婚約破棄をした夜まで、私に寝物語をねだるのですか
「今夜も、九つの鐘でいいかい」
婚約を解く書面に署名したばかりの人にそう聞かれて、私は思わず自分の耳を触った。
聞き違いだろう。たった今、隣の部屋で、ノエは父に頭を下げていた。川向こうの領主の娘エステルと結婚したい、リゼとの約束は自分の不実で破るのだと、父の顔を見てそう言った。その点だけは、私の好きだった男に違いなかった。
「何の九つでしょう」
「木靴の王様だよ。昨日、魚に呑まれたじゃないか。あれからずっと気になっているんだ」
ひどく傷ついていても、三年も続けた癖は出る。魚に呑まれたのは王様の家来のほうですよ、と危うく訂正しかけた。
片方の縁を爪で二度たたくと、対の巻貝が二度鳴る。二人が貝の口を上に向けている間だけ、声も息遣いも届く。いつも九つの鐘どきに、私の枕元でその音がした。いつの晩からか、寝台の私のいない側に、あの貝を置くようになった。いずれそこに眠る人の声を、ひと晩ずつ先に聞いているつもりだった。
「奥様になる方は、ご存じなの?」
「病気をしてから夜は昔話を聞く癖がある、と話してあるよ。子供みたいで可愛いと言ってくれた」
あの人は笑うと左の目だけ少し細くなる。いま、そうなった。私の前で、その顔をするのか。私は手を握った。さっきペンを持っていた指に、黒いインクがひと筋ついていた。
「その昔話を、誰がしているとお伝えになったの?」
「そこまで言う必要はないだろう。エステルが気にするかもしれないし」
自分でも気にするようなことだと知っていて、私の声は欲しいのか。
三日前、木靴の王様が鯨のお妃を迎える話をした。名前をつけてくれと頼んだら、すぐにエステルと返事があった。綺麗な響き、と私が褒めたら、そうだろうと彼は弾んだ声で答えた。私はあの日、自分で鯨の声色を作って、その人の名前でおやすみなさいと言ったのだ。
「ばかにしないで。あなたの好きな方のお名前まで、私が寝床で呼んでいたのね」
ノエの口から笑みが消えた。私が思い出したことを、彼もようやく思い出したらしかった。
「あれは……思わず出てしまったんだ。傷つけるつもりはなかった」
「ええ。私も、あなたがそんなつもりで毎晩呼んでいたとは思いたくないわ。貝はお返しします。明日の朝、取りに来てください」
彼は私の肩越しに応接室の扉を見た。さっき父の前で夜の話だけしなかったのは、その耳に入れたくなかったのだろう。私がそちらへ戻ろうとすると、声を低くした。
「リゼ。君だって、あの時間が好きだろう。僕は結婚を申し込む前から、君の話を聞いていたじゃないか」
「好きでしたよ。結婚したあとにも、あなたの隣で笑えると思っていましたから」
廊下の窓から、青く塗った川船の舳先が見えた。傍らの柳に妹の長靴が掛かっている。今夜は銀鱒が堰を越すいい潮だと、一昨日からカヤが騒いでいた。
昨夜のお話が、あの人に聞かせる最後のお話になったのか。昨日のうちに分かっていたら、私はどんな終わりにしただろう。そんなことをまだ考えている自分が腹立たしくて、私は窓から目をそらした。
「九つには、鳴らしてみるよ」
ノエが帰ったあと、私は父のところへ戻った。父は机の上の書面に吸い取り紙を重ねたまま、じっと座っていた。書面の前に腰を下ろし、私はその横に黒い指の跡をつけないよう両手を膝に置いた。
「一番に話したい人に、もう何にも話せないのね、お父様」
それだけ口にすると涙が落ちた。父が差し出してくれた手巾を握ると、布にもインクがついた。洗ってきます、と慌てて立って、台所の水鉢の前で声を上げて泣いた。洗い物をしていた料理人が、水鉢に黙って水差しを傾けてくれた。昼間の家には、私が泣けば顔を上げてくれる人がいた。その晩、ただ一人、あの人だけが私に機嫌よく会えると思っている。悔しくて、手巾ひとつ洗う間にも涙を止められなかった。
