第3話 よわい
「嫌なの、嫌だ。もう嫌だ。近づかないでよ・・・」
「榎原・・・・?」
いらないって、本当に。優しさだと思わないで。辛いだけ。離れてよ。お願いだから・・・。
「・・・・ちょっと、来い。」
腕を強くつかまれた。痛い。気がする。もう、分からないことばかりだ。
無理やり立たされて、引きずられるわけにはいかないから何とか自分の足で歩く。もたついてうまく歩けないけど、前にいる人―坂本先生は、私の方を見向きもしない。・・・泣いた後の顔なんて見て欲しくないからいいけど。
――歩くうちに、少し気持ちが落ち着いたかもしれない。涙はもう出ていない。ただ、『拒否する』私はまだいた。だからといって、今先生の手を振り払っても逃げられるとは思えない。坂本先生は確か、バスケ部顧問だった気がする。到底、文化部の私が逃げたところで、簡単に追いつかれるのが落ちだ。
「・・・先生、逃げませんので、手を離してください。痛いです。」
「・・・。」
すっと、先生は手を離してくれた。歩くペースは変わらない。ゆっくりでもなく、早くもなく。というか、どこに行くのだろう。先程、西館の中央階段を下りたのに、今度は南館の端の階段を上っている。だが、尋ねられる雰囲気でもないのは確かだ。
「・・・。」
「・・・。」
南館と西館を繋ぐ三階のスロープに足音が響いた。と、いっても私は上履きだから実質響いて聞こえているのは先生の靴の方だけだろう。ボーっと、先生の靴の辺りを眺めながらそんなことを考えていると、いきなり先生の足が止まった。不思議に思って顔を上げれば、坂本先生は複雑な顔をしてこっちに振り向いた。
「・・・、ここでいいか?」
「え?あ、え、あーはい。」
何が、とは聞かなかった。突然だったためよく分からなかったが、多分今まで話を落ち着いて出来る場所を探していたのかもしれない。
「何があった、って聞いてもいいか?」
「はい。」
私がしっかり答えると、先生は少し驚いたようだった。それから、小さい声で「じゃあ・・・何があった?」と、尋ねられた。
「美術部で、揉め事が起こりました。私は、それで、人を叩きました。クラスの・・・」
−さん、と言おうと思ったけど、名前が分からない。身振りで伝えようと、長い髪を現すように手を耳のした辺りで上下に動かせば、先生は首を傾げた。
「誰?」
「・・・すみません、名前、分からないです。」
「え?」と、坂本先生が声を上げると、少し私は居難い。クラスメイトの名前が12月にもなって分からないのは、やはりおかしいことなのだろうか・・・。ジェスチャーをしていた腕を下ろして、スカートを強く握った。
「え、あ、そうか・・・」
髪を軽く掻くと、先生気まずそうに私から視線を逸らした。どうせ、この先生も、この後に続ける言葉は同じ。何があった、の次。何でそうなった。何故、何故。皆そればかりだ。
「何故、そうなった?」
やっぱりそうだった。つまらない人だ、この人も。
心の中で反復する。『同じ』『同じ』『同じ』。急激に冷えた状態の精神が、生暖かいような返事を返せるはずもなく。
「なんとなく」
口にしていた。『なんとなく』。一番、楽な方法だ。考えなくていい、答え方。
ふと思う。いつか、『なんとなく』だけでは生きていけない場所に行かなければならないと。「なんとなくでも、やっていいこととやってはいけないことがあることが分からないのか!」なんて、言われそうだ。
・・・本当は、違う。本当は全然違うのだ。意味もなく、叩いてしまえるほどの感情じゃなかった。意味があって、自分じゃどうにもできない感情があったから、あんな行動になってしまったのだろう。
悔しかった。何故だか、その言葉しか、答えには出せないと思った。
「・・・榎原が、『なんとなく』なんていうの、珍しいな。」
「先生」
思ったより、大きな声が出た。でも、言っておかなければならない。
「先生、私は『榎原和実』です。『基樹』じゃないです。だから、『なんとなく』行動に出ることもあります。」
学校で、兄がどれほどの影響を及ぼしたか。それは、卒業した今でも私には身にしみる。お兄ちゃんの生き方は、この中学校でも有名だった。と、いうか、兄はこの学校の生徒会長を務めていたのだ。
「・・・榎原、それは俺に聞いて欲しいこと?聞いて欲しくないこと?」
「どちらでも、いいです。ただ今は早く帰りたい。」
息をのむ音が聞こえた。私じゃない、先生だ。先生は私を真っ直ぐに見つめて、何かを見透かそうと必死になっている気がする。つまらない。つまらない。
人間が、つまらない。大人も、子供も、変わらないじゃないか。
そんな私の中の声が聞こえたかのように、先生は私から目を逸らし、ため息を一つ零した。
「・・・ああ、今日は帰っていい。」
「・・・では、失礼させてもらいます。」
廊下を、普通の速さで歩く。遅くもなく、早くもなく。逃げるような素振りは決して見せない。先生も、クラスメイトも、生徒会の人たちも、まりも、なんだかんだ言って他人だから。弱みなんて、見せたくないっていうのが本音だ。
1年の教室を横切るとき、中から声がした。ゲームの話のようで、楽しそうな声が聞こえる。その中の、一単語、「弱い」という言葉が、どうしても私の頭の中で反響し続けた。
「弱い」って、私に言われた。気がした。
家の鍵を取り出す。寒くて、指先が赤くなっていることに気付いた。早く、部屋に戻って、ベッドに横になりたい。
「風邪、ひきそう。」