第三章
夏の日差しがさらに強さを増し、動物園の空気はうだるような熱気に包まれていた。キングの転落から数週間、ゴリラの囲いでは明確な変化が訪れていた。タケルの台頭は加速し、群れの力関係は急速に変動していた。
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タケルの台頭と群れの分裂
キングは、足の怪我は癒えつつあったものの、精神的なダメージは深く、その表情には常に諦めと疲弊の色が浮かんでいた。彼はもはや群れの中心にはおらず、餌の時間も、メスたちが集まる場所からも遠ざかるようになった。飼育員の田中は、キングにいつもより多くの果物を与えようとしたが、キングは興味を示さず、力なくそれを押しやるだけだった。
「キング、どうしたんだ? 元気がないな…」
その横で、若きオスゴリラ、タケルは、日増しにその存在感を強めていた。彼は連日、胸を叩き、力強い咆哮を響かせ、群れのメスたちに自分の力を誇示していた。以前はキングの影に隠れていたメスたちも、次第にタケルの周囲に集まるようになった。特に、最年少のメスゴリラ、リリは、好奇心旺盛な目でタケルを見つめ、彼の後を追いかけるようになった。
タケルは、キングがかつて支配していた縄張りの奥深くへと足を踏み入れ、堂々と腰を下ろした。それは、明確な王位継承の意思表示だった。キングは、タケルの行動をただ見つめることしかできなかった。彼の衰退は、誰の目にも明らかだった。
しかし、すべてのメスがタケルに靡いたわけではなかった。古参のメス、ハナは、キングへの忠誠を保ち、その隣に寄り添っていた。彼女はタケルの粗暴な振る舞いを警戒し、幼いゴリラたちを彼の近くに寄せ付けなかった。ゴリラの群れは、キング派とタケル派に分かれ、内部に不穏な空気が漂い始めた。
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ゴンタの静かなる観察
ゴリラの囲いの変化を、オランウータンのゴンタは、彼のいつもの高い木の上から静かに見下ろしていた。キングが力を失い、タケルが台頭する様子を、彼はただ冷静に観察していた。
ゴンタにとって、ゴリラの群れ内部の権力闘争は、直接的な脅威ではなかった。彼が懸念していたのは、新たな王となったタケルが、かつてのキングのように、あるいはそれ以上に、自らの縄張りを侵犯してくる可能性だった。ゴンタは、過去の記憶から、力の均衡が崩れた時の危険性をよく知っていた。
彼は木々の葉陰に身を潜め、タケルの行動パターンを分析していた。タケルは若く、力任せで、キングのような狡猾さは持ち合わせていない。ゴンタは、タケルの行動を予測し、それに対処するための新たな戦略を練り始めた。それは、争いを避けつつも、決して自分の縄張りを譲らないための、知恵と忍耐の戦術だった。彼は、タケルの力の誇示に対し、敢えて無関心を装い、決して目を合わせようとしなかった。
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マサルの警戒と防衛線
ニホンザルのマサルもまた、ゴリラの群れの異変を察知していた。キングが失墜したことは好機と捉えられるかもしれないが、若く勢いのあるタケルがボスとなった場合、以前よりも縄張り争いが激化する可能性を危惧していた。
「あいつらは、力が全てだと思っている。だが、ここは俺たちの場所だ。」
マサルは、岩山をすみずみまで点検し、群れの防衛線を強化するよう指示を出した。特に、ゴリラたちが容易に近づけないような高所への隠れ場所を再確認し、緊急時の集合場所を徹底させた。若いオスザルたちがタケルの咆哮に怯える様子を見ても、マサルは冷静さを失わなかった。彼は、群れに団結力と規律を求め、ゴリラたちとの決定的な衝突を避けつつ、しかし決して怯まない姿勢を貫いた。
マサルは時折、ゴンタの囲いを眺めた。ゴンタは相変わらず静かで、まるでゴリラの騒動とは無関係であるかのように見えた。しかし、マサルは知っていた。あの賢者もまた、水面下で次の動きを読み、備えているのだと。異なる種でありながら、彼らはガラスの檻の中で、それぞれの生き残り方を模索し、見えない糸で結ばれているようだった。
ある日、タケルは再び高らかな咆哮を上げた。その声は、動物園全体に響き渡り、新たな時代の到来を告げるかのようだった。しかし、その咆哮が、どのような未来をもたらすのか、まだ誰も知る由はなかった。