愛して欲しいと伝えたことはありませんが
誤字報告ありがとうごさいます!
「いいか、エリアーナ。お前のような感情のない人形に、真実の愛など理解できまい」
私の婚約者――ジークハルト・エル・ヴァイスラント王子は、吐き捨てるようにそう言った。
場所は王宮の夜会。彼の腕には、庇護欲をそそる小動物のような男爵令嬢、ローラが甘えるように寄り添っている。
目を見張るほどの贅を尽くした光と、人の熱気で満ちたホール。高い天井からは巨大なシャンデリアが幾つも下がり、床に磨かれた大理石は、着飾った人々の姿をきらきらと反射している。
そんな華やかな喧噪の中心で、ジークハルトは私という婚約者がいるのも構わず、ローラへの寵愛を隠そうともしなかった。
「ローラ、この菓子を食べてごらん。お前の唇のように甘いぞ」
「まぁ、殿下ったら。皆さまが見ていらっしゃいますわ」
周囲の貴族たちは見て見ぬふりを決め込み、あるいは扇の影で囁き合い、あるいは私へと同情的な視線を投げかけてくる。その視線の全てを、私は完璧な微笑みで受け流した。
「エリアーナ様、お辛いでしょう……」
「殿下も、あの方には少々ご執心すぎるのでは……」
心配げに声をかけてくる令嬢たちに、私はただ静かに首を横に振る。
「いいえ。殿下のお心が安らぐのでしたら、私はそれで結構ですわ」
その返答に、令嬢たちは決まって「まぁ、なんてお優しい……」「さすがはクライフォルト公爵家の『氷の薔薇』」と、感嘆とも哀れみともつかない溜息を漏らすのだ。
氷の薔薇。
いつからか、私はそう呼ばれるようになった。
感情を表に出さず、常に冷静で、どんな時も完璧な淑女然としているから、だそうだ。ジークハルトにこうして目の前で浮気をされても、眉一つ動かさない私への、最大級の皮肉であり、ある種の畏怖の表れでもあるのだろう。
喧噪から逃れるようにバルコニーへ出ると、夜風が火照った肌に心地よかった。一人、静かな時間を過ごしていると、背後から聞き慣れた尊大な足音が近づいてくる。
先ほどの侮辱的な言葉は、この時に投げかけられたものだ。
「……だが、人形のようなお前でも優秀ではある。その能力を俺に使え。それがお前の唯一の存在価値だ」
ジークハルトはそう締めくくると、気分が悪いと言い出したローラを部屋まで送るよう私に命じた。あまりにも当然といった口調での命令。ローラは私を見上げ、申し訳なさそうに眉を下げているが、その瞳の奥に潜むかすかな勝利の色を、私が見逃すはずもなかった。
「畏まりました。ですが殿下、私が席を外すより、殿下が直接お連れになるのが筋かと存じます。ローラ様も、その方がお喜びになるのでは?」
「何を言うか。俺はこれから宰相殿と国の未来について語り合うのだ。忙しい俺に代わって、婚約者のお前が動くのは当然だろう」
国の未来、とはよく言ったものだ。宰相閣下の隣に座り、退屈な政治談議に適当な相槌を打ちながら、高価なワインを呷るだけだというのに。
私は表情を変えぬまま、ただ深く、淑女の礼を執った。。
「――殿下のお心が安らぐのでしたら、結構なことでございます」
その言葉が、私の本心からのものであることなど、この愚かな王子は知る由もない。
その瞳の奥で、破滅へと向かう彼の未来を思い描き、静かな歓喜に打ち震えていることにも、気づくはずがないのだ。
カウントダウンは、もう始まっている。
この偽りの婚約と、あなたの輝かしい未来が終わる、その時までの。
―・―・―
夜会が終わり、自室に戻った私は、侍女を下がらせてから部屋の奥にある書き物机に向かう。そして、鍵のかかった一番下の引き出しを開けた。
そこに入っているのは、刺繍の道具でもなければ、感傷的な恋文でもない。分厚い帳簿の写しと、インクで細々と書き付けられた幾枚もの報告書。
これこそが、偽りの日々を送る私の、唯一の真実だった。
今となっては、遠い昔のことのように思える。
ジークハルトとの婚約が決まった当初、十二歳だった私にも、年相応の淡い期待というものがあった。未来の夫となる人と手を取り合い、国を支えていきたい。そんな夢を描いていた時期が、確かにあったのだ。
