下編
最低、下下の下の下。自分の事をそんな風に思う事だってあるかも知れません。でもそんな自分に出来る事は本当に全然無いでしょうか。道が無いのではなく、実は背を向け続けている道があるのではありませんか。大切なものを見出し、しっかりとその手に掴んでおきましょう。この小説は私がその事を言いたくて書いたものです。
「俺な、この前監督の奴が社長と相談してるのを聞いたぞ」
「何を喋ってたんだ」
「監督の野郎、現場の作業員の働き具合を全部社長に報告してやがるみたいなんだ……」
「うーん、でもまあ、監督なんだから、それはしようがないんじゃないか……」
「でもなあ、お前、あれはおかしいぜ。スコップ持って鉱石をバケットに放り込むその速さにまで順番を付けてやがるんだ」
「何だって? それはおかしいな。そんな細かい事、社長に言っても仕方ないだろうによ」
「何でも会社の業績が良くないらしくてな、社長は作業員の人減らしを考えてるらしいんだ。だから難癖付けられる奴から順番に、馘にする肚なんだろう……」
「非道え話だ。殆ど因縁付けてんじゃねえか。監督は自分の気に入った作業員だけ残そうとしてやがるんだよ、あのおべっかの野原みたいな奴だけをよ……」
「けっ」
「でも……、あの野原ってのは、本当に嫌な奴だな」
「ああ、俺もそう思うが、彼奴、また何かしたのか?」
「今度、新しく掘った竪坑から延びてる坑道の切羽、危ないかも知れんって話聞いてるだろう?」
「ああ、竪坑が深過ぎるから、換気装置が十分効かないって話だろう?」
「そうだ。そこの坑夫の募集が上手く進んでいないらしい。だから坑夫が足らん時には、上は俺達みたいな別坑道で働いてる奴等をそっちに廻す心算らしい。嫌だって言わせて、そんなら辞めろって人減らし対策も兼ねてな」
「それで」
「あの野原、監督の手先になって、その坑夫選びに手を貸してるって事だ」
「なんて野郎だ。自分だけ安泰を狙ってるのか」
「これぁ、生かしておく訳には行かんな。今度出来たその竪坑に突き落としてやらなくちゃならん……」
ずっと酒のコップを握り締めて放さず、時々箸で飯とおかずを口に運んでいる……。
が、そのうちに、最初に店に入ってきた二人組のうち一人が躊躇いがちに私の方を見ていたかと思うと、私の前にやってきた。
「兄ちゃん。悪いが、酒を一杯驕ってくれませんか。今日は、持ち合わせが無くてな……」
私はこの男の顔を直視出来なかった。場に似合わぬ敬語も気色悪かったが、身も知らぬ客に酒をねだるその無神経さと相方と話していた会話の内容の絶望的な事を思うと、もう忌まわしくて堪らなかった。『うん』と一言答える事さえもしたくなかったので、私は百円玉を何枚か投げる様に出してやった。男は二秒か三秒程その場に立っていたが、私は男の顔も見たくなかったのでどんな顔をしていたのか知らない。男は直ぐに、
「女将、もう一杯」
と酔った声をあげていた。女将は聞こえないふりをしていた。そしてまたさっさと奥に引っ込んでしまった。
私は逃げ出したくなってきた。住んでいる町から半分自棄になって汽車に乗り、やって来て入ったのがこの店か。出逢ったのがこんな連中か。そうだ。みてくれ以上に、心の方がもうぼろぼろだ。何一つ頼れるものを、いや、生き甲斐をもっていない。海月みたいに人生という波間に漂っているだけだ。意志というものが無くなって久しいのだ。可哀想といえば可哀想だ。それを否定はしない。けれども傍に居たくない、居られない。何かが伝染する。そうだ。これは確実に近くに居る人間を染めてしまう。染み付くのだ。
しかし瞬時に私に忌まわしくも冷静な反省がやってきた。でも何から、何から逃げ出せばいい。この忌まわしい、可哀想な飯屋を出て汽車に乗り、次に入った飯屋か宿屋がまたもこうでないとどうしていえる。どうしてこうでないと期待出来る。
「その、私が逃げ出したいと思っているものから、本当に私は逃げ出せるのか」
私の背筋を冷たいものが走った。見えない何かが私に話し掛けた。
「どうせ、そうなのだ。お前はもうこの連中のお仲間なんだよ。そのうちお仲間になるんじゃなくて、もう今、完全に、お仲間なんだ。その証拠を言ってやろうか。お前はこの連中を可哀想だと思うよりもずっと強く、忌まわしいと感じているだろう? だからだ。この連中はお互いに忌まわしいと感じながら、その忌まわしい連中しか話し相手が居ないものだから、それを隠してお仲間と下らん話をして残りの一生を過ごすんだ。お仲間には、お仲間しか居ないんだよ。えっ? 分かるな? 御前にこれが分からん筈がないよな?」
