7話
午前のカフェは静かで、温かな空気がゆっくり流れていた。
「アイスラテとチーズケーキで。……あ、いつもの席空いてますか?」
常連のOLが笑顔で声をかけてくる。
俺は自然に会釈し、レジを操作しながら注文を繰り返す。
「アイスラテとチーズケーキ、店内ご利用ですね。ありがとうございます」
リズムは変わらない。
だけど──昨日から、何かが微かに揺れていた。
玲と再会して、過去の痛みと、今の彼女の変化を感じた。
どこかでまだ、心がそれを整理できずにいる。
「……ふぅ」
短く息を吐きながら、厨房へラテを渡す。
奥では、店長──霧島薫さんが手際よくミルクを泡立てていた。
いつもの白シャツ、黒のエプロン。今日は髪を低くまとめ、さらに凛とした印象をまとっている。
「冬原、今日の午後、仕入れ先から確認の電話が来ると思う。メモ帳持って、バックに置いといて」
「了解です」
俺が返事をすると、彼女はひと言「よろしい」とだけ言って、カップを差し出してきた。
その動きに、いつもよりほんの少しだけ無駄があった気がした
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正午を回り、店内が一気に賑やかになる。
学生たちのグループが笑い、主婦らしき客がベビーカーを押して入ってくる。
ひとつひとつの注文を捌きながら、いつものように店を回していた、そのとき──
「……いらっしゃいませー」
条件反射でそう言いながら顔を上げた瞬間、思わず声が途切れそうになる。
「こんにちは。……また来ちゃった」
夏木玲が、レジカウンターの前に立っていた。
薄手のジャケットに、ボーダーのインナー。
軽く巻かれた髪が春の光を弾いている。
丁寧に整えられた前髪、ほんのり色づいたリップグロスに、控えめなピアス。
目立ちすぎないけど、明らかに“仕上げてきた”感がある。
「玲……来たんだ」
「うん、近く通ったから。ちょっと甘いの飲みたくなって。……それと」
玲は一瞬、視線を泳がせて──
「ハヤトと話せたら……嬉しいから。」
「……そっか。ありがとう。えっと、ご注文は?」
「カフェラテと、チョコブラウニー。店内で」
レジを打ちながら、内心では汗をかいていた。
店内は混雑していて、俺のすぐ後ろでは──
「……」
薫さんが、静かにこちらを見ていた。
表情は、いつもと変わらない。
けれど、その視線の冷たさに、ゾクリとするほどの硬さが宿っていた。
「ご注文、カフェラテとチョコブラウニーですね。店内で」
「うん。……できれば、ハヤトの手が空くの、待っててもいい?」
少しだけ甘えたような声。
俺が答えようとしたそのとき──
「かしこまりました。お客様、お席でお待ちください」
背後から、低く整った声が割って入った。
玲が振り向く。そこに立っていたのは、薫さんだった。
「申し訳ありませんが、冬原はレジ対応中です。これ以上の会話は業務に差し支えますので、ご遠慮ください」
(……やばい)
薫さん強めの語調に俺は内心、冷や汗をかいていた。
玲の喧嘩早さは、誰よりもよく知っている。
昔は一度スイッチが入ったら、相手が誰だろうが殴りかかってた。
「……はい。わかってます」
けれど玲は、意外にも笑みを崩さず、すっとカウンターから身を引いた。
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それからしばらく、玲は窓際の席に座っていた。
ブラウニーをつつきながら、時折こちらを見て、笑って手を振ったりする。
そのたびに、カウンターの奥で薫さんの手が止まる気配を感じた。
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閉店後、スタッフの清掃が終わり、ひと息ついたとき。
バックヤードの扉を開けると、薫さんが一人、コーヒーを啜っていた。
「あの子……また来たね」
「……はい」
短く答えると、薫さんは視線をカップに落としたまま、淡々と続けた。
「あなた、どうしても関わるつもりなの?」
その問いかけは、責めているようで、どこか寂しげだった。
「……正直、まだ迷ってます。でも……今の玲は、昔と違うような気がして」
薫さんは黙ったまま、ゆっくりと頷いた。
「そう。……じゃあ、もう止められない」
「薫さん……」
彼女はカップを置き、わずかにこちらに体を向ける。
「私はね、冬原。あなたの人生に口出しするつもりはない。……でも、あの子と向き合うなら、覚悟しなさい。あなたがどうなるか、私には見えてるから」
低く、冷たい声音だった。けれど、それは怒りではなく──諦めに近い感情に聞こえた。
「……心配してくれてるんですよね」
俺がそう言うと、薫さんは一瞬だけ目を伏せ、小さく笑った。
「さあ、どうだろう。私はただの店長だから。スタッフの様子を気にするのは、当たり前」
そう言いながら、彼女は立ち上がった。
カップを片手に、ドアに向かいかけて──ふと、足を止める。
「ねぇ、冬原」
「はい?」
「ちょっと付き合ってくれる?」
「……え?」
振り返った彼女の表情は、いつもの無愛想な店長のそれじゃなかった。
少しだけ疲れたような、でもどこか柔らかい、大人の女の顔。
「コーヒーじゃ、話す気にもならないわ。……飲みに行きましょ」
「えっ、いまからですか?」
「店の近くに、ひとりでも入れる静かなバーがあるの。上司の誘い、断るつもり?」
「いえ、そんな……!」
俺があわてて立ち上がると、薫さんはふっと目を細めた。
「じゃあ決まり。鍵、閉めてくるから、外で待ってて」
そう言って薫さんは、いつもの機械的な動きで片付けを済ませ、手早く店の戸締まりを始めた。
シャッターを下ろす音が、夜の静けさに響く。
しばらくして、私服に着替えた薫さんが現れた。
モノトーンのコートに、さりげないピアス。シンプルだけど、やけに洗練されて見えた。
「寒いわね。……ほら、行くわよ」
ライトに照らされた横顔は、いつもよりもずっと大人びていて──
俺はなぜか、少しだけ背筋を伸ばして歩き出した。
その夜、俺は初めて、店長と“仕事じゃない時間”を過ごすことになった。