は磁器人形(ビスク・ドール)のようだが、桜色の唇がほころぶと、その整った顔に、人を安堵させる、やわらかな笑みが広がる。かれはそうしていつもおだやかな笑みを浮かべながら神に祈りを捧げ、ミサを行っていた。

 エドワードと出会ったのはほんの二、三ヵ月前のことだった。いつも変わらないミサへの出席のなかで、ひとり見慣れない顔を見つけたのがはじまりだった。

 エドワードには、人を惹きつけるなにかがあった。それは、その洗練された物腰や、ちょっとした仕種などでははかれないものだった。もう天性のものと言ってもよかった。はじめはほんの挨拶程度にかるくことばをかわすだけだったのが、そのうちに、教区外のかれの教会に足しげく通うエドワードにお茶を出すというところまでいっていた。

 今日も今日とて、シエルは、教会前の庭の手入れをしながら、親しい友人が訪れるのを待っていた。皮肉なことに、シエルのところには、エドワードの訃報は届いていなかった。おそらく、シエルの存在を誰にも告げていなかったのだろう。

 しかし、シエルはべつだん気に留めなかった。きっと仕事が忙しいのだろうと考え、今度のハロウィンには来てくれるだろうかと思った。子どもたちも、エドワードの来るのを楽しみにしていたからだ。

 シエルは土を払って立ち上がると、夕方の祈りの準備のために、教会の重い扉を押し開けてなかに入っていった。

 扉が閉められると、あとは尖塔の上の十字架が、沈みゆく夕日に輝くだけとなった。


 そのころ上流階級では、ある噂がしきりに人々の口にのぼっていた。エドワード・ウェルリッジの幽霊が、夜な夜な徘徊しているのを見たというのだ。

 噂の出所は、かれの一番の恋人を自称する女たちからだった。彼女たちは、エドワードが自分のことを忘れられずさまよい歩いているのだと、もうとうの昔に絶滅したはずのロマンスに酔い、パーティーに現れるたびに、そのことを熱っぽく語った。

 世の常で、噂にはいくつもの尾ひれがついて独り歩きし、はてはエドワードは生きたまま埋められたのではないか、自分の財産が心配で舞い戻ってきたのではないかなどと、はなはだ不名誉なものまで聞かれるようになった。

 だが、かれはたしかにさまよっていた。なにが災いしたのか、天の楽園へも行けず、かといって墓土の下、棺の中でじっとしているわけでもなく……、夜の獲物を求めて。

 エドワードの幽霊の噂が真実だと知れるのには、意外なほど長くかかった。まあ、それもせいぜい二、三週間のことだったのだが。

 なにがそれを知らしめたのかというと、エドワードの恋人といわれる女――名をマデラインという――が急死したのだ。彼女は急激に痩せ衰え(死因は衰弱死だと医者は判断した)、死の床についてからは、うわごとのようにエドワードの名を呟いていたという。かれの瞳にみつめられるとなにもできない、今にもかれがわたしの手をとって連れ去ろうとしている……、と。

 それになにより、気休めにしかならない見舞いに訪れた客のうちの何人かが、今度は自分の目で、それも白昼堂々とマデラインの寝室に立つ故人エドワードの姿を認めたのだった。

かれは――いや、幽霊はと言うべきか――恐怖、驚き、そのほか言葉にできない思いを顔一面に浮かべている客たちに笑みを添えて一礼すると、マデラインの枕元から忽然と姿を消したという。

 レディ・マデラインが不安のうちに死んだあとも、幽霊はちょくちょく現れた。あるものはパーティーの席でバルコニーにいたと言い、またあるものは霧の深い五番街を歩いていくのを見たと言った。

 彼らの心のなかには恐れもあったが、半分以上は好奇心が占めていた。次は、いつ、どこで、だれに会うために訪れるのか……。なにかの席に集まると、囁かれるのはもっぱらそのことだった。エドワードは、今どこを歩いているのか、と。


 かれは人気のなくなった通りを、悠々とした面持ちで歩いていた。月は雲に隠れ闇は濃かったが、開かれた彼の瞳は、それよりももっと漆黒の輝きを放っていた。うすい唇は前よりも濃く紅く、不吉な笑みを浮かべていた。

