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9話

(※霧島薫視点)


朝のカフェは、いつも通りの空気に包まれていた。

だが、私、霧島薫の胸の中は、昨夜の熱でまだざわついている。

カウンターに立つ冬原ハヤトを見ると、昨夜の感触が蘇る。大きくて、不器用で、それでも優しくて。


「……っ」


無意識に脚を組み直した。熱が下腹に溜まっていくのを、制服の下で隠す。


「薫さん、ブレンドの豆、補充しときます?」


彼がいつものように聞いてくるが、その声にさえ、私は過剰に反応してしまう。


「……うん、お願い」


普段より甘い声が出てしまい、慌てて視線を逸らした。無理やりコーヒー豆の在庫表に目を落とし、ボールペンを走らせる。

けれど、視界の端には彼の背中が映ってしまう。白いシャツ越しに、肩の筋肉が浮かんで──もう、ダメだ。意識が勝手に彼に向かってしまう。

30代まで男に触れたこともなく、ましてやセックスなんて想像すらしなかった。

なのに、昨夜、彼を部屋に連れ込んで、熱に溺れた。

年下の男に翻弄されるなんて、女として恥ずべきことだ。

でも、その恥ずかしさを隠すように、私は彼に惹かれる自分を受け入れ始めていた。彼が厨房に消えると、私は小さく息を吐く。


(恋人になった気分……なんて、バカみたい)


でも、そのバカみたいな気持ちが、妙に心地いい。




(※冬原ハヤト視点)


厨房のシンクにカップを並べながら、俺は心の奥でずっとざらついた感情を抱えていた。


──昨日の夜のこと。


薫さんと、あのまま飲みに行って。


終電を逃して、部屋に泊めてもらって。


……そして、気づけば、彼女のベッドの中にいた。


もちろん、記憶が全くないわけじゃない。


薄暗い部屋。微かに香るシャンプーの匂い。温かくて柔らかい肌。重なる唇。


息を呑むような吐息。


──全部、夢じゃない。


俺は、薫さんと、そういう関係になってしまった。


(……でも)


胸の奥が、ざわざわと波立つ。


俺は彼女を好きだと思ってたわけじゃない。少なくとも、あの時点では。


優しくて、真面目で、尊敬できる人だとは思っていた。でも、それは“店長”としてであって──


(……酒の勢い、だよな)


自分にそう言い聞かせるように、深く息を吐く。


あの夜、俺は弱っていた。玲と再会して、過去がえぐられて、心が不安定だった。


薫さんは、それを察して、寄り添ってくれた。優しくしてくれた。


だから、俺は──


(甘えてしまったんだ)


あの人を“女”として意識したのは、確かにあの時が初めてだった。


でも、だからって、恋愛感情があるかって言われると……答えに詰まる。


厨房から出ると、薫さんがカウンター越しに書類に目を通していた。


いつもの白シャツ、黒いエプロン。


だけど、その姿が、昨夜ベッドの中で息を荒げていた彼女と重なってしまって、俺は思わず目を逸らした。


「薫さん……少し、いいですか?」


「え?」


彼女が顔を上げる。


その瞳は、思ったより穏やかで。どこか、期待しているようにも見えた。


俺は、喉がひりつくのを感じながら、言葉を探した。


「……昨日のこと、なんですけど」


その瞬間、薫さんの指がピタリと止まる。


目が、ほんのわずかに揺れた。


「……うん。どうかした?」


「えっと……俺、その、ちゃんと覚えてるんです。全部じゃないけど……」


「……そっか」


「でも……その……」


視線が定まらない。けれど、ここで言わなきゃいけない気がした。


「……あれは、その、酒の勢いだったと思うんです。だから……あの、昨日のことは……なかったことに、できませんか?」


言ってしまった。


彼女の顔が、ゆっくりと凍っていくのが分かった。


けれど、怒鳴るわけでも、責めるわけでもない。ただ、ただ、無表情になって、目だけがじっと俺を見ていた。


俺は、逃げるように言葉を続ける。


「薫さんには、本当に感謝してます。あの夜、助けてもらったって思ってます。でも……だからこそ、今までの関係を壊したくないというか……」


薫さんはしばらく沈黙していた。


長い、長い沈黙。


やがて、彼女はゆっくりと息を吐き、小さく笑った。


「……わかった。そういうことなら、それでいいわ」


その声は、静かだった。でも、その静けさが、怖かった。


「昨日のことは、忘れる。私も酔ってたし、軽率だった。……そういうことにしておきましょう」


そう言って、彼女は書類に視線を戻した。


それ以上、何も言わなかった。


でも──その背中から滲み出る気配は、明らかに“何か”を押し殺していた。


その時、ドアベルが鳴った。


「こんにちは。……また来ちゃった」


夏木玲が、笑顔で店に入ってきた。


俺は、背中に汗が滲むのを感じながら、カウンターに立ち直った。


──俺は、何か大事なものを失った気がしていた。


けれど、それが何なのかは、まだ分からなかった。

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