恋に堕ちた人魚姫
きっとあなたも恋に堕ちる。
人魚姫は歌う。
透明感のある、しかし色鮮やかな歌声で。軽やかで、しかし心のある重さを持った歌声で。その美しい歌声で人々を魅了し、
——その心を呑み込んだ。
ある昼下がり。青年は海辺で釣りをしていた。彼はお世辞にも裕福とは言えぬ、貧しい家庭で暮らしていたが、ささやかな幸せを大きな幸せと感じられる人間だった。
いつもと同じように釣り糸を垂らし、日差しを浴びて、波音に耳を澄ませてうつらうつら頭を揺らし、微睡んでいた。その耳に、波音とカモメの鳴き声以外の音が聞こえた。
透き通って色鮮やかな、軽やかで胸に響く重みを持った美しい歌声が。
眠気は一瞬で吹き飛んだ。辺りを見回すと、沖合の岩に人影が見えた。歌声もその方向から聞こえてくる。始めは波に流されてあの場所にいるのだと思い、青年は助けに行こうと慌てて岩場を駆け下りた。しかし、ふわりと風に揺れて舞い上がったサファイアのような長い髪の毛を見つめて、その足を止めた。人影が纏うベールのような布も風とともに舞っている。
それらが意味するのはつまり、人影は水に濡れていないのだ。
青年は驚きでその場から動けなかった。なおも聞こえ続ける美しい歌声に耳を傾けて。彼の暮らす街で、一番と言われる歌姫でもこんなに美しくは歌えないだろう。魔法にかけられたように惚けて、目を閉じ聴き入った。
ふと、その歌声がピタリと止んだ。不思議に思って閉じていた目を開くと、人影が振り返っていた。美しい娘だった。一目見るだけで惹き込まれるほどの美貌を持った娘だ。けれど、人間ではない。それも一目でわかった。岩に腰掛けた下半身が人間とは全く異なり、魚の尾のような形をして鱗に包まれている。
その姿は青年の街でお伽噺として語り継がれている、人魚姫そのものだった。
目が合ったと、遠くにいてもわかった。
美しい宝石をはめ込んだような青い瞳が、見開かれた。口元がニタリと三日月に歪んだ。その瞬間、人魚は海に飛び込んで消えてしまった。
夢を見たのかと、その場に立ち尽くしながら青年はまず考えた。けれど、鼓膜に触れる波音、頬を撫で鼻腔をくすぐる潮風、網膜に突き刺さる太陽光。どれを取っても現実としか考えられず、それでも頬をつねってみた。力を入れれば入れた分だけ痛みがして現実なのだと思い知った。
「なにをしているんですのっ?」
「うわあっ!」
「きゃあっ!」
水面から先ほどの人魚が顔を出した。青年は突然のことに大声を上げて驚き、人魚はその声に驚いて悲鳴を上げた。そして、驚きが少し落ち着いたところで、二人顔を見合わせ肩を震わせて笑いあった。
「びっくりしましたわ。ところで何をしていたんですの?」
「ん? ああ、釣りをしていたのさ。君はいったい——」
「それじゃないですわ! ほら、そのう……、そうです! ほっぺたをつまんでいたでしょう? あれはどういう意味ですの?」
身振り手振りをしながら考えた後、人魚は自身の頬をつまんでみせた。そうして少し間抜けた表情になった人魚を見て青年は思わず笑わずにはいられなかった。
突然笑い始めた青年に対して、人魚はきょとんとした表情で首を傾げていたが、笑いが収まらない青年に頬を膨らませた。
「どうして笑うんですの? わたくし、真面目に聞いているんですのよ!」
頬を更にぱんぱんに膨らませて、上目遣いに青年を睨んだ。ようやく青年は笑いの尾を引きながら、人魚に目線を合わせるために屈んで膝をついた。
「突然笑い始めて申し訳ない。君を不快にさせるつもりはなかったんだ」