 かれの足は、セント・パトリック教会に向いていた。

 革靴の音も生きていたときそのままに、かれは教会の前に足を止めた。そうして、生前と変わらぬ動作で呼び鈴をならした。間をあけて、ゆっくりと、二度……。

「はい」

 ややあって扉を開けたのは、かれが最も好む存在、シエルだった。

「ウェルリッジさん!」

 なにも知らない若き神父は、少しばかり驚きの表情を見せたが、すぐにかれをなかに招き入れた。

「心配していたのですよ、なかなか教会(こちら)にいらっしゃらないから……」

 にこにこと先に立って歩きながら、シエルは言った。

「子どもたちも、あなたがいらっしゃるのを心待ちにしているようで……ハロウィンには、なぜ来ないのかとさんざん聞かれましたよ」

 その口調には、咎めるような響きは少しも感じられなかった。ただ、久しぶりの再会を心から喜んでいる様子がありありと読み取れた。

「それは悪いことをしたね。ちょうど別な仕事が入ったものだったから……」

 まさかその日には墓のなかだったと言うわけにもいかない。エドワードは夜遅く訪ねた非礼を詫び、ただ突然会いたくなったのだと言った。

「構いませんよ、そんなこと。来てくださっただけでもうれしいです。“教会はいつも開かれています”からね」

 説法の常套句を口にしたシエルに、エドワードは笑った。死人を受け入れてくれるところなど、ここのほかにはあるまい……。

 神父は亡霊を私室へと案内し、友人のために紅茶をいれ、たった二、三週間のことを語り合った。

 エドワードは――かれはもう幽霊などとは呼べなくなっていた――聖なる教会に畏れもなく堂々と入り込み、十字架の掛けてある神父の部屋で、出された紅茶を批評までしながら美味そうに飲んだ。

 その姿に、死者の暗い面影は微塵も見られなかった。――そう、話に夢中になっていたシエルが立ち上がるまでは。

 シエルは紅茶を注ごうとふいと立ちあがり、その拍子に、テーブルの上に置いてあった新聞がばさりと落ちた。彼がそれを拾おうとかがみこむ前に、エドワードが口を開いた。

「『十一月十一日、オズワルド家の三女、マデライン・C・オズワルド死去』……」

 エドワードは、開かれた死亡広告欄のページを読み上げているらしかった。

「どなたか、お亡くなりになられたんですか?」

 憂いを帯びた瞳でシエルが尋ねると、エドワードは、額にかかった髪を払おうともせずに、その奥で唇の端を上げて笑った。

「……そう、レディ・マデライン……。彼女にはまったく惜しいことをしたよ。あと一ヵ月はもつと思っていたのに」

 その笑いになにか不吉なものを感じたシエルは、手をとめてエドワードのほうに向き直った。

 神父の怪訝な眼差しに、エドワードはくすりと笑って続けた。

「十月三日付けの新聞、あれにわたしの死亡広告が載っているはずだが? ここにこうして迎え入れてくれたところをみると、読まなかったようだね」

「悪い冗談はやめてください、エドワード。たしかに、ここのところ新聞はとっていませんでしたけれど……なにかの間違いでしょう? 現にあなたはこうやって……」

「生きているだろう、って?」

 エドワードはさもおかしそうに笑った。

「敬虔な神父なのに、悪霊の存在もわからないとはね……。わたしが本来ならばちゃんと墓に入っているべき人間だという証拠に……ほら」

 エドワードは立ちあがり、シエルの手を取り自分の胸に押し当てた。

「心臓の鼓動は?」

 ――感じられなかった。ましてや、手首を掴んだその手は氷のように冷たかった。

「……まさか、そんな……それでは、あなたは本当に……」

 シエルの白磁の肌が、血の気を失い蒼ざめる。唇からは、信じられないという呟きが、声にならずに漏れた。それを見て、エドワードは満足げに微笑んだ。

「――でも、それならなぜ、この教会に入ることができたのですか……? ここは清められているはずなのに……」

「今のわたしを動かしているのは」エドワードは闇の瞳をシエルに向けた。

「生きているうちには到底できなかったことへの執念だけだ。こればかりはだれにも邪魔はさせない。――なんだかわかるかい?」

 最後は、歌うように楽しげだった。

「……いいえ」

 シエルが首を振ると、エドワードはゆっくりと囁いた。

「きみのことだ、シエル」

 シエルの瞳が驚愕に見開かれる。ティーポットをあやうく落としそうになったところをエドワードが押さえる。その氷の感触を振り払いたい衝動を必死に抑え、シエルは顔をあげた。

「はじめわたしは、すぐにでもきみのところへ行きたかった」エドワードは、いとおしそうに目を細めた。

「けれど、もし新聞を読んだのなら、きみは警戒すると思ったのでね。それになにより、わたしには活力が不足していた。レディ・マデラインのところへ行ったのはそのためだ。断っておくが、わたしは彼女に強制したわけではない。彼女が自分から言ってきたのだ……わたしの話を聞きたいとね」

