2話
翌朝のカフェは、いつもと変わらぬ空気に包まれていた。
午前中は常連の年配客、昼にかけて学生やOLのグループが増えてくる。
注文を取り、ラテを淹れ、手際よく会計を済ませる。
指が勝手に動くくらいには、俺の体はこの店のリズムに馴染んでいた。
「ブレンドとシナモンロール、おひとつですね。店内でのご利用ですか?」
「はい、ここで。あの……また来ますね」
目の前の女子大生が、ほんの少し照れくさそうに笑って去っていく。
こういうのには、慣れた。
可愛い子から声をかけられることもある。番号を渡されることだってあった。
──でも、それで心が浮き立つことは、ほとんどない。
(……どうしてなんだろうな)
高校の時の出来事が、今でも心のどこかに、ずっと冷たいしこりとして残っている。
それ以来、誰かに好かれるたび、自分がそれに応えていいのか分からなくなる。
──俺みたいなやつが、誰かを好きになっていいのか。
そう考えるのは、自意識過剰なのかもしれないけど、それが今の俺だった。
「冬原、休憩入れ」
低い声が背後からかかる。
振り向けば、店長──霧島薫が腕を組んで立っていた。今日も白シャツに黒エプロン。化粧っ気はないが、肌は艶やかで、目元のきりっとしたラインが凛々しい。
「はい。じゃあ、行ってきます」
バックヤードの小さなベンチに座って、紙カップのコーヒーを啜る。飲みかけのカップが一つ、隣の棚に置かれていた。店長のものだろう。中身はブラック。毎日、同じ味を飲んでいる。
(……律儀だよな、薫さん)
この店がここまで人気になったのは、間違いなく薫さんの手腕だ。こだわりは強く、ミスには容赦ないが、味と雰囲気に関しては一分の妥協もない。
そんなことを考えていたときだった。
「……あれ、ハヤト?」
懐かしい声が、静かな空間を割った。
その瞬間、手の中のカップがわずかに震えた。
顔を上げる。
そこに立っていたのは──
「……玲……?」
夏木玲。
高校時代の幼馴染。そして、俺の初恋の相手。
セミロングの黒髪、少しつり目で、昔と変わらない勝ち気な印象。
けれど、その瞳の奥には、どこか不安げな影が差していた。
「ここで働いてたんだ。やっぱり……噂、ほんとだったんだね」
「……まあ、うん。なんとなく、続けてて」
自分でも驚くほど、口がうまく回らなかった。
まさか、こんなふうに再会するなんて──心の準備なんて、できているわけがなかった。
「……よかったら、話さない? 今じゃなくていい。仕事が終わったあとでも」
玲は、昔のような強気さを崩さず、それでもどこかぎこちなくそう言った。
けれど──
「……お連れのお客様ですか?」
その瞬間、背後から静かな声が響いた。
玲が振り向くと、そこには店長・霧島薫が無表情のまま立っていた。
「当店では、従業員との私語は最小限にお願いしております。スタッフは現在、休憩中ですので……」
どこにもおかしな点はない。正論。完璧な接客業務としての対応。
──けれど、店内の空気は、瞬間的に凍りついた。
「……あの、私は──」
「申し訳ありません。ご注文のない方の立ち入りはご遠慮いただいております」
玲は一瞬、何かを言いかけた。けれど唇を噛んで、静かに首を振った。
「……ごめん。仕事、頑張って」
それだけ言い残し、玲は店を後にした。
冷えた空気が、バックヤードに残ったまま。
「……すみません。知り合いで」
俺がそう切り出すと、薫さんは少しだけ眉を動かした。
「ただの“知り合い”には、見えなかったけど」
その言葉には、わずかに棘が含まれていた。
でも、すぐに視線を外して──
「……ごめん。詮索するつもりはなかった。ただ……ああいう子がバックヤードまで来るの、ちょっと珍しかったから」
「……はい」
ああいう子──
玲のことだ。あの勝ち気で、自分の思うままに突き進むような性格。高校の頃の記憶が、不意に胸を突いた。
薫さんは、俺の表情をじっと見ていた。無言の時間が続く。けれどその沈黙の中に、何か探るような気配がある。
「その子……君に、何かしてきた?」
「え?」
「さっき、話しかけられたとき。君、すごく戸惑ってた。まるで、過去に何かあった人みたいな顔だった」
薫さんの声は低く落ち着いているが、その奥に微かな苛立ちのようなものが滲んでいた。
「別に……危ない人とかじゃないです。幼馴染で、高校のときちょっとあって……」
そこまで言って、自分の声が妙に震えていることに気づいた。
「そう」
薫さんが短く返す。
でも、その声音には明らかに感情の起伏があった。
「君、男なんだから……気をつけなさいよ」
「え?」
「昔の関係がどうであれ、いきなり近づいてくるような女には、警戒したってバチは当たらないわ」
それは、まるで店長ではなく、“年上の女”としての言葉だった。
「心配……してくれてるんですか?」
自分でも驚くほど、素直に聞いてしまった。
薫さんは、一瞬だけ目を伏せた。手元のカップを持ち直す仕草が、わずかにぎこちない。
「当然でしょ。……私は店長よ。スタッフの身を守るのも、仕事のうち」
強く言い切ったその姿は、頼もしくもあり、どこか切なくもあった。
そのまま、薫さんは立ち上がるとドアに手をかけた。
「……何かあったら、ちゃんと相談しなさい。……君のことは、ちゃんと見てるんだから」
その言葉を最後に、彼女はバックヤードを出ていった。
取り残された俺は、紙カップのコーヒーを見つめながら、しばらく動けなかった。
(……俺のことを、ちゃんと見てる)
その言葉が、じわりと胸に染みていく。
玲と再会して動揺していた心が、少しだけ落ち着いていくのを感じた。