「でしたら私の質問に答えてくださらないかしら。ほっぺたをつまむのは人間のおまじないみたいなものですの?」
人差し指を顎に当て、少し唇を突き出して首を傾げた。青年は自身を見つめる宝石に吸い込まれる錯覚を起こしたが、すぐに我に返った。
「いや、おまじないなんかではないよ。ただ、夢じゃないかを確認したのさ」
「夢……ですの?」
「ああ、人間は今この瞬間が夢だと感じたら頬をつまんで痛みを感じようとするんだよ。夢なら痛みを感じないからね」
人魚は、不思議だ! という感情を全面に出して目をキラキラ輝かせた。
「人間って面白いですわ! 他にも何かありますの?」
「他? 他って言われてもな、思いつかないや」
「そうですの……」
青年の言葉に人魚は分かりやすく肩を落とした。けれどすぐに表情を明るくすると、何かを思いついたようにぱちんと手を叩いた。
「でしたら、貴方のお名前は? わたくし、貴方のことを知りたいですわ!」
「えっ?」
突拍子もない提案に青年は虚を突かれた。しかし、すぐに頬を緩めた。
「僕は、ウィラード。ウィラードでもウィルでも、君の好きなように呼んでほしいな。……君の名前は?」
「フィーリアと申しますわ。ウィラード……、素敵なお名前ですわね」
人魚——フィーリアは噛みしめるように、宝物を包むように優しい声色で青年の名を呼んだ。青年——ウィラードは少し照れくさそうに微笑んだ。
「フィーリアさんの名前も、とても素敵だ。……ずっと聞こうと思っていたんだけれどさ」
「ええ、なんですの?」
名前を褒められて嬉しかったのか、先ほどよりほんの少し高い声で向日葵のような笑顔を顔いっぱいに咲かせた。
「君は……フィーリアは、お伽噺にでてくる人魚なの?」
「ええ、わたくしは人魚ですわ」
それがどうしたのか? といった態度で、フィーリアはきょとんと首を右に傾げた。まるでフィーリアの中には人間と人魚の区別がついていないようだった。そんな態度にウィラードは少し困惑して、同じように首を右に傾けた。すると、フィーリアは鏡合わせになるように左に首を傾けた。
不思議に思ったウィラードはあえて、首を左に傾けると、フィーリアも同じように反対側に首を傾げた。その様子が可笑しくてウィラードは奇妙に思ったことを忘れて笑い出した。
「も、もう! なんですのっ? なんでウィラードはすぐに笑うんですの?」
口調は怒っているのに、表情にはこらえきれないと言った様子で、満開の花が咲いていた。
二人の笑い声は青空に向かって伸びやかに響いた。
初めて会ったあの日以来、二人は毎日会話を重ねた。
ウィラードは生活のために、嵐の日以外は毎日釣りに出る。釣りに出るたび、聞こえてくる。フィーリアの透き通って色鮮やかな、軽やかで胸に響く重みを持った美しい歌声が。
いつも歌声にしばらく聴き入って、フィーリアが一曲歌い終わると、ウィラードは彼女の名前を呼んだ。
平和で、誰に邪魔されることもない穏やかな時間。こっそりと会いに行っているようなワクワク感。自分たちは、他の誰にも真似できない特別な関係なのだ。
そう思うだけで、ウィラードの中に高揚感が湧き上がる。
岩場に腰掛けていた姿が消えると、すぐに自分の足元から顔を出して満面の笑みを浮かべる。いつしかフィーリアのことが、ウィラードの中でかけがえのない存在になっていた。
「また来てくれたんですのね! わたくしとっても嬉しいですわ!」
その日もウィラードが海へ向かった。彼の姿を見つけたフィーリアは無邪気に、そして心の底から嬉しそうに、両手を上げて体すべてを使って喜びを表した。
「僕も嬉しいよ。フィーリアは今日も可愛いね」