私は思わず、にやっと笑ってしまった。そして堪え難い、息詰まる様な気持ち悪さを覚え、吐き気を催した。
そこに、極め付けがやって来た。がこんと乱暴にドアが開いて雪が吹き込んできたかと思うと、今度は中々ドアが閉じない。何事かと思って眺めたが、ただ一人、既にべろべろに酔った男が足取りもふらふらしながら入り込んできて、カウンターの女将に向かって意味不明の醜く歪んだ笑いを浮かべ、右手で指差していた。女将は驚いた猫の様に瞬時にぴーんと身体を硬直させ、少し飛び上がった様に見えた。女将は悲鳴こそあげなかったものの、目の前で人殺しでも見た様に恐怖の表情を浮かべた。しかもその表情が全然変わらない。その顔のままで化石した如くに佇立している。やって来た男は声量こそ小さかったが、
「うひぇえぁー」
と動物の様な声を立て、ジグザグによろめきながら次第にカウンターに近付いて来る。これは私でも怖かった。人間らしい感じがしない。殆ど禿げ切っていて左右の耳に白くなった髪が僅かにへばり付いている。顱頂と耳、そして顔面の全部が赤かった。襤褸で擦り切れ、両肘とそこから下、手首までがエナメルの様にてかてか光っている物乞同然のコートを着ていて、その襟首の下から明らかに猛烈に黄ばんだカッターシャツの襟が見えていた。一見してまるで会話が通じないのも明瞭だったが、これは多分、別して不潔であるのに違いない。そしてその私の印象の通り、この男はカウンターまであと一メートルというところで盛大に失禁した。
「汚ねえな、この爺!」
労働者の男の片割が叫んだ。
「もう頭がおかしいのさ。俺達もそろそろ潮時だ。こんな店に居たって、良い事なんかありっこないさ。女将、勘定だ」
そこにまた店のドアが開いて、これは純粋に私と同じ旅行客らしい、品の良い顔と服装をした若い男女二人が入って来たが、私はそこで凄まじいものを見た。それはほんの五秒程のごく短い間に起こった、この新来の客二人の表情の変化だった。ドアを開けて入って来た瞬間、この男女は非常に善良な表情を浮かべていた。あたたかな店内で、
「ああ、これでやっと人心地がつく、有難い」
といった気持ちを満面に浮かべていた。ところが店内の様子を一瞥で察知すると、先ずまん丸に開いていた女性の目が急激に細くなった。そして雪の残るコートの袖で口元を隠したが、その下に何んな相が浮かんでいるのかは明らかだった。男性の方もまるで急に眩しい光の中に入った様に両目を細めたが、女性と違うところは眉間に物凄い皺が出来た事だ。そして善良に開いていた口は横一文字にきゅっと引き締められ、顎は力を入れてぐっと喉にくっ付けられた。手袋をしている両の掌が、瞬く間にぐっと握られた。次の瞬間男性は身体を捻り、肩で女性をドアの外に押し戻す様な仕草をした。そして女性がくるりと外の方を向くと、今度は男性が女性の背を両腕で押し、何も言わずに二人は出て行ってしまったのである。店内の人間は、獣人の爺一人を除いて、多分全員がこの一件に関する事の成り行きを見守っていたに違いない。これは真実に絶望的な事態だった。象徴的だといってよかった。まともな人間の、ここは、この店は、来るべき場所ではなかったのだ。
労働者風の男の一人が言った。
「俺は先に駅に戻ってるぜ。ああ、最低だな、この町は!」
「待てよ、自分の分の金払えよっ」
「駅で払う。ここは臭くて、汚くて、やってられん」
勘定だと言われても、女将は一歩も動けない。泥酔の動物が失禁したままカウンターの一席、私から一つ空けた場所に腰を下ろしていた。見るとまだ少し出ているらしく、小さな椅子から床に漏れている。おまけにこの男はずっと女将だけを人間とは思えないその昆虫の様な眼差しで見詰め、人差し指を向ける事を続けている。これでは女将ならずとも動く訳にはいかない。
「勘定だと言っただろう!」
労働者の怒号に、女将はカウンターから出て来て近付いて行こうとしたが、その拍子に、
「ぶっぺきっぼっ!」
と叫んで獣人が女将の腰に縋り付いた。
「きゃあああっっ!」
女将の心底恐ろしがっている様子を三秒程見ていた労働者は、
「けっ!」
と床に唾を吐き、金をテーブルの上に投げ出す様に置いて、どかどか足音を立てて店から出て行った。硬貨が何枚かテーブルから落ちてころころと床に転がったが、その全部がこの最早人間とは思えない爺が床に撒いた小便の溜っている中に入っていった。しかし私が見たところ、労働者の払った代金はどう考えても一人分のそれでしか無かった。多分あの労働者は相方がこの場に居ないのを良い事に、駅ではちゃんともう一人分の『立て替えた』飯代をその相方に請求するのだろう。
