3話
スマホの画面に、見慣れた名前が浮かんでいた。
『玲:昨日はごめん。ちゃんと話したいことがあるの』
そのメッセージは短いけれど、ただの「久しぶり」ではなかった。
何か、過去に置いてきたものが、再び目の前に差し出されたような──そんな気がした。
(……今さら、何を話したいって言うんだよ)
ベッドの上で仰向けになりながら、スマホを持つ手だけが動けずにいた。
返すべきか。
無視するべきか。
それとも──まだ何も答えを出さず、保留にするか。
俺は結局、そっと画面を伏せた。
通知は、消さなかった。けれど返信もしなかった。
それが、今の俺にできる精一杯の“保留”だった。
その日のカフェは、昼過ぎから小雨が降り始めたせいか、いつもより静かだった。
店内の照明がぼんやりと柔らかく、空気もどこか緩やかだ。
「冬原。ちょっといいか?」
背後から呼び止める声に、はっと顔を上げる。
振り向くと、霧島薫が書類を片手に立っていた。
相変わらず白シャツと黒エプロンの組み合わせ。今日は髪を後ろで一つにまとめていて、いつもよりきっちりして見える。
「あ、はい。なんでしょう」
「発注表のチェック。あとで一緒に確認するから」
「了解です」
それだけの業務的なやりとり。
けれど、薫さんの声はどこか硬かった。
目が合ったはずなのに、すぐに逸らされた。
(……なんか、いつもと違う?)
そう思ったけれど、俺はそれ以上踏み込めなかった。
午後の休憩時間。バックヤードの小さな机には、いつものように薫さんのコーヒーが置かれていた。
ブラック。いつも通り。香りも温度も、変わらない。
俺はその隣に腰を下ろし、自分の紙カップに口をつけた。
──なのに。今日は、何もかもが、少しだけズレている気がした。
「……幼馴染って、どんな人なの?」
ぽつりと、薫さんが口を開いた。
机の上をじっと見たまま、表情を崩さず、声だけが静かに響いてくる。
「えっと……玲は、高校のときの幼馴染で……ちょっとだけ、好きだった人です」
「ちょっとだけ?」
「……いや、けっこう本気で、好きでした」
口にした瞬間、少しだけ後悔した。
でも、それは嘘じゃなかった。俺の初恋は、あのとき本物だった。
薫さんは、何も言わずに小さく頷いた。
「そう。じゃあ……彼女がまた現れたのは、悪いことじゃないんだね」
その言葉には、感情の色が乗っていなかった。
それが、逆に怖かった。
「……まだわかりません。簡単には、戻れないと思ってる」
「でも、連絡は……とってるんでしょ?」
問いかけは、ほんの少しだけ鋭かった。
俺は一瞬、言葉を詰まらせる。
“返してはいないけど、完全に無視もしていない”──その中途半端を、どう説明すればいいのか分からなかった。
代わりに、コーヒーを一口飲んだ。冷めていて、苦かった。
薫さんは、それ以上何も言わずに席を立った。
「……じゃあ、仕事に戻るわね」
「……はい」
いつもと変わらない、きちんとした背中。
でも、扉の向こうへ消えていくその姿が、妙に遠く感じられた。
スマホの画面を開けば、玲からの通知はまだ残っていた。
だけど、指は動かなかった。
代わりに頭の中をよぎったのは──
薫さんの「君のこと、ちゃんと見てるからね」という声だった。