4話
(※霧島薫視点)
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──霧島薫は、恋をしたことがない。
若い頃は、恋愛なんて非効率だと思っていた。
自立して、努力して、自分の店を持つ。それだけで十分だった。
でも、ひとりで走り続けた十数年の先で出会ったのが、冬原ハヤトだった。
初対面の印象は、素直で、優しそうな子。
そして何より……顔が、私のど真ん中だった。
目が合ったとき、正直、どきりとした。
十も年下の子に、顔がタイプなんて、恥ずかしくて死にたくなる。
それからしばらくは、ただのスタッフとして接していた。
彼はよく働くし、文句も言わない。
人当たりがいいわけじゃないけど、悪くもない。
気が利いて、接客も丁寧で、何より──真面目だった。
けれど、ある日。
カウンター越しで見た、たった一度の笑顔が、私の中の何かを壊した。
下品な女性客に軽く絡まれたとき、困ったように眉を下げながらも、彼は笑っていた。
媚びるような笑みじゃない。取り繕う愛想でもない。
ただ、相手を気遣うような、静かで優しい笑顔だった。
それを見たとき、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
母性本能をくすぐられる、というのかもしれない。
守ってあげたい。癒してあげたい。
けれど──それだけじゃない。
その笑顔に触れた瞬間、私は完全に、彼に惹かれていた。
それ以来、彼のことが、自然と目に入ってくるようになった。
朝の出勤時。ふとした仕草。レジ前でのお客様対応。あの子の髪が伸びたこと。最近コーヒーの飲み方が変わったこと。たまに寝癖を隠しきれていないところ。
一つひとつが、目に焼きついて、離れなくなっていった。
自覚したときには、手遅れだった。
30代、独身、恋愛経験ゼロ。
店と仕事に人生のすべてを注いできた自分が、10歳近く年下のバイトに恋をしている。
──笑ってしまう。いや、引かれるか。
それでも、気持ちは消えてくれなかった。
いつしか、バックヤードで紙カップが隣り合っているだけで、ささやかに嬉しくなるようになっていた。私のブラックの隣に、彼の微糖ラテが置かれるだけで、嬉しかった。
──キモい。わかってる。ほんと、自分でも気持ち悪いと思う。
そして昨日。
あの子が現れた。
高校時代の幼馴染。
彼の表情は、すぐに変わった。
視線が揺れて、声が上ずって、無意識に彼女を目で追っていた。
それを見てしまった自分の心が、思っていた以上に痛んだ。
今日の午後。
私は、どうしても聞いてしまった。
「幼馴染って、どんな人なの?」
聞きたくなかった。でも、聞かずにはいられなかった。
『ちょっとだけ……好きだった人です』
ほんの少し、安心した──その直後。
『……いや、結構、本気で』
……やっぱり。
私は顔色を変えずにうなずいた。
それが“店長”としての矜持だった。
たとえ心の中で軋む音が鳴っていても。
「……彼女がまた現れたのは、悪いことじゃないんだね」
自分で言いながら、バカみたいだと思った。
そんなの、彼が「違う」って言ってくれるのを期待してたに決まってる。
『簡単には戻れないと思う』
その言葉に、少しだけ、希望を感じた。
けれど──
「でも、連絡は……とってるんでしょ?」
返ってきたのは、沈黙だけ。
その沈黙が、答えだった。
立ち上がって、「じゃあ、仕事に戻るね」と言ったとき。
手が、少しだけ震えていた。
彼に見られないように、素早く扉を開ける。
──いい大人が、何をしているのだろう。
若い子に恋して、嫉妬して、勝手に落ち込んで。
「店長」としての立場すら忘れかけて、自分の感情だけで動いている。
閉店後の静かな店内。
片付けをしながら、ふと彼のコーヒーカップに触れた。
たまに考えてしまう。
馬鹿みたいなことを。
たとえば──彼と結婚して、一緒にこの店をやってる未来。
彼がレジに立って、私が厨房でコーヒーを淹れて。
「いらっしゃいませー」なんて、彼の声が店に響いて。
常連さんからは「いい旦那さんねぇ」なんて言われて。
帰りは手をつないで、買い出しに寄って。
夜はふたりで、新しいメニューの試作をして。
──そこに、子どもなんかいたりして。
……バカだ。
この歳で、恋愛経験もない女が、何を妄想してるんだろう。
彼がこっちを見てくれる保証なんて、どこにもない。
むしろ、今こうしてる間にも、あの幼馴染のことを考えてるかもしれない。
でも、浮かんでしまった。
浮かんで、消えなくて、胸が痛くなる。
たぶん私は、本気で彼を好きになってしまったんだ。