* * *
最初の晩、眠るのが怖いと先に白状したのは、私だった。
二十一歳の彼が熱病を患い、親元を離れて山の館で療養していた夏だ。母を早くに亡くした人で、看病のために付いていった乳母が久しぶりに町へ帰ることになった。ノエが私に届けさせた小さな巻貝には、短い手紙が添えてあった。あんまり山が静かなので、そちらの河岸の音を聞かせてくれないか。
その晩は雷雨だった。外ではごろごろ鳴っているし、雨で鎧戸も開けられない。舟の音の代わりに何か話そうとして、私は、こんな晩に寝入るのが怖いと白状した。火事にでもなって逃げなくてはいけないのに、私ひとり夢の中で朝まで知らないでいたらどうしよう。
貝の向こうで、僕もだよ、と聞こえた。冬には王都へ船で出掛け、荒れた川も知っている人の、小さな声だった。
「では、長靴をお履きになって寝たら? 何かあったらそのまま走ってお逃げになれるわ」
「山の家には木靴しかない。掛け布を突き破ったら、乳母に叱られるよ」
「じゃあ片方だけにしましょう。空いたほうには、王様が住んでいるんです。クルミの殻の冠を載せて」
笑うと脇が痛むと言っていた人が、本当に声を立てて笑った。それから、うちの王様は家来に匙を持たせていると言い出した。木靴を舟にして、雨が入ったとき水をかい出すためだ。家来はチーズが大変好きで、匙を持たせるとついついチーズを掬って食べてしまう。
私はあんなに可笑しい人とは知らなかった。初めの晩は雨がやむまで起きていた。そのうちに彼の寝息が届き、片方ずつ木靴を履いて野原を逃げる二人を思い浮かべて、私も眠った。
病が癒えた秋に彼が求婚してくれた。春には上着の胸がきついと仕立屋に愚痴を言えるほど元気になった。私たちの婚約は冬を三つ越し、父たちが家と船の取り分をようやく決めて、この秋に式を挙げるはずだった。
木靴の王様はその間に国を三つ滅ぼした。一つはうっかり踏んで、残りの二つはまるごと引越し荷物に入れてしまって。昔より忙しくなったノエは話の途中で眠ることが増えたけれど、彼を好きでいた私にとってはそれもよい夜だった。
夕食のあと、カヤが脇に網を抱えてやって来た。昨年、私がこしらえてやった掬い網だ。柄の白かったところが雨風にさらされて灰色になっていた。
「お姉様、私、今夜こそ銀鱒を揚げるから。明け方には塩焼きが食べられるわよ」
「駄目だったらどうするの。私、明け方に串焼きの匂いを嗅いだら、寝間着で飛び出してしまうわよ」
「串に肉を刺して、暗いうちに召し上がっていただきます」
つい笑った。その拍子にまた涙が出て、カヤは困って網を背中に隠した。彼女の手に、見覚えのない固い節ができていた。舵を持つようになったのだと教えられて、私は初めて、この手があの網といっしょに変わったのだと分かった。
「ねえ、一緒に行ってもいい? 私、久しぶりに舟に乗りたいわ」
「本当に? 前にも九つになったら帰るとおっしゃって、堰の手前で岸へつけたでしょう。潮が返るときに、あそこにいたいのよ、私」
あれは最初の年だった。病人を待たせてまで魚を追えば、あとで後悔すると思った。次の年からは、どちらもほしいと欲張らず、私は初めからノエを選んだ。カヤがいつまでも私の選ばなかったほうで足踏みしていると思っていたのか。今のこの手を見たら、気軽に乗せてとも言いにくくなった。
「今夜は帰れと言わないわ。でも、行けるか分からないの。私が行かなくても、出てちょうだいね」