女将は絶望的な表情を浮かべていたが、軈て自分の腰に纏わり付く獣を振り解き、テーブルの上に残っている紙幣一枚と硬貨を自分のポケットへ取り込んだ。そしてもう警察沙汰以外の何ものでもないこの泥酔漢をきっと見詰めたが、悪い事にその瞬間またもやこのどうしようもない爺は女将に抱き付こうとした。
「なばーっ、やさべらっ!」
女将は今度は恐怖に圧倒されていなかったらしく、正面からこの男の腹に蹴りを一撃放って、そのまま雪と酷寒の店の外に飛び出して行ってしまった。帰って来ない。蹴り倒された半獣の爺は転んだまま、矢張指でカウンターの向こうを指差しながら意味の判らない言葉を呟いている。興奮している様子はないが、最早誰であってもこの爺の相手にはなれない。
最初に店に入って来た二人の男のうちの一人がこれ幸いとカウンターに入り込み、棚に置いてあるボトルのうちの一本を勝手に開け、取った新しいグラスの中にとくとくと注いで飲んでいる。しかもそれも極めて事務的に、無表情にやり遂げていた。躊躇或いはグラスを落として割るなどというへまが無い。実に機敏に、必要なだけ動作し、無駄無く目的を果たしている。その男の相方は酒に弱いのだろう、二杯でもう回っているらしく、とろんとした目をしていたが、暫くするとのそのそと私に近付いてきて言った。
「兄ちゃん、その、何だ……、もう一杯、飲ませてくれねえか……」
何ともいえない嫌らしい顔で、そう、譬えるなら、四分の一愛想笑いをしながら、四分の一怒りながら、四分の一情けなさそうにしながら、そして四分の一泣きながら、男は私にねだった。私は顔を背けた。
もう汽車が来ようが来るまいが、席を立たなければならない。私は懐から自分の食べたきつねうどん二杯分の金を取り出した。だが財布から取り出したその金を何処に置こう。この分ではどこに置いておいたとしても、それが女将の手に落ちる事はないだろう。そこで私は、私が取り出した紙幣を熟視している男をそのまま放っておいて、紙幣をそのまま財布に戻した。お仲間、その通りだ。私はこの忌まわしい店にこの後の人生、二度と再び来る事はないだろう。いや、この店自体が忌まわしいのではない。だが、だが……。
此処には、心の故郷までも失くした人間達が来る。私を含めてそうなのだ。心の故郷を失くして、見失って、此処に彷徨いに来る。彷徨うなら何処ででも、各々(おのおの)てんでばらばらに彷徨えば良いものを、そういう人間はそういう人間達で寄り集まらねば、そして誰かに八つ当たりしなければ生きていけないのだ。やって来て、酒を飲むやら飯を食うやら、のべつ誰かの悪口を言い立てるやらして、何処にも帰る事の出来ない不満をぶちまけている。この既に人語を解するか否か定かではない泥酔失禁動物にしても、単に程度の違いに過ぎない。まだ道半ばなのか、それとも最早行き着いてしまったのかの差、それだけだ。
そしてまた何よりこの店は結局そういう客を当て込んで開いている。凄い話だ。客も女将も、どうしてそれで生きていけるのだろう。いや、生きていけない。生きていけないまま、存在だけしている。だから客は女将に嫌われているまま、何度でもやって来る。女将は逃げ出す。そう思うと私は顔が勝手に歪んでいった。
親と喧嘩して故郷を離れ、流れてこの土地にやってきた。自分一人、何とかやっていけると思った。事実生活は成り立っている。貧相な恰好をし、貧相な食い物しか食べられないが、明日眠る場所が無い訳ではない。だがそれとは全く関係のない次元ではっきりと感じる、この寂寥の感じはどうだろう。堪えられない。到底、堪えられるものではない。堪える理由が無いからだ。私だけではない筈だ。こんなもの、人間が我慢出来る代物ではない。
故郷を離れた時、こんな淋しさがこの世にあるなどとは思ってもみなかった。誰も、自分を支える自分以外の人間をもっていない。皆が皆、真実に自分一人で立っている。立ち尽くしている。それだけなのだ。そして立ったまま、途方に暮れている。膝が折れて崩れかけている。
本当だ。女将の言う様に、此処は地の果てだ。此処から先に進む事は出来ない。人間の辿るべき地が、この先には最早無い。遠い道を辿る事が出来るのは、その先に自分の目当てが在る事を信じられるからではないか。それが無く、代わりに果てしない吹雪と命を凍らせてしまう厳氷で埋め尽くされた世界が予期された時、人はどうしてその行程に足を踏み出す事が出来ようか。この店に居た人間達が私に見せたものは、人間の全ての営みを凍らせてしまう、命の宿っていない氷ではないか。内に命の火が燃えておらず、もうその存在が身体を象った輪郭線だけになってしまった亡