第2話 いたい
「誰が」
繰り返し聞けども、誰も答えてくれなかった。・・・ヤバイ、切れそうだ。まりは私のその状態をかすかに感じ取っているのか、口を開こうとしても言葉がないらしい。顔が強張っているのが伺える。やけに自分の心が冷静なのが、自分でも恐ろしいと思った。
「聞いているんだけど、誰か答えてくれない?」
「偉そうね。本部会役員サマ?」
声がした方にいたのは、髪の長い・・・同じクラスの女。見るからに頭悪・・・じゃなくて、派手。中心を仕切っているタイプだと、一瞬頭をよぎる。勘、という頼りないものだが。
たかが、私の絵を汚されただけだ。汚されただけ。そう思えば大丈夫なのだと言い聞かせる。だけど、もしもそれが『意図的な行動』だとしたら・・・それは、とても危険な考えだと気付けていた。だが・・・このままじゃ、私が『オカシイ』
そして、私は『この人だ、この人がやった』。そう、思えば楽なんじゃないかって、思った。それが、どんなに苦しいことかも知らずに。
「・・・あれ、あなたがやったの?」
「被害妄想が激しいのも利己的人間の特徴?」
彼女の笑った声が、顔が、仕草が、にくい。
ぶち。本当に音がする。あー駄目だよ、こんなの駄目だ。抑えろ、自分。冷静さを失ったらなにが残るの・・・。分かっているけど・・・その音は、何度も何度も繰り返し自分の頭の中で響いた。
ぶち。ぶち。ぶち。ぶち。
繰り返し、繰り返し。どんどん音が近づいてくる気さえする。自分の中に、渦巻くのは何なのか。分かりたくもない。けど、その影は襲ってこない。ただ、包む。私を、私の思考を。
「っいったい!」
手がジンジンする。痛い。私もいたい。いたい。いたい。いたい。誰だ、彼女は。だれ。知らない人なのに、他人なのに、私は今、何をした。
「人を、意図的に傷つけていい人なんていない」
また、だ。声がする。逃げたい。だから、私は逃げた。泣くなんて、可愛らしい女の子みたいなことは出来なかった。ただ、その場にいてはまた誰かを傷つける。ドアを開ける。自分の鞄は・・・いい。後でとりに行く。とりに行かなくてもいい。今日は宿題なんてない。
・・・あぁ。やっぱり私は『普通』だ。だって、こんなに普通の生活を持っている。宿題だって気になるよ。でも、今はいい。いらない。そんなもの。開けっ放しになっていたドアを潜って、私は走った。
廊下を走った。全力で。怖かった。逃げたかった。『早く、早く』と私を急かす私がいたのは、いけないことなのだろうか。
足が縺れて、こけてしまいそうになった。廊下の開いた窓の枠に掴まって、衝撃を防ぐ。そうすれば、限界が来ていた私の足はいとも簡単に崩れ落ちた。
「・・っ・・はぁ・・ぁ・・・・は・・」
ヤバイ。怖い・・・怖い。――美術室のドアを出たときの一瞬見えた、まりの顔が頭から離れない。驚いていた。いや、驚くなんてもんじゃない。見ていた。私がしたことを。嫌だ、嫌だ・・・。
「・・ゃ・・だ」
冷静な意識は、さっきの私を否定するものばかりだった。今頃涙が溢れる。口に入った。しょっぱい。・・・どうしよう。どうすればいい。分からない。知らない。こんなこと・・・今までなかった。
「・・い・・たい・・・・ぁ・・・」
なんで、こんなに弱い。なんでよ。私は叩いただけ。名前も分からない。分かろうともしていなかったクラスメイトを叩いただけだ。・・・だけ、なのに。
ねぇ、彼女、「痛い」って言っていた。私も痛い。怖くて痛い。淋しくて痛い。ああ、もう身体全部痛い。痛いって、辛いよ。辛くて哀しい。哀しいのが痛い。もう意味わかんない・・・。
私は知っている。人が、傷つけることを。傷つけて、それでまた、傷つけられる。知っている。だから怖いのだ。・・・逃げる、っていう行動は怖いって気持ちの現われだって言っていた。誰?これはお兄ちゃんが言っていたことじゃない。誰だっけ・・・。
「・・・榎原?」
声がした。知っている声。・・・聞きたくない。ねぇ、聞きたくないの。その声が、今は怖い。全部痛い。鼓膜を震わすその音でさえ、私の中では痛みを伴った。聞きたくないなら、耳を塞げばいい。そう、思って手をやっても、怖くて、怖くて涙は止まるどころか、更に頬を伝った。止められない。
「・・・ゃ・・」
否定の声を上げても、彼は近づいてくる。
何で、私が苦しまなきゃいけない。傲慢な考えだとしても、今はそうした考えしか出来ない。したくない。自分を守るためだったら、今なら、今ならなんでも出来る。そう思えて、哀しくなった。
自分が嫌だ。声なんてかけないで。いらない。
「・・・来い。」
触らないで。近づかないで。引っ張らないで。泣いているのが分からないのか。この人は。痛いって、分からないのか。分かってよ。分かって欲しいの。
そう、思っても口には出せない。私が、誰かを傷つけたことを知られるわけにはいかない。私の中では『自己防衛』の四文字が浮かんだ。そして、言葉は、口は、語る。
「もう、嫌だ。」