「残念なのは、彼女が意外と早く死んでしまったことだな。あれくらいの吸収量では、もっともつと思っていたのだがね。なにぶん、こういう経験ははじめてなもので勝手がつかめないのだよ」

「……では、あなたは吸血鬼(ヴァンパイア)……」

 呟くシエルの声は震えていた。

「そういうことになるかな」

 エドワードは、檻から放たれた獣のように獰猛な笑みを浮かべた。

 それはまさしく、世のしがらみという窮屈な檻から解かれた、一匹の、凶悪ともいえる狼だった。

「ウェルリッジさん、あなたは……」

「エドワードで結構」

 吸血鬼は、尊大な態度でぴしゃりと叩いた。

「なぜかって? 生きているあいだ、わたしには社会的な立場というものがあった。女を何人愛そうが、だれからもなにも言われない。だが、男となると話はべつだ。スキャンダルが命取りにもなりかねない。それにきみは、まがりなりにも聖職者だ」

「あなたは……あなたがあんなにも熱心に教会に通ってくれていたのは……」

「わたしは神など信じていなかったが」

 小馬鹿にするような口調で、エドワードは一歩前に踏み出した。

「きみの信頼を得る良い方法だったようだな」

 気圧されて下がっていったシエルの背は、すぐに壁に当たってしまった。

「そんなに怖がらなくてもいい」

 エドワードは、手中の獲物を弄ぶ猫のような目でシエルを見下ろした。

「わたしはきみをマデラインのように死なせたりはしない」

「主よ……」

 エドワードの魔性の瞳に見つめられて消え入りそうな意識をふりしぼり、シエルはこの邪悪な魔物を祓おうと、祈りの言葉を口にした。

「無駄だよ」吸血鬼は、痛くも痒くもないといった顔で鼻を鳴らした。

「誰にも邪魔はさせないと言っただろう。たとえそれが神であっても同じことだ。わたしが欲しいのはきみだけだ。簡単なことだろう?」

「わたしは行きません」

 シエルは気丈にもきっぱりと言い切った。

 エドワードは驚いたように片眉を上げたが、すぐにゲームを楽しむような顔になった。

「たとえあなたがなんであろうと、わたしは一生を神に誓いました。あなたが言われたように、わたしはまがりなりにも神父です。人々を神の教えに従い導くのがわたしの仕事(つとめ)です。あなたは……こんなふうになってはいけないかたです。どうか……」

「それならそれで結構」エドワードはシエルの言葉をさえぎった。「だがわたしは、みすみす地獄へ送り返されるために墓から出てきたのではない。きみがわたしの申し出を断るというのなら、こちらにも考えがある。どうしてもと言うのなら……」

 唇の端に、牙の犬歯が覗いた。

「ここの住人たちに、マデラインのように干乾びてもらうだけだ。きみの考えが変わるまで、何ヵ月かかるかな……? いや、何週間と言うべきか? 今度は彼女のように性急にはしない。じっくりと時間をかけて、だ。そういえば、あの子どもたちはどうなるだろうかね。まだ子どもは試してみたことがないものでね。根比べといこうか、神父様――?」

「やめてください!!」

 シエルが、片手で顔を覆って叫んだ。金髪が乱れて首筋にかかり、怒りのために、頬には赤みがさしていた。その姿はエドワードの人間としての理性を地の底まで押しやり、吸血鬼の本性をむき出しにさせた。

「わたしが……YESと言えばいいのでしょう……? どうぞお好きなように……。だから、せめて子どもたちだけには……!」

「それは性急(せっかち)すぎる」吸血鬼は笑って制した。「今すぐというのも面白くない。じゅうぶん時間をかけてもらおう。きみが自分の意思でそうなるようにね」

「それでは……!」

 悲鳴ともとれる悲痛な叫びを、吸血鬼は無視した。「選択権はわたしにある」

「……わかりました」

 それを聞くと、エドワードは掴んでいた右腕を放した。掴まれていたところは、長いあいだ冷水にでもつかっていたかのように痺れていた。

 エドワードは壁に支えられているシエルの上に体をかがめ、その細く滑らかな首筋に歯を当てた。

 シエルの心臓が大きく脈打つと同時に、牙は静脈を捉えていた。

「――っ!」

 あまりの激痛に、シエルはのけぞった。敏感な首筋を、鋭い牙によって裂かれる痛み。恍惚のうちにその手にかかるのではなく、闇に堕ちる契約の印として……。

 端正な面は苦痛に歪められ、握り締めた拳も力を失い下がった。

 シエルが立っていられそうもないのを認めると、エドワードは行為にいっそう力を込めた。

「……は……っ、あぁっ!」

 ついにくずおれた身体を抱きとめると、汗で張りついた金の髪を手ですいた。そして、無意識のうちに抗ってはだけた法衣を直そうともせずに、遠慮なく隣の寝室へ入っていった。

