5話
冷たい雨の中、冬原ハヤトは傘を差しながら、スマホの画面をぼんやりと見つめていた。
そこには、未読のままのメッセージが浮かんでいる。
『──話したいことがあるの』
玲からのその短い一文が、胸の奥にざらりと鈍い波紋を広げていた。
「……話したいこと、ね」
呟いた声は、雨音に溶けて消えた。
あの子と最後に言葉を交わしたのは、高校の、階段裏だった。
──「ブスのくせに、調子のんなよ。気持ち悪い」
制服の胸ぐらを掴まれ、壁に叩きつけられたときの衝撃。
怒鳴られた声の熱。
耳鳴り。痛み。なによりも、あのとき見た玲の顔が、焼き付いたまま消えない。
(……俺にも、悪いところはあった)
そう思えるようになったのは、ようやく最近のことだ。
思春期の頃、玲が自分に向けてくる嫉妬混じりの視線が、どこか心地よかった。
他の女子から告白された話を、わざと話題に出したこともあった。
それで、彼女の機嫌が悪くなるたび、
“俺のことを気にしてる証拠だ”って思ってた。
最低だった。
彼女を追い詰めたのは、俺の方かもしれない。
だけど、あの言葉と暴力は、心に爪痕を残すには十分すぎた。
カフェの前に差し掛かると、ふと目に入ったのは、閉店後の静かな店内でテーブルを拭く霧島薫の姿だった。
買い物ついでに通りかかっただけのつもりだったが、彼女に会いたくなった。
どうしてだろうか――気づけば足が向かっていた。
ふと、ガラス越しに薫と視線が重なる。
彼女の瞳が、一瞬わずかに揺れたのがわかった。
すぐに彼女は視線を逸らし、また拭き掃除を続けた。
気づけば、ハヤトは無意識のうちに店の扉を開けていた。
「……冬原?」
薫が驚いたように顔を上げる。
「あ……すみません、なんとなく寄っちゃいました」
理由なんてなかった。ただ、ふいに会いたくなっただけだ。
薫は少し間を置き、ふうと短く息を吐いた。
「……いいわ。座って。コーヒー、いる?」
「はい……お願いします」
カウンター越しに、コーヒーを淹れる薫の動きを見つめながら、ハヤトは口を開く。
「薫さんって……恋愛とか、したことありますか?」
その手がぴたりと止まる。
「……なによ、いきなり」
少し鋭い声音。
「あ、いや……ごめんなさい。最近ちょっと、わかんなくなってて。……恋愛って、なんなのかなって」
「……幼馴染の子のこと?」
「はい。俺、玲のことが好きだった。でも、色々あって……あの子を傷つけて、俺も傷つけられて。もう、恋愛自体が怖いんです」
薫は静かにカップをハヤトの前に置いた。
その指先が、わずかに震えているのが見えた。
「……それでも、また会うつもりなの?」
「……わかりません。でも、無視はできない。……もしかしたら、俺、まだあの子のこと……」
その言葉を口にした瞬間、薫の表情が一瞬固まった。
「そう……」
彼女はそれ以上何も言わず、静かに視線を落とし沈黙を続けた。
「薫さん……?」
名前を呼ぶと、ようやく薫は顔を上げた。
「冬原……その子に会うの、やめておきなさい」
「え?」
「無理に過去と向き合わなくていい。……また傷つくくらいなら、思い出はそのままにしておきなさい」
「でも――」
「……あなたがどんな人か、私はよくわかっている」
薫は言葉を慎重に選ぶように、ゆっくりと続けた。
「優しくて、真面目で、ちょっと不器用。だからこそ、利用されたり、振り回されたりしてしまう……そんなの、見ていられない」
彼女の視線は柔らかいけれど、どこか強い力を持っていた。
「……冬原。お願い、もうあの子には会わないって、約束してくれない?」
「……なんでそこまで……」
薫はふっと微笑んだ。
「あなたには……今の生活があるじゃない。ちゃんと仕事をして、真面目に頑張って……そんなあなたを、私は応援している。だからこそ、あなたにこれ以上傷ついてほしくない」
その言葉は、確かに彼女なりの気遣いなのだろう。心配してくれているのだ。
それはわかっている。わかってはいるのだけれど。
(でも……それって、俺のためなんだろうか?)
心の奥に、ふと小さなひっかかりが生まれる。
彼女の言葉は優しいのに、どこか逃げ場を塞ぐような圧を感じた。
それでも、薫の真っ直ぐな視線から目を逸らすことができなかった。
あの目を前にしては、何も言い返せない。言う気力も失ってしまう。
「……わかりました。約束します」
そもそも拒むほどの強さも、今の自分にはなかった。
帰り道。
雨は止んでいたけれど、風が冷たかった。
(本当に、これでよかったのか……?)
胸の奥に残っていた玲の言葉と視線が、まだ消えていない。
(……やっぱり、逃げたままじゃ終われない)
少しだけ指が震える。
スマホを握り直し、玲の名前をタップする。
メッセージ画面を開いて、そっと指を動かす。
『……明日、少しだけ会えないかな』
既読がついたのは、その十秒後だった。
まるで、待っていたかのように。
(……俺は、またあの子に会う)
薫さんとの約束は破った。けれど、俺は俺の意思で、選んだ。
それが後悔になるかどうかなんて、まだわからない。