「九つのあとに舟を出します。柳のところにいたら乗せる。いなかったら私と舟頭で行く。いい?」
私は頷いた。彼女は網を担ぎ直して出ていった。慰めて、今夜は行かないからと傍に座られたら、もっと早く泣きやめたかもしれない。でも、あの子は私が起きていようと寝ていようと、銀鱒を揚げたいのだ。
枕元にはもう、明日の返却用に細い藍縞の布を広げてあった。貝はノエの家の品だ。指二本で隠せるほど小さくて、初めは滑らかだった口のところに、持つ指が覚えてしまった小さな欠けがある。伏せて布で包んでしまえばいいのに、私は思い切れずに向かいに腰を下ろした。
鐘が鳴り出す前に、こつ、こつ、と音がした。あの人が早く呼んだ。こんなに急いで何か言いたいことがあったのかと思って、私は貝の口を上に向けてしまった。
「リゼ。今、いいかい?」
聞き慣れた、寝台の中の声だった。二人で向かい合う昼間より、少し低くて甘かった。お茶会で私がほかの人といるとき、この声を知っているのは私一人なのだと思うと、何もないのに頬が熱くなったものだ。そんな声で呼ばれて、私は馬鹿なことを考えた。家へ帰って、私のいないことが寂しくなったのかと。
「何か、昼間の話の続きがありますか」
「あるよ。君が、好きでした、なんて言うから。僕も君と話すのが好きなんだ。もう昔のことみたいに言わなくてもいいだろう?」
そうよ、好きだという意味が違うからあの書面に署名したんでしょう。声に出せそうもなくて唇を噛んでいたら、向こうで彼が寝返りを打った。いつもの、ひとつ深く息をして、いちばん楽な格好になった音がした。
「さあ、昨日の続きから。あの王様は、魚の腹の中で――」
私は枕元の貝を伏せた。
それまで絶えず耳の傍にあった息が消えて、隣の部屋で誰かが引き出しを閉めた音が聞こえた。私、怖かったんだわ。こんなふうに彼の声がしなくなって、ひと晩じゅう自分だけで過ごすことが。二度とあの声で、何でも話してと言ってもらえないことが。
また貝が二度鳴った。私は手を離した。藍縞の布の端を持って結んだあと、寝台から飛び降りた。廊下を行きながら、九つ目の鐘を聞いた。長靴の片方にしか足の入っていない格好で。
* * *
「お姉様。上着、裏よ」
カヤに言われて首の後ろを探ると、縫い代が外に出ていた。なんて恰好だろう。羽織り直しているうちに、舟頭のボルが舫いを解いた。舳先に乗った私がよろけると、カヤが上着の襟をつかんで引き入れた。
ついさっきまで、あそこの部屋で泣いていたのに。岸の灯はもう遠ざかっている。振り返ってみると、寝室の窓が柳の葉陰を行ったり来たりしている。あの窓の向こうでは、何度呼んでも誰も出ない。岸沿いを抜けて広い流れへ出ると、屋敷ごと真っ黒い柳の後ろに隠れた。
舳先の青い灯に羽虫が寄ってきた。カヤは明かりが川面に落ちないよう、覆いを少し下ろした。行き会った小舟で誰かがカヤの名を呼んだ。向こうはもう二匹だ、こっちはまだ今出たところ、と妹が返す。初夏の夜にはこんなに舟が出て、うちのカヤの声がほかの舟にまで通るのかと私は驚いた。
「私のこと、みんなもう知らないでしょうね」
「去年お姉様の代わりに網を持たせたのが、あの人よ。三度とも空振りして、帰りには網から手を離さなかった。今年も誘ってくれたけど、私はこっちの舟でやる」
相手の舟で、網の柄がすっと高く揚がった。カヤがこちらから竿を揚げて応える。私の知らない挨拶だった。
「そう。あなたたち、私が帰ってからずいぶん面白い思いをしてたのね」
「お姉様はお姉様で、ずいぶん面白いことをなさってたでしょう?」
少しむっとして、私は振り向いた。カヤは針に餌をつけていた。私が辛かった時間ということにして励まそうとは、これっぽちも考えていないらしかった。