その幻想が完全に打ち砕かれたのは、婚約して一年が経った頃。
彼の好きな色だと聞いて三月もかけて刺繍を施したハンカチを、誕生日に贈った時のことだ。
『なんだこれは。女のつまらん手慰みで作ったものなど、俺はいらん。高級店で買った方がマシだ」
ジークハルトはそれを一瞥しただけで、くしゃりと握り潰して脇の侍従に放り投げた。
その光景に言葉を失った私の前を、彼は鼻で笑いながら通り過ぎていく。
そして数日後、私は見てしまったのだ。あのハンカチを、ローラが嬉しそうに胸元のポケットから覗かせているのを。彼女は友人たちに「殿下からいただいたの」と、幸せそうに語っていた。
あの瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。
期待も、情愛も、未来への夢も、全て。
そして、代わりに宿ったのは、氷のように冷たい決意だった。
他の人の気持ちを微塵に考えないこの男に、この国を任せてはならない。
それからだ。私が「氷の薔薇」を完璧に演じ始めたのは。
感情を殺し、ただひたすらに完璧な婚約者として振る舞う。その仮面は、ジークハルトの油断を誘い、情報を集めるための絶好の隠れ蓑となった。
公爵家の力を使い、信頼できる者だけを動かして、彼の金の流れ、交友関係、ローラとの密会の場所と時間、その全てを調べ上げた。愚かな王子は、私が彼の横領に気づいていることなど露ほども知らず、今日もローラに高価な宝飾品を贈り、彼女の一族が経営する会社に国の事業を不正に発注している。
いずれ、国王様とお父様にお伝えするための報告書を今日も人知れず作った。
そんな日々が続いていたある日、転機が訪れた。
隣国アデルハイトから、若き公爵カイ・フォン・アーレンスドルフが特使として来訪したのだ。
歓迎の晩餐会の席で、ジークハルトはまたしてもやらかした。
アデルハイトとの貿易協定に関する議題で、彼は相手国の情勢を調べもせずに尊大な要求を突きつけたのだ。場の空気が一瞬で凍りつき、相手国の使節団が不快に顔を歪める。
「――殿下は冗談がお好きでいらっしゃる」
私が静かに口を挟むと、全ての視線が私に集まった。
「アデルハイト国には『大きな実りを望むなら、まず豊かな土こそ讃えよ』という古くからのことわざがございますでしょう? 殿下は、実りある関係を築くにあたり、まず貴国の素晴らしさを讃えたい、とおっしゃりたいのですわ。言葉が足りず、申し訳ございません」
にっこりと微笑んでみせれば、強張っていた使節団の顔が、なるほど、と和らいだ。そんなことわざは存在しない。私が今、この場で作ったものだ。
ジークハルトは不満げに口をへの字に曲げていたが、事が収まったのを良いことに、すぐに興味を失って手元のワイングラスに手を伸ばした。
その一連のやり取りを、カイ公爵が射るような視線で見つめていたことに、私は気づいていた。
彼は黒曜石のような瞳を持つ、油断のならない男だった。ジークハルトとは違う、本物の知性と、その奥に隠された野心の色を宿している。
後日、王宮の庭園を散策していると、そのカイ公爵が偶然を装って近づいてきた。
「クライフォルト公爵令嬢。先日の晩餐会では、見事な手綱捌きでございましたな」
「まぁ、カイ公爵。何のことですかしら」
「惚けても無駄ですよ。あの愚……いえ、天真爛漫な王子殿下を操る手腕、感服いたしました」
皮肉の混じった賞賛に、私は微笑みを崩さずに返す。
「殿下は、この国の太陽のようなお方。その光が強すぎることが、時折あるだけですわ」
私たちの間に、探り合うような沈黙が流れる。彼は私の仮面を見透かし、その上で話しかけてきているのだ。
やがて、カイ公爵は一歩踏み込み、声を潜めて言った。
「貴女は、その程度の男で満足できる器ではないでしょう」
それは、問いかけであり、確信だった。
彼の黒曜石の瞳が、真っ直ぐに私の本質を射抜いている。この男は、他の誰もが見ようとしなかった、私の仮面の下の姿に気づいているのだ。
私はふっと、初めて素の笑みを漏らした。
「公爵閣下。あなたに、私の何がお分かりになると?」
