11話
(※冬原ハヤト視点)
昼下がり、カフェの小休憩中。ロッカーに腰掛けてスマホを開くと、玲からのメッセージが届いていた。
『昨日のマフィン、ちゃんと食べた?味どうだった?笑』
続けて、数分後にもう一通。
『あと、この前言ってた飲み会の話なんだけど……今晩とか、行けそう?軽くでいいからさ』
画面を見つめながら、俺は一度深く息を吐いた。
(……そういえば、昨日もらったな。結局、持ち帰って夜に食べたっけ)
バナナと胡桃のしっとりした味。玲の性格からして、レシピを丁寧に調べたんだろうなと思わせる味だった。
それでも、どう返事をしていいか分からず、指が止まる。
(今晩……か)
薫さんとの出来事が、まだ頭の奥でくすぶっていた。
──そんな中で、玲からのこの誘い。
なんとなく、誰かと一緒にいたくて。その気持ちに任せるように、俺は指を動かした。
『……いいよ。何時にどこ?』
送信ボタンを押したあと、少しだけ後悔が胸をかすめた。
でも──もう、送ってしまった。
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(※夏木玲視点)
約束の時間が近づくにつれ、玲は部屋の鏡の前でじっと自分を見つめていた。
「……ちょっと、濃いかな……いや、これくらいでいい」
そう独りごちると、リップを一度ティッシュで押さえ、再び軽く引く。チークはほんのり。アイラインは普段より少し長めに。
香水は、控えめな柑橘系。手首に一滴落とし、首筋にかすめるようになじませた。
(“友達も来る”って言ったけど……ごめん。ほんとは最初から、あんたと二人きりで話したかったんだ)
クローゼットから、落ち着いたベージュのニットと、タイトな黒のスカートを取り出す。決して派手じゃない。でも、“女としての意識”ははっきりと込めたコーディネートだった。
髪を巻き直し、整え、鏡の中の自分と目を合わせる。
「……よし。行こ」
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(※冬原ハヤト視点)
駅前のロータリーには、人通りが多く、春の風が柔らかく吹いていた。時計を見ると、約束の時間より五分前。辺りを見渡すと、すぐに玲の姿が目に入った。
(……なんか、雰囲気変わったな)
いつものカジュアルな玲じゃなかった。服装も、髪も、香りも。俺の知らない“女性らしさ”をまとっていて、どこか気恥ずかしさを感じた。
「ハヤト、こっち」
玲が軽く手を上げる。俺は小さく頷いて歩み寄った。
「ごめん、待たせた?」
「ううん、私が早く来ただけ」
玲は笑ってそう言ったあと、ふと視線を逸らした。
「……あ、そうそう。ほんとは今日、友達も来る予定だったんだけど、急にバイト入っちゃって。ドタキャン」
「そっか……」
玲は気まずそうに頭を掻いたが、その口元はどこか少しだけ笑っていた。
「でも、せっかくだし、ふたりで行こ? あんたと飲みに行くの、初めてだし」
「……うん、そうだな」
俺は頷いた。別に断る理由もない。なにより──玲のそんな顔を見るのは、久しぶりだったから。
そのまま俺たちは、駅前の細い路地を抜けて、こぢんまりとした居酒屋に入った。
暖簾をくぐると、木の香りと油の香ばしい匂いが混じった空気が流れてきた。
駅前の居酒屋に入り、玲と向かい合って座る。
照明はほどよく暗く、テーブルには小鉢と温かい湯気の立つグラスが並んでいた。
「ハヤトってさ、酒強くなったよね。昔は全然飲めなかったのに」
「そりゃ、高校の頃は飲んじゃダメだろ……」
玲がクスッと笑う。
どこか懐かしい響きだった。
お互い、最初の一杯こそ探るように飲んでいたが、会話が進むにつれて、自然と笑みがこぼれ、距離も縮まっていった。
高校の頃の思い出や、共通の知人の話で盛り上がりながら──ふと、玲の目がまっすぐ俺を見据えた。
「ねぇ……私、変わったと思う?」
不意打ちの問いかけに、一瞬言葉に詰まる。
「……うん。変わったよ。大人っぽくなったっていうか……丸くなったっていうか」
玲は、ほっとしたように笑った。
「そっか……なら、よかった」
その笑顔が、妙に胸に刺さる。
俺の知ってる“昔の玲”は、強がりで、意地っ張りで、感情のぶつけ方も不器用だった。