「面白かったわよ。あの人が笑ってくれた晩は、夜中にもう一つお話をこしらえておくくらい」
声が弾んだ。その響きに誘われて思い出した日があった。冬の夜中に王様の国じゅうの砂糖が塩に変わる話ができて、早く晩にならないかと暮れの掃除をてきぱき済ませた。あのとき二人で笑った時間を、釣りのために取り替えたかったとは、いまでも思わなかった。
「だけど今夜まで魚を逃がして、あの方をいい気持ちで寝かせるのは嫌だわ。私がどんな気持ちで自分の寝台へ戻ったと思ってるの。こっちは泣いてたのに、あの人ったら、さあ、昨日の続きからって布団に収まって」
「うん。それで?」
「……それでこっちの舟に乗ったの。次に何か言ってきたら、あんたの布団なんか鯨にでも食われてしまえと言ってやる」
カヤは左の頬を膨らませていた。こんなときに笑うものかと思ったら、餌を巻きつけるのに使う糸の端をくわえているのだった。彼女はそれを切り、竿を持ち上げてからこっちを見た。
「そこまでお怒りなら、やってもらいたいことがあるの。魚が掛かったら、その勢いで下から掬って。私は去年、それがどうしてもできなかった」
「任せて。魚の方は食べてしまいましょう」
針を流すと、カヤは静かになった。家にいるときに私が見ていた妹は、口と手を同じ勢いで動かす子だった。糸のゆくえを追う頬のそばを小虫が飛んでも、まばたき一つしない。見入っていると、ボルが私の手をつついた。網を立てて構えていると魚に影を見せてしまう。慌てて舷まで下げた。
柳の葉が水の上を流れていった。ひと回り、ふた回りと同じところを巡り、三度目にすうっと上手へ去った。潮が返った。
水面がめくれた。竿先がカヤの手の中から川へ吸い込まれるように曲がった。ボルが片方の櫂を突っ張り、舟が流れと平行になる。水のすぐ下で魚が身を返すと、いま誰かが川に刃物を落としたというほど白く光った。
「姉さん、尾を追わないで、頭を待って! そっちへ向かせるから」
私は水の中で網を止めた。怖くなった。五歳のときに初めて自分の竿で掛けた魚は、父に揚げてもらった。昔のカヤは、岸から伸ばした網で木の葉をすくうにも、柄に振り回されて危なっかしかった。それを、今は姉のほうが号令を待っている。しくじったらこの子に申し訳が立たないと思った途端、手に力が入りすぎた。
カヤが腰を落とした。魚の下顎が網の縁を越える。濡れた背中がこんもり持ち上がって、私の手にずしりと重さがきた。柄を引き寄せると、銀鱒は舟底を打って跳ね、カヤの膝を尾で思いきり叩いた。
「痛あっ。姉さん、いる? いるわね?」
いるとも。彼女の膝の間で顎を開け閉めしている。口は丸く、歯はごく小さいのに、網目から覗く胴の太いこと。うちのどの皿に載せても、まだ尻尾がはみ出す。
私は魚に逃げられないようその上に網をかぶせたまま、妹の首に片腕を回した。ぎゃあ、と今度は耳元で抗議された。
「揚がったわ! カヤ、あなたの魚よ! ねえ、ボル、今の、見たでしょう?」
「櫂を持っていたのは私ですからねえ、お嬢さん方」
対岸を流れていた舟からも、やったのか、と声が上がった。私は片手を突き上げ、カヤは二本の腕を高く伸ばした。私たちの舟が大きくひと揺れして、ボルが頼むから泳ぎたくないと情けない声で言った。笑ったカヤの頬も濡れていた。魚を揚げて泣けてくるなんて、昼間の私が聞いたら、そんな元気を分けてくれと言っただろう。魚を舟底の生け簀へ滑らせると、水の中で太い尾がふたたび動いた。
二度目は私が竿を持った。銀鱒はたぶん、餌のおいしいところだけ持っていった。見上げればいつのまにか屋根の上を月が渡っていた。カヤが釣り上げた鱒の鱗が一枚、私の手の甲についていた。こんなに丸く、透き通っているのだ。早くこの鱗のことを、あの人に話したかった。
