第四章
蒸し暑い日本の夏は続き、動物園の檻の中では、新たな力関係が試されようとしていた。ゴリラの群れで新しき王となったタケルは、その若さと力を持て余すかのように、周辺の縄張りへと目を向け始めた。
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タケルの侵攻とマサルの反撃
タケルは、キングとは異なる、より直接的で攻撃的な支配を求めていた。彼は群れのメスたち、特にリリを伴い、これまでキングが威嚇に留めていたオランウータンの縄張り、そしてニホンザルの縄張りへと、本格的に侵入を開始した。その巨体で木々を揺らし、地面を叩くタケルの行動は、周囲の動物たちに明確な威圧感を与えた。
「グオォォォッ!」
タケルの咆哮が響き渡り、まず標的となったのは、ニホンザルの縄張りだった。タケルは、数頭のメスを率いて、マサルたちの岩山へと近づいた。小さなサルたちが群れる岩山は、彼にとって格好の獲物に見えたのだろう。
マサルは、タケルの接近を察知し、群れに警戒の声を上げた。しかし、今回は以前とは違った。タケルはただ威嚇するだけでなく、積極的に岩山へと登ろうとしたのだ。若きゴリラの圧倒的な力に、ニホンザルたちは一時的に怯み、散り散りになる。だが、マサルは冷静だった。彼は群れの安全を最優先し、同時にタケルに一泡吹かせる機会を窺っていた。
「ここから先は、一歩も通さない!」
マサルは、若いオスザルたちに指示を出し、ゴリラたちが登りにくい急峻な岩場へと誘い込んだ。そして、タケルが足場を確保しようと手を伸ばした瞬間、マサルは背後から飛び出し、素早く彼の腕に噛み付いた。タケルは激痛に顔を歪め、思わずよろめいた。その隙に、ニホンザルたちは岩の隙間に隠れ、姿を消した。タケルは怒り狂い、岩を叩きつけたが、マサルの姿はどこにもない。ニホンザルたちの素早い動きと地の利を活かした戦術に、タケルは翻弄された。
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ゴンタの知恵と静かなる防御
ニホンザルの縄張りでの攻防を、ゴンタは彼の囲いの高木の上からじっと見つめていた。タケルの攻撃性が、以前のキング以上であることは明らかだった。ゴンタは争いを好まないが、自分の縄張りを侵されることは決して許さなかった。彼は、タケルの行動パターンを分析し、それに合わせた静かなる防御策を講じた。
タケルがオランウータンの囲いに侵入し、力任せに木々を揺らし始めた時、ゴンタは慌てて逃げることはしなかった。彼は、最も高い枝へと移動し、タケルが届かない場所に身を潜めた。そして、タケルが諦めて去ろうとするその時、ゴンタは巧妙に隠していた、重く硬いドリアンの殻を、タケルの足元に正確に落とした。
「ドスッ!」
突然の衝撃に、タケルは驚いて飛び退いた。ゴンタはそれ以上何もせず、ただ静かにその様子を見下ろしていた。これは、直接的な攻撃ではなく、相手を驚かせ、縄張りの危険性を認識させる、ゴンタ流の知恵の戦術だった。タケルは怒りに震えたが、ゴンタが姿を見せないため、どこに怒りをぶつければいいのか分からなかった。結局、彼は不満げに囲いを後にするしかなかった。ゴンタは、自分の縄張りを守り抜くために、常に冷静沈着な判断を下していた。
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見えない協力関係
マサルとゴンタは、言葉を交わすことはなかった。しかし、彼らは互いの存在を強く意識し、タケルという共通の脅威に対し、それぞれの得意な戦術で対抗していた。マサルの素早い奇襲と地の利を活かした防御、ゴンタの冷静な観察と知恵を用いた回避。それは、異なる種でありながら、見えない糸で結ばれたかのような、暗黙の協力関係だった。
来園者たちは、ゴリラたちの荒々しい動きや、サルたちの機敏な動きに歓声を上げた。彼らは、それが動物たちの自然な行動だと考えていたが、その裏では、種としての生存をかけた、緻密な戦略と攻防が繰り広げられていることを知る由もなかった。
夕暮れ時、タケルは不満げな表情で群れの中に戻っていった。彼の最初の侵攻は、完全な勝利とはならなかった。マサルは、岩山の上からタケルの背中を見送り、その瞳には警戒の色が宿っていた。ゴンタは、静かに木の上で過ごし、夜の訪れを待っていた。ガラスの檻の向こうでは、それぞれの種が、それぞれの戦略を胸に、明日の戦いに備えていた。