でも今目の前にいるのは、痛みを知った、穏やかな大人の女だった。
「……本当はね、高校とき……ハヤトのこと、すっごく好きだったんだよ」
不意に、玲がぽつりと呟いた。
「でもさ、あの頃の私は怖かった。あんたがどんどんかっこよくなってさ、他の子からチヤホヤされて……私、どうしたらいいかわかんなくて。イライラして、ぶつけることしかできなかった」
グラスの縁をなぞる指が、わずかに震えている。
「……ぶつけてごめん。本当に、後悔してる」
泣いていない。
でも、こらえているのがわかった。
その姿を見て、俺の中で何かが少しずつ崩れていった。
玲の謝罪の言葉が、胸にじんわりと染みる。
言葉に詰まっている彼女を見ていると、何も言えなくなって、ただ黙ってグラスの中の氷を揺らした。
(……こんなふうに向き合ってくれるなんて、思わなかった)
今の玲を見ていると、過去のトゲが、少しずつ丸くなっていくように感じた。
「……俺も、言っておきたいことがある」
玲が顔を上げる。目が少し赤い。
「なんか……ずるい気がして。玲が正直に気持ち話してくれてんのに、俺だけ隠し事してんのも嫌でさ」
玲は首を傾げた。「……なに?」
「一昨日、バイト先の店長の…薫さんに誘われて……飲みに行ったんだ」
玲の笑みが、ぴたりと止まる。
「……ふーん。店長さんと?」
「ああ。……で、そのあと、終電逃して……」
言葉に詰まった俺を、玲が静かに見つめている。
「……寝たの?」
小さく息を吐く。「……うん」
短い沈黙が落ちる。
玲の手がグラスをそっと置いた。
「……そっか。教えてくれて、ありがとう」
静かな声。無理に抑えたような、かすれた音だった。
「責めるつもりはないよ。そういうタイミングだったんでしょ。……私と話すより、先にそっちがあっただけ」
そう言って微笑んだ彼女の顔に、俺は何も返せなかった。
(……ごまかすこともできた。でも、玲に嘘はつきたくなかった)
それだけのことだった。
会計を済ませて店を出る頃には、春の夜風が冷たく頬をなでていた。
「……寒いね」
玲がぽつりと呟く。
「駅、こっちだっけ?」と聞きかけた俺に、玲は小さく首を振った。
「今日は……もう少しだけ話したい。うち、来る?」
一拍置いて、微笑みながらそう言った玲は、さっきまでと同じ顔をしているのに、どこか目の奥だけが深く沈んでいた。
俺は、ためらいながらも頷いた。
「……うん、行くよ」
──
玲の部屋に入った瞬間だった。
「おじゃまします」
そう言った俺の背後で、ガチャリ、とドアの鍵が閉められる音がした。
続いてチェーンロックの音。カチャン。
「玲……?」
振り向く間もなく、背中を壁に押しつけられる。玄関の狭いスペースに響く、足音と息遣い。
「……あの女と寝たって聞いてから、ずっとムカついてた」
声は低く、怒気と熱を孕んでいる。
「おい、落ち着けって──!」
「落ち着いてなんかいられるかッ!!」
玲の手が俺のシャツを掴み、そのまま体当たりのように押し倒された。
玄関の床に背中を打ちつけ、頭がぐらりと揺れる。
「やめろ玲、ここ玄関だって──!」
「関係ない!! あんたの身体、あの女に触らせたままで済ませる気?」
顔を近づけ、睨みつけながら怒鳴るように言う。
「今ここで、全部上書きしてやる……! 私の匂いで……全部塗りつぶしてやるから!!」
そのまま、彼女は唇を押し当ててきた。乱暴で、息苦しいほどに貪るようなキス。
次の瞬間、シャツのボタンが引きちぎられる音がした。
「待て、玲──っ」
「うるさい!! いいから黙ってろ……今だけは、全部私のものになれ……っ」
熱がぶつかり、押さえ込まれる。
(……ああ、もう止められない)
理性が崩れ、体が玲の熱に溺れていくのを感じた。
──
朝、目が覚めると、玲が俺を抱きしめて眠っていた。
シーツもないままのリビングの床、散らかった服。
玲の腕は、俺の体にぴたりと巻きついたまま、離れようとしない。
その顔は、どこか満たされたようで、どこか不安げでもあった。
俺は天井を見上げ、静かに息を吐いた。
(……取り返しのつかないことをしてしまった気がする)
それでも、その腕を振り払うことはできなかった。
※セッ◯スしてるところはノクターンノベルズで投稿してます