その気持ちがあんまり前の晩までと同じで、私は握った竿に額をつけた。貝を包んで置いてきても、見たものをあの人に持って帰る癖は、手について離れなかった。
「……カヤ。私ね、鱗が一枚ついただけで、あの方に言いたくなるのよ」
「うん。船に乗ったら、もうひとつお話ができちゃった?」
私は頷いた。王様のクルミの冠に一枚貼って、銀の兜にすればいい。そう言って鱗の載った手を見せると、カヤが舵を取りながら首を伸ばした。指から落ちる寸前に、二人で息を詰めて受け止めた。
とうとう私は笑った。家で泣いていたときに、こんなことで笑えるとは思ってもみなかった。続きを今つくってと言われたら、答えられなかったかもしれない。カヤは何もせがまず、私の針にまた餌を巻いてくれた。
* * *
東の空が赤くなり、柳のところに舟を寄せると、母が塩の壺を抱えて待っていた。食堂へ行くより、川から上げたところで食べるほうがおいしいのだ。庭師の持ってきた火鉢に炭が熾っていた。生け簀の魚を掬い網に移し、二人がかりで岸へ上げたところへ、屋敷からノエが下りてきた。
上着のボタンを一つ掛け違えていた。私の顔を見ると、それまで大股で歩いていた人が三歩も手前で止まった。私は藍縞の包みを寝台に置いてきたことを思い出した。母が小間使いを取りにやってくれた。初めから返す気で広げておいた布なのに、もう結び目をほどいて貝の傷を見たい気がした。
「……返すって、本当だったのか」
ノエの第一声で、私はようやく、この人もひと晩を過ごしたのだと思った。私の舟が川へ出ている間、彼の側でも夜が過ぎた。
「おはよう、ノエ。私たち、こんな魚を釣ったのよ」
思わず網を持ち上げて見せた。ノエは魚を見て驚いた顔をしたあと、私の頭の天辺から足先まで、まじまじと眺めた。鱗が顔にもついているのかもしれない。彼は顔を近づけ、確かめるように言った。
「夜中じゅう、どこかへ行っていたのか。僕は何度も鳴らしたよ。怒っているうちは無理かと思って、一時間ずつ空けて」
「この川の上にいました。それから、私がどこにいても、もう呼ばないでください」
カヤが柄を引くのに任せて、私は網を手放した。妹とボルが両脇から魚を運び、母のいる秤へ向かう。ノエは初めて見るもののようにその後ろ姿を追った。
「僕は、あれから眠れなかった」
「私も起きていました。とても面白かったわ」
痛いところへ当てるつもりで言った。一時間ずつ空けたそうだけれど、私はそのどの一時間も、彼が来てくれるのを待っていたわけじゃない。
ノエの頬が強張った。彼は小間使いが運んできた包みを受け取って、自分で結び目をほどいた。手を差し入れた上着のポケットから、同じ色の、傷がひとつもないほうの貝が出てきた。真珠色が二つ、ひとりの掌に載った。
「九つになったら、当たり前に話を聞けると思ってた。最後に、木靴の王様の続きを書き留めた帳面だけでももらえないか。僕にくれた話は僕が持っていていいだろう。もう君の貝を鳴らさなくて済む」
彼は二つの貝を片手に載せたまま、もう片方の手を差し出していた。私の机の引き出しに、そんな帳面が入っていると思っていたのだ。それがあまりに寂しくて、私は自分の顔が歪むのを感じた。
「書き留めていません。あなたが手近にあったものを教えて、私が話をこしらえたでしょう。まだお山にいらした頃は、あなたも登場人物をこしらえてくださったわね」
「でも、眠るたびに途中になった。僕は結末を聞いてない。君なら、覚えてるだろう」