ウィラードは目線を合わせるために膝をつき、そんなフィーリアを愛おしそうに見つめた。それからとろけるように微笑んだ。ウィラードの言葉にフィーリアは一瞬きょとんとした表情で目を瞬かせたが、すぐに陶器のように白い肌を赤く染めた。
「か、からかうのはよしてくださいませ。そんなことありませんわ!」
赤くなった顔を隠すように青く宝石のような髪を両手で持ち上げた。そんなフィーリアの姿もウィラードはなおも愛おしそうに見つめ続けた。そんなウィラードの視線に耐えきれなくなったのか、フィーリアは一度海の中に隠れて少し離れた岩場に腰掛けた。
「フィーリア!」
ウィラードが名前を呼ぶ。声を張ると、大声を出し続けた翌日のように喉が痛んだ。しかし、ウィラードは数度咳払いして特に気にしなかった。名前を呼ばれたフィーリアは、いたずらっ子のような楽しげな笑みを浮かべた後、べーっと舌を出してみせた。それでもすぐに弾けるような笑顔になって、空に向かって笑い声を響かせた。
海面から遥か上空まで響く鈴を転がしたような笑い声は、いつの間にか重厚な弦楽器のような美しい歌声に変わっていた。
ほとんど毎日聞いてすっかり旋律を覚えてしまったウィラードは、フィーリアの歌声に合わせて鼻歌を小さく歌い、小刻みに左右に揺れる。
フィーリアはウィラードを一瞥すると満足気ににまりと笑みを深めた。そこからまた一段と楽しげな弾んだ歌声に変わり、最後まで歌い終える。
ウィラードは美しさの余韻でかすかに鼻歌を歌いながら目を伏せた。彼女の歌声を反芻するだけで、透き通る海の青さが、夜空の満天の星々が簡単に思い浮かべられる。むしろ自身がそれらの目の前にいるかのようだ。
フィーリアの歌声にはそんな不思議な魅力が、溢れんばかりに詰め込まれている。
――ちゃぷんっ
目の前で水の跳ねる音がしてゆっくりと目を開くと、フィーリアが嬉しそうな表情でウィラードの顔を見上げていた。どうしたのだろうか、ウィラードが口を開こうとするとそれよりも早く、
「わたくしの歌、覚えてくださったのですね」
気恥ずかしそうに、それ以上に嬉しそうに向日葵のような笑顔を咲かせた。ウィラードは自然と覚えたことに対して、ここまで嬉しそうにされるとは思っておらず、むしろ面食らった。けれど微笑み返し、フィーリアの長い髪を一束手に取って、そっと口付けを落とした。
「な、なんですの……?」
戸惑うフィーリアに対し、ウィラードはただただフィーリアを見つめ返すばかりで、何も応えない。どこか霧がかかったような、ぼんやりとした彼の頭の中ではフィーリアの歌声がこだましていた。
「なあ、ウィル」
「んー?」
「あんた、ここ最近毎日夜中に出かけてるけど、何してるんだい?」
朝の穏やかな朝食の時間。ウィラードはいつも通り硬くなったパンをスープに浸して、少しずつふやかしながら食べていた。ウィラードよりも先に食べ終わっていた彼の母親に、それを聞かれたのは口に詰め込みすぎたパンを流し込もうとミルクを口に含んだときだった。
ウィラードは驚きで、変なタイミングで飲み込んでしまい、何度かむせた。落ち着くためにもう一度ミルクを飲み、数度むせた後、母親に向かって顔をしかめた。
「僕、夜中に家を出たりなんかしてないけど」
「なんだい照れ隠しのつもり? 誤魔化せると思わないでよ、うちの壁が薄いことくらいわかってるでしょ。ドアを開ける音がしたらすぐわかるわ」
「いや、だから……」
「ガールフレンドができたならそう言えばいいのよ」