 苦悶の表情のまま気を失っているシエルをベッドに横たえ、しばらくそのまま、神に愛された彼の美貌をこころゆくまで眺めていたが、朝日の差し込む頃になると、その姿はどこへともなしに消えていた。


「……それからというもの、かれは……エドワードは……毎晩のようにここへ現れ……わたしはかれにそれを……許しているのです……」

「それ、というのは、このあたりに住んでいる人たちがかれの餌食にならないようにするために、きみがかれに自分の血を吸わせている……、ということだね?」

「……はい、そうです」

 苦しげな息のなかでシエルは答えた。もはやその身体には生気が感じられなかった。

 ベッドに横たわるかれを、年老いた司教は見つめた。陽の光のなか、子どもたちと遊んでいた、かつての輝くばかりの美しさはもうなかった。だが、かわりに、命の灯が燃え尽きる寸前の、凄艶なまでの美しさがあった。

 その吸血鬼のことが本当ならば、奴はきっとこのためにかれをここまで長らえさせたのではないかと、司教は思った。この美しさを愛でるために……。

 しかし、なんという悪趣味な手段だろう。孤児院で初めてかれに逢い、引き取り手のないままに聖職者の道を歩ませたというのに、愛されたのが神にではなく悪魔にだとは、皮肉なものだ……。

「ひとつ、お願いがあります……」

 目を閉じ、決意のこもった声でシエルが言った。

「わたしが死んだら……これ以上人々に不幸が訪れないように、わたしを……」

「人がいつ死ぬかは、神様がお決めになることだよ、シエル」

 子どものころに立ちかえったようなやさしい声で、司教は諭した。

「ええ……、わかっています。でも、かれは……」

「わかっているよ。もし、かれが来たら、責任をもって地に還そう……。だからもう眠りなさい。夜の空気は身体に毒だ」

 よっこらしょ、と、司教は枕もとの椅子から立ちあがった。

「もう十二時だ。エドワード……きみの言う、かれは来ないようだから、おいとまさせてもらうよ。明日また来よう」

 途端、寝室の扉がものすごい勢いで開いた。

 そこに立っていたのは、長身の青年だった。

「エドワード……」

 そちらに目を向けたシエルが悲痛な声で呟き、吸血鬼は牙をむいてにやりと笑った。

「わたしの邪魔はさせない。今日が約束の日なのだからな」

 傲岸不遜の吸血鬼は、腰を抜かした司教に一瞥をくれると、ゆっくりとシエルの寝ているベッドの方へ歩み寄ってきた。

「さあ、決心はついたかい?」

 先程とは打って変わったやさしい声色で問う。しかし、そのなかには有無を言わさぬ響きがこもっていた。

「あなたが、約束さえ守ってくれるのなら……」

 罪の苦悩の喘ぎの中で、シエルは諦めたように静かに言葉を吐いた。

「いい答えだ」

 吸血鬼は満足そうに微笑むと、シエルを病床から軽々と抱き上げた。

「最後に言い残すことはないのか、シエル?」

 床にへたりこんでいる司教を顎でしゃくる。

 シエルは最期の息のなかから言葉を紡ぎ、これまで幾度となく繰り返した懺悔をもう一度唱えた。

 司教が最後に聞いたのは、彼が墜ちてゆく闇のことだった。

「わたしはもう……ここにはいられません。たとえあのときの気の迷いが、人々を救うためだったとしても……神はお許しにはならないでしょう……。わたしは、エドワードと行かなければなりません……。もし、わたしのために祈ってくださるのなら、どうか……」

 かれのためにも祈って、と、その唇は動いたように見えた。


 そしてそれきり、かれらはいなくなった。

 かれらがどこでなにをしているのかは、だれも知らない。シエルの望んでいたように土に還されたのか、それとも夜をさまよっているのか……。

 夜中出歩くものたちの夜は、まだまだ長い。

                                                   END.


高校時代に初書きし、その後多少の手直しを加えつつ塩漬けにしていましたが、現代とは異なる場所・時代におけるオカルトファンタジーつながりということでupすることにしました。

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