「分かりますよ。あなたは、鳥籠の中で飼われるには、あまりにも賢く、気高い鷹だ」
鷹、か。言い得て妙だわ。
私は彼を試すことにした。
「私が望むのは、この国の正常化、ただそれだけです。もし……それを手助けしてくださるのでしたら、公爵閣下にとっても、決して悪いお話にはならないかと存じます」
それは、私の計画への誘い。共犯者になるか、それとも王家にこのことを密告するのか。彼への最終的な試験だった。
カイ公爵は、私の言葉の真意を即座に理解したのだろう。彼の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
「面白い。その舟、乗らせていただきましょう。エリアーナ嬢」
初めて私の名を呼んだ彼の声は、確かな信頼と、そしてほんの少しの熱を帯びていた。
こうして、私と隣国の公爵との間に、密やかな協力関係が結ばれた。
さて、そろそろ国王様やお父様に悪事の報告もしましょうか。
断罪の舞台は、着々と整えられていく。
―・―・―
その日は、どこまでも晴れ渡った空が、まるでジークハルトの輝かしい未来を祝福しているかのようだった。
彼の二十歳の誕生日を祝う式典は、王宮で最も大きな「暁の間」で執り行われた。国内外から集まった要人たちで、広大なホールは埋め尽くされている。
主役であるジークハルトは、真新しい軍服に身を包み、得意満面の笑みを浮かべていた。彼の隣には、純白のドレスを纏ったローラが、未来の王太子妃気取りで寄り添っている。彼女の胸元には、どう見ても国宝級の大粒のダイヤのネックレスが輝いていた。もちろん、それも国の金で買われたものだ。
私はと言えば、少し離れた席で、いつもと変わらぬ「氷の薔薇」として静かにその光景を眺めていた。今日の私は、主役を引き立てるための舞台装置。少なくとも、ここにいる誰もがそう思っていただろう。
やがて、陛下による祝辞が終わり、ジークハルトが答礼のスピーチのために壇上へ上がった。彼は自信に満ちた声で、集まった人々への感謝を述べ、自らの抱負を語る。そして、一通り当たり障りのない話が終わると、彼は殊更ゆっくりと、会場にいる私へと視線を向けた。
「そして、ここにいる皆に、私の口から伝えねばならないことがある。私の婚約者、エリアーナ・フォン・クライフォルトとの関係についてだ」
会場が、水を打ったように静まり返る。誰もが固唾を飲んで、彼の次の言葉を待っていた。ローラは扇で口元を隠しているが、その目が歓喜に細められているのが見て取れた。
「彼女は優秀な令嬢だ。だが、我々の間に真実の愛がなかったことは、ここにいる皆も知っているだろう。私は……ついに、私の魂を震わせる、唯一人の女性と出会った!」
ジークハルトはそう叫ぶと、ローラに手を差し伸べた。
「ローラ! さぁ、私の隣へ!彼女を私の新たな婚約者とし、エリアーナは第二夫人とする!」
この日、ジークハルトが何かすると思ってましたが、まさか私を第二夫人にするとは。
私を第二夫人にすれば、一応は公爵家の面目を保てると思ったのですか?そんなわけないというのに。
ああ、愚かな人達。自分で用意した断頭台へ、なんと嬉しそうに上っていくのだろう。
ローラが歓喜にうち震えながら、その手を取ろうと一歩踏み出した、まさにその瞬間だった。
「――お待ちくださいませ、殿下」
凛、と響いた私の声に、全ての動きが止まる。
ジークハルトは眉を吊り上げ、ローラは信じられないといった顔で私を見ていた。会場の誰もが、私がいつものように王子の失態をとりなすのだろうと思ったに違いない。だが、今日の私は、静かすぎた。微笑みさえ浮かべていなかった。
私はゆっくりと立ち上がると、控えていた侍従に合図を送る。侍従は、私が用意していた書類の束を、居並ぶ大臣や各家の当主、そして各国の使節団へと厳かに配り始めた。
「エリアーナ! 貴様、いったい何の真似だ!」
「殿下。スピーチの途中、大変失礼とは存じます。ですが、この国を揺るがす火急の事態ゆえ、お許しいただきたく」
ざわつく会場の中、私は壇上を見据えてはっきりと告げた。