母親の言葉にウィラードは、ぽかんと不思議そうな顔で口を開いて固まった。思いがけないウィラードの反応に母親も同じように固まって、息子の顔を凝視してしまう。すると突然、
「そんなんじゃない!」
ウィラードがテーブルを力任せに叩いて立ち上がった。普段は温厚な息子の異常な反応に母親は怯んで肩を縮こまらせる。ウィラードはその数瞬後にはっとした顔で我に返ると、怯えた母親の顔を見て、自身も似たような顔になった。
「ご、ごめん」
虫の羽音ほどの小さな声で謝ると、ウィラードは釣具を掴んで家から逃げるように海へと駆け出した。
「まあ! ウィラード、今日も来てくれたんですのね!」
海に行くと、すでにフィーリアが手前の岩場に腰掛けていた。嬉しそうににこにこと笑う彼女とは対象的に、ウィラードの表情は暗く沈んでいた。
ウィラードの様子がおかしいと、流石のフィーリアも気づいたのか人差し指を顎に当てて、心配そうに首を傾げた。
「どうか、されましたの?」
そっと上目遣いでウィラードの顔を見上げる。ウィラードはそんなフィーリアの瞳を見つめ、小さく息を吐いた。
「母さんに、酷いことをしてしまったんだ。ずっと僕のことを一人で育ててくれた、大切な、人なのに……」
瞳には薄っすらと膜ができて、瞬きをすれば涙が溢れそうだった。誤魔化すようにウィラードは空を仰いだ。
「そう、なんですのね? 人間って大変ですのね」
「え、ああ。そう、だね」
特に何も思っていなさそうなフィーリアの言葉と声音に、思わず涙が引っ込んだ。どうしようかと、ウィラードは逡巡した後あからさまな作り笑いを浮かべて、フィーリアに視線を合わせた。
「フィーリアに、家族はいないの?」
「家族? ええと、聞いたことはありますけれど、そんなものいませんわ」
「えっ」
「家族、というのは生まれてから自分をお世話してくれて、ずっと一緒にいる存在のことでしょう? わたくし生まれたときから一人ですの。だからそんなのいませんの」
あっけらかんとした態度で淡々と説明するフィーリアに、ウィラードは言葉を失った。どう触れるべきかわからなかったのだ。そして、フィーリアの境遇を自分に置き換えたら、と考えるとゾッとした。
生まれてからずっと一人ぼっちだったのだ。寂しいに決まっている。心細いに決まっている。自分なら孤独に狂ってどうにかなってしまっているかもしれない。
ウィラードがそんなことを考えている間、フィーリアは表情を変えずに不思議そうな顔をしてウィラードを見つめていた。そんな彼女をウィラードも見つめると、不思議とさっきまでの不安がどこかに行ってしまった。自分自身が何に怯え、何に涙を流しそうになっていたのかも忘れて、自然と口元に笑みが浮かんだ。
笑みが戻ったウィラードに安心したのか、フィーリアはいつものように歌を歌った。
歌声はどこまでも遠くに響き渡るようだった。
その日の夜。
「ただいま」
ウィラードが自宅のドアを開けると、母親は夕食の準備をしていた。帰ってきたウィラードの姿を見て、ほっとしたように頬を緩ませた。
「よかった……、よかったよ。帰ってきてくれて、よかった」
今にも涙を流しそうなほど安心した表情で、ただウィラードが帰ってきたことを喜んでいた。そんな見慣れない母親の姿に戸惑った。
「ど、どうしたの」
「だって、朝にあなた怒って家を出ていっちゃったでしょう? このまま帰ってきてくれないんじゃないかと思ったのよ……」
よかった、とただただその言葉を繰り返す母親に、ウィラードは首を傾げた。
「朝? 何かあったっけ?」
母親はぽかんと口を開けた。溢れそうだった涙が瞬きをした拍子に頬を伝った。流れ落ちたのは一滴だけだった。