月日が経つうちに、眠る前に彼がしていたのは、手近にあったものを告げることだけになった。金貨と笛。鏡と梨。目を細くして笑うあの顔を思い浮かべながら、私は次の夜までその二つに何ができるか考え続けた。ノエが寝ついてしまえば、私が考えた結末を知っているのは私だけだった。
「覚えていますよ。昨日、鱒が呑んだのは王様じゃありません。匙を持っていた家来です。王様は岸で待ってるの。匙の先で腹をくすぐって、魚が大笑いして口を開けたら、そのときに出てくるの。そこまで言う前にあなたが眠ったから、私はひとりで笑ったのよ」
ノエがふっと噴き出した。それから私も笑った。何千回もこんなふうに笑いたくて、私はこの人を待っていた。できたばかりの結末を渡したい相手がいるって、それは嬉しいことだった。
だからこそ、いま口にした結末が、私が贈ってしまった最後のひとつなのだと思うと、こみ上げるものが止められなかった。
「お好きだった分は、持っていてくださっていいのよ。私のほうでも、忘れたくないことがいくつもあるわ。でも、これからこしらえる分まで、あなたのものにするのは嫌です」
彼は私の笑みが消えたのを見て、差し出していた手を引いた。
「リゼ。春に浅瀬で舟を押した話をしただろう。あのとき一緒だったのがエステルだよ。靴をふたつとも流されたのに、僕はあの人がそこにいて嬉しかった。あの人と一緒に暮らしたいと思ったときも、その話を一番に聞いてほしかったのは君だったんだ。僕は、きっと、君のこともまだ……」
言葉を探している彼の上着の、余ったボタン穴が気になった。こんなに急いで来てくれた。あの春の晩は、靴をなくしたところまで聞いて、私は何度も笑った。彼は自分の話の、痛いところだけ飛ばしていたのだ。もう一度好きだと告げてくれたら、まだ私の足は彼のほうへ動くかもしれなかった。藍縞の布でその貝を包み直し、せめてちゃんと眠れるようにと、枕元まで送り届けたいほど好きだった。
「私は、あなたが好きで、あんなに馬鹿なお話をしたのよ」
私は握りこぶしで頬の涙を拭った。刺繍の手巾でさっと目尻を押さえられるような量ではなかった。
「あなたの奥様になる人が知らないところで、私を呼べるなんて思わないでください。私に続きを言わせるのに、あの方にどう説明するか考えなくちゃならないでしょう。私、誰にも恥ずかしいことをしていなかったのに。あなたを愛してた私を、恥ずかしいものにしないで!」
彼は貝を落としそうになり、片方を反対の手で受け止めた。二つとも彼のものだった。目の前にいる私には、もう鳴らせる貝はない。
「君に、隠れて僕を待てと言ったのか、僕は」
そこで初めて自分の口から聞いたみたいに、彼は顔を赤くした。私は返事をしなかった。私のほかに誰がいたって構わないのなら、初めから昔話の本を一冊買って帰ればよかったのに。
「ごめん、リゼ。僕はエステルにこのことを話すよ。僕らが三年間、どういう夜を過ごしたか。エステルが、それなら構わないと言えば、また――」
「私が嫌です」
まだ答えをよそにもらいに行こうとする彼に、私はきっぱり言った。彼は口をつぐんだ。
「婚約を解いたあなたとは、元に戻りません。許してもらえば続きを聞けると思っているのは、あなただけ。私、やっと魚の話ができると思って嬉しかった。でもいま聞きたいのは、あの人たちが一匹を何切れにしようと騒いでいるのか、そっちだわ」
振り向くと、母はあんなに魚が大きかったのに尻尾が好きな人ばかりなのは困ると嘆いていて、ボルが、たぶんあと三匹釣っても尻尾が足りませんよと笑っていた。私も尻尾が欲しい。炭火で脂が弾けて、もうこんなにいい匂いがする。