「そもそも、私を第二夫人にすることはクライフォルト公爵家に話は通しましたか?私は今、初めて聞きました。婚約者を代えることがどれだけ周りに影響を与えるかご存知で?国王様や私の父の顔を見ると何も知らなかったご様子」
今、まさに顔を真っ赤にしているお二人が横目で見える。
「そ、それはこの場で発表した後に調整するつもりだったんだ…!王子である俺の意見であれば、皆聞いてくれるはず!」
「ふふふ。頭がお花畑とはこのことですね」
「ふざけるなぁ!貴様無礼であるぞ!」
「まあそれは置いておきましょう。本題はここからです。まず一つ。ジークハルト殿下は、ここ数年にわたり、王家の資産を不正に流用し続けておられました。お手元の資料の通り、その総額は金貨にして五十万枚。そのほとんどが、ローラ嬢とその一族へ流れております」
「なっ……! で、でたらめだ! そんなもの、捏造に決まっている!」
「捏造、でございますか? では、殿下の直筆のサインが入ったこの出納命令書も、偽物だとおっしゃるのですか?」
私が懐から取り出した一枚の羊皮紙に、ジークハルトは絶句した。それは彼がローラへの贈り物の代金を、軍事費から流用する際にサインしたものだった。
「さらに、殿下は国が主導する公共事業を、ローラ嬢の父君が経営する会社へ不当に高値で発注。その結果、本来得られるべき国庫の利益が、どれほど損なわれたことか。その損失が、民にどれほどの負担を強いていることか、お分かりになっておいでですか?」
私の言葉に、財務大臣が真っ青な顔で資料に見入っている。当時の事業の部長も殿下に賄賂をもらっていたらしく、大臣も知らなかったとのこと。
他の貴族たちも、怒りと侮蔑の入り混じった目でジークハルトを見ていた。
だが、これで終わりではない。とどめの一撃は、まだ残っている。
私がカイ公爵に視線を送ると、彼は静かに立ち上がった。
「陛下。僭越ながら、このカイ・フォン・アーレンスドルフからも、証言させて頂きたく」
「な、なんだと……?」
他国の王子のお祝い事ということで参加していたカイ公爵の登場に、ジークハルトは完全に度肝を抜かれていた。
「ジークハルト殿下は、我がアデルハイトとの重要な交渉内容を、あろうことかローラ嬢に漏らしておられました。そして、その情報が第三国の商会へと渡り、我が国が大きな不利益を被った事実がございます。これは、もはや単なる失態では済まされません。明確な、利敵行為でございます」
情報漏洩。その罪の重さに、会場は今度こそ絶望的な沈黙に包まれた。
「う、裏切り者ッ! エリアーナ、よくも、よくも俺を裏切ったな!」
全ての罪を白日の下に晒され、逃げ場を失ったジークハルトが、獣のような叫び声を上げた。その瞳には、憎悪と、そしてわずかな狼狽の色が浮かんでいる。
私は静かに彼へと歩み寄り、その目を見つめ返した。
「殿下。私、これまで一度でも殿下に『愛して欲しい』と伝えたことがありましたでしょうか?」
私の問いかけに、時が止まる。
彼は虚を衝かれたように、言葉に詰まった。
「それは……ないが……それが、どうしたというのだ!」
「えぇ。ただの一度もございません。――愛する価値もない方だと思っておりましたので」
氷のような声で、私は言い放つ。
「これは、婚約者としての務めではございません。この国の未来を憂う、一人の公爵家の人間としての、最後の務めにございます。国の膿を、ここで取り除かせていただきます」
その言葉を合図にしたかのように、ホールの扉が開き、武装した衛兵たちがなだれ込んできた。事前に伝えていた通りだ。
「ジークハルト王子、並びにローラ嬢を、国家への背任と反逆の容疑で拘束せよ!」
陛下の苦渋に満ちた命令が、ホールに響き渡る。
「いやだ! 離せ! 私は王子だぞ!」「そんな、嘘よ! ジークハルト様ぁ!」
泣き叫びながら連行されていく二人を、私は何の感情もなく見送った。
そして、陛下の前に進み出て、深く、深く一礼する。
「エリアーナ嬢。すまなかった。貴殿に言われるまでジークハルトの企みを全く知らなかった。国王として、そして愚息の父親として謝罪する。あいつのことを甘やかしすぎたのかもしれぬ。王子の位はもちろん剥奪し、厳しい処罰を与えよう」