そんな母親の横をウィラードは何事もないかのように通り過ぎて、自身の部屋へと戻っていってしまった。
満月が煌々と輝き、周りの星々の輝きを溶かして飲み込んでいる。昼間は透き通り水底までも美しく輝いてる海は、この時間では昏く輝き、月明かりを空に返しゆらゆらと揺れるばかりであった。
そんな海辺に、人影が一つ。
人影はおぼつかない足取りで、一歩、また一歩と岩場の先端へと進んでいく。あと一歩で海に落ちる、というところで歩みを止めた。
歌声が響き始める。昼間の海によく響き渡っている旋律が。
――ウィラードだ。
岩場に膝をついて、祈るように両手を組んでいる。彼が彼女の歌を歌っている。彼女と比べてしまえば決して上手いとは言えないが、彼女以上に芯のある歌声だ。
最後まで歌いきると、おもむろに立ち上がり、体を前に傾けた。
当然だが、海は凍ってなどいない。おまけにそこは釣り場として知られているので、浅いだなんてこともない。つまり、
――ドボンッ
ウィラードは海に沈んだ。
人が1人落ちたというのに、あまりに呆気ない音で白んだ海面はあっという間に何事もなかったかのように真っ黒に染まった。
ウィラードは意識がないのか、手足を動かすこともなく、深く、深く沈んでいく。海中から伸びてきた白い腕が彼の体を抱き寄せ、美しい青色がヴェールの如くそれを包みこんだ。
ごぼりごぼりと言う重く気持ちの悪い音が耳元に響く。その音を奇妙に思い、不気味に思ったウィラードは堪らず息を吸い込んだ。
「 !」
すると口の中いっぱいに、喉の奥に至るまで液体に満たされた。慌てて吐き出そうとするとボコボコと口からおびただしい量の泡が溢れ出した。
あまりのことに理解が追いつかず、ウィラードは呆然とし自発的な呼吸を忘れてしまった。しかし、その間もウィラードの胸は上下している。
こぽこぽと情けない音を立てながら口から小さな泡がでてきている。それは紛れもなく水中で息を吐き出している証拠であったが、奇妙なことにウィラードは全く苦しいと感じなかった。冷静になることでようやく気づけたが、呼吸ができる。水中で、だ。
その事実に気づいた時、ウィラードは再び恐怖し動揺した。周囲を見渡すと、薄暗くてよく見えなかったが、室内のようだった。豪奢なベッドが置かれていて、薄暗くてもわかるきらびやかなドレッサー、光が差し込むように誂えられた大きな窓。
——そして、窓の下に並べられた人間らしき人影たち。
髪の色、肌の色、体格、顔立ち、何もかもが違う特徴を持った男たちが固く目を閉じて横たわっていた。差し込んだ光が彼らを凄艶に照らしている。
「あら、お目覚めになりましたの?」
耳によく馴染んだ聞き覚えのある声が、鋭く刺すように鼓膜を震わせた。いや、それとは少し違うかもしれない。直接脳に響くような、しかしそれはいつもと同じ無邪気な声だった。いつもと同じ嬉しそうな声だった。いつもと同じ楽しそうな声だった。それなのに、どこか狂気を感じてウィラードは全身にぶわりと鳥肌が立った。
「 」
彼女の名前を、口にしたはずだった。だというのに、ウィラードの口から音が発せられることはなく、ただ虚しくすべて泡に変わった。その事実にまた驚愕して、ウィラードは無意味に泡を吐き出した。
「どうされましたの? あー、そうでしたわ。人間の声帯は水中に適していないのでしたね」
人差し指を顎に当て、少し唇を突き出して首を傾げた。ウィラードを見つめる宝石は薄暗い水の中でも美しく輝いていたが、吸い込まれるような錯覚などはしなかった。それを上回るほどの恐怖が、ウィラードの全身をきつく抱きしめていた。