ノエはしばらくそこに立っていた。やがて自分の貝の縁を爪で二度たたいた。もう片方の手で、私がいたほうの貝が鳴った。彼はそちらを耳に当てた。私には、朝の明るいところで彼のするその仕草が、夜のどんな優しい言葉よりこたえた。
「山の館で、僕の靴に人が入ってるって言ってくれたとき、もう暗いのが怖くなくなったんだ。君が怖がりだと知ったのは、あの夜だけだった。あれから君が怖かった夜に、僕が起きていたことは、あった?」
「雷の夜も、式の仕度で眠れなくなった晩も、たいてい先に眠っていたわ。でも、それを恨んだことはないの。おやすみなさいって言えるのが、私は好きだったから」
彼は貝を下ろした。目に涙がたまって、私にまでそれと分かった。ふいに抱きしめて、いいのよと言いたくなった。私は自分の腕を抱いた。この人は貝の向こうで何度も先に眠った。せめて今日のさよならは、最後まで聞いてほしかった。
「私、今朝はカヤと食べます。さようなら、ノエ」
「……さようなら。リゼ」
返事が聞こえてから、私は妹のところまで走った。
* * *
銀鱒の尻尾は、包丁を入れて開けば二人で食べられた。ボルは腹のところの皮を一枚、骨から丸く剥がして上手に食べた。私は母に半分もらった尻尾をあぶり直し、妹と膝を並べて柳の根元で食べた。脂で指がべたべたするのに、いよいよおいしくなってきた。おてんばな娘のすることだと笑う人は、せめて一度食べてから笑ってほしい。
「お姉様がいつまでも寝てるから、尻尾を取っておくのに苦労したわよ」
「昨年も、その前の年も、一匹も揚がらなかったんじゃなかった?」
「私の針にはね。もらった魚でも、お姉様の分と思って取ってあったわよ。でも、朝呼んだら行くとおっしゃって、もう一度寝るでしょう。冷たくなるから結局私が食べました」
笑いながら私は妹の肩に頭を寄せた。尻尾のつけ根が少し焦げていて、そこがいちばんおいしかった。カヤにはこういう味の話こそ、三年分もたまっていたのだ。
「次の晩も乗せてね。今度は私が掛ける。あなたに掬ってほしいの」
「いいわよ。ところで、クルミの冠の王様っていうのは、その鱗をどこで手に入れるの? まさか、私が釣った魚から盗っていくんじゃないでしょうね」
それはどうだろうと顔を見合わせているうちに、カヤが枝の先で湿った土に何か描き始めた。冠の下に頭、頭の下にやけに長い鼻。釣った魚の頭ほどもある、大きな鼻をした王様だった。私が物差し代わりの串を添えると、両足は間違いなく木靴に収まらなかった。
「こんな人はお話に出てこないわよ」
「出てこなかったなら、今日から来たことにしましょうよ。王様、私が釣った魚を泥棒したお詫びに、明日の晩は餌を十匹、お届けにあがります」
カヤの王様は鼻の先で土が掘れそうだった。枝を借りて鼻の下に盛り土をすると、妹は尻もちをつくほど笑った。
私は眠くなった。朝の鳥が二種類も鳴き出したし、屋敷へ戻って寝台で眠るべきだったけれど、土手の草は陽が当たって暖かく、妹の膝はちょうどいい高さにあった。そこに頭を預けると、こら、お姉様、まだ王様を描いてるのに、と彼女が抗議した。
「私、話の続きを聞くなら、この恰好がいいわ」
「そう? じゃあそこにいて。王様ね、あんな大きな鼻をしてるのに、わざわざ元の靴へ匙を取りに帰ったのよ」
私は目を閉じた。妹の手が、私のこめかみの髪を上げてくれた。舟の縁を魚の尾が打ったときの、いさましい妹の声が、今はごく近くにあった。
木靴の王様が十匹の餌のために、苦手な土掘りを始めた。二匹目を掘り当てたところで、私は三匹目の行方を知らずに眠った。
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