顔を上げた私に注がれていたのは、もはや同情ではない。
畏敬と、そして賞賛の視線だった。
―・―・―
あの断罪の式典から、三ヶ月の月日が流れた。
元・婚約者であった男、ジークハルトは、王位継承権を剥奪された上で辺境の砦に幽閉されたと聞く。彼を甘やかしていた陛下も、国内外からの非難と圧力に抗いきれず、早々に第二王子に王位を譲り退位した。新しい王は聡明で、国は良い方向へ向かっているらしい。
そして、未来の王太子妃を夢見たローラは、全ての罪を暴かれ、北の果てにある修道院へ送られたそうだ。彼女を甘やかした家族もまた爵位を剥奪され、没落したと風の噂に聞いた。
けれど、それらの話を聞いても、私の心は凪いだ湖のように静かなままだった。もはや彼らは、私の人生のおいて何も関係ないただの赤の他人なのだから。
私は今、活気あふれる港町にいる。
カモメの鳴き声が空に響き、潮の香りを乗せた風が、私の頬を優しく撫でていく。これまでの重苦しいドレスではなく、軽やかな旅装束に身を包んだ体は、驚くほどに自由だった。
「準備はいいかい、エリアーナ」
隣に立つカイ公爵が、穏やかな声で私に問いかける。彼の国、アデルハイトへ向かう大型船が、白い帆を広げて出航の時を待っていた。
「えぇ。いつでも」
私たちは船に乗り、甲板から遠ざかっていく故国の景色を眺めていた。あの息の詰まるような王宮も、偽りの仮面をつけ続けた日々も、全てが過去になっていく。
「本当に良かったのかい? 君は、この国の危機を救った英雄だ。望めば、ここで何不自由ない暮らしができたはずだ」
カイ様は、私の覚悟を確かめるように、真っ直ぐな瞳で私を見つめる。
私は小さく首を振った。
「英雄だなんて、とんでもない。私は、ただ自分の居場所を守りたかっただけです。……そして、もう偽りの仮面をつけて過ごすのは、終わりにしたかった」
そう。私が望んだのは、誰かに決められた役割を演じる人生ではない。
自分の心で感じ、自分の意志で歩む、私自身の人生だ。
カイ様は何も言わず、私の言葉に静かに耳を傾けてくれていた。
やがて、彼は真剣な面持ちで、もう一度私に問うた。
「では、最後の質問だ。私と来ることが、本当に君の幸せに繋がるだろうか」
その問いには、彼の誠実な人柄が滲み出ていた。彼は私を、戦利品や協力者としてではなく、一人の人間として、その未来を心から案じてくれている。
その温かさが、私の心の奥底にあった氷を、静かに溶かしていくのを感じた。
わたくしは初めて、彼の前で心の底からの、何の計算もない微笑みを浮かべた。
それはきっと、誰も見たことのない、「氷の薔薇」ではない、ただのエリアーナとしての笑顔だったと思う。
「カイ様」
私は彼の名を呼び、一歩、彼に近づく。
「わたくし、貴方を愛したいのです」
そして、ほんの少しの勇気を出して、言葉を続けた。
これまで、誰にも向けたことのない、私の、本当の願いを。
「そして……愛して欲しい、と願ってもよろしいでしょうか」
言い終えた途端、頬が熱くなるのを感じた。
カイ様は一瞬、驚いたように目を見開いたが、次の瞬間には、愛おしさに満ちた優しい笑みを浮かべ、私の手をそっと握りしめた。
「――喜んで」
力強く握り返された手の温もりが、私の心に広がっていく。
汽笛が高らかに鳴り響き、私たちの乗った船が、ゆっくりと岸を離れていく。
私はもう、決して振り返らない。
偽りの仮面は、あの海に捨てていこう。
私の本当の人生は、今、この人と共に、ここから始まるのだから。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
以前、書き溜めていたざまぁ系のお話を投稿させていただきました!王道の異世界ざまぁ系は、読む分には面白いのですが作るのは難しいなと常々実感しております…
補足ですが、物語の最後、エリアーナのセリフにおける一人称の描写が「わたくし」とあえて平仮名表記にしています。
『氷の薔薇』を演じていたエリアーナは「私」、素のエリアーナは「わたくし」と分けてみました!
よろしければ評価してくださると励みになります!