怯えて動けず、ただ小さく体を震わせることしかできないウィラードに、彼女は諭すように優しく語りかけた。
「そう怖がらなくても、大丈夫ですわ。あとほんの数日すればきっとまた、わたくしとお話できるようになりますわ!」
無邪気だ。嬉しそうで、とても楽しそうだ。話し方も、声のトーンも、表情も。何一つ昼間に見続けた彼女と変わらない。それなのに、ウィラードを取り囲む状況のすべてが牙を向き、違和感と恐怖となり体中に突き刺さる。
幼少期にウィラードが祖母に、聞かされ続けたお伽噺が、頭によぎった。忘れていたわけではない。思い出せなかったわけでもない。それなのになぜか、今まで一度もその内容が頭に浮かぶことはなかった。
「わたくし、ウィラードが大好きですの。愛していますの!」
その意味をウィラードが考えるのと同時に、自然と手は頬に伸びていた。視線は横たわる男たちに向く。
「そこで眠っている皆さんと同じくらい、愛していますのよ」
夢であってほしかった。
「みーんなわたくしの大好きな子たちなんですの。みんなとっても素敵でしょう?」
指先に人間の頬の柔らかさは感じられず、まるで魚の鱗を触っているような手触りだった。並べられた男たちの頬には魚のような鱗が張り付いていた。
「あら? ウィラードどうしましたの? ここは夢じゃありませんわよ。ちゃんと痛いでしょう?」
頭に浮かぶのは、彼女と初めて出会った日。輝きと幸福に満ちた日々だった。美しい日々だった。その日々が、恐怖と狂気で上書きされて行く。
他ならぬ自分の行いで、すべてが塗りつぶされてしまう。
「ねえ、ウィラード。こちらへ来てくださる?」
思いついたように彼女が両腕をウィラードに向かって伸ばした。けれど、ウィラードは恐怖で身動きすら取れず、目を見開いてひたすらに彼女を見つめることしかできなかった。
「んもう、強情ですわ」
何をどう思ったのか、彼女は仕方なさそうにウィラードへ近づいた。そしてそっとウィラードを抱き寄せると、彼の唇に自身の唇を重ねた。離しては重ねて、重ねては離してを繰り返す。
何度目かのキスを繰り返したあと、フィーリアは満足そうに微笑んだ。
「ああ、ああ! ウィラード! 貴方という方は、とても美しいですわ!」
フィーリアは気づかなかった。唇が触れ合うたびに、ウィラードの目は虚ろになり、体から力が抜けていったこと。微睡むようにとろんと濁った瞳は、固く閉ざされ二度と開くことはないことを。
ぺろりとウィラードの唇を舐めると、甘い砂糖菓子を頬張ったように頬を緩ませる。そして彼の頬を埋め尽くすほど生えた鱗を愛おしそうに眺めて、撫でてさらにキスを重ねた。
「わたくしとお揃いですわね、ウィラード」
愛おしくてたまらないと言った様子で、魚のような半身を彼に巻き付け頬を擦り寄せた。
「ああ、ウィラード。愛していますわ」
フィーリアは彼の体を一層強く抱きしめる。そして彼の体をそっと持ち上げると、並べられた男たちの横に寝かせた。彼らの姿を眺めるとフィーリアは嬉しくてたまらないと言った様子で、その場でくるりと一回転した。
母親が子どもにおやすみのキスをするように、男たちの唇にキスを落とす。誰一人、少しも反応することはなかった。
「皆さんとってもお美しいですわ」
とある港町の昼下がり。ある花売りの青年が気まぐれで浜辺に赴いた。
鼓膜に触れる波音、頬を撫で鼻腔をくすぐる潮風、網膜に突き刺さる太陽光。どれをとっても青年には新鮮で、目を閉じ空を仰いで、静かに深呼吸をする。すると、
――歌声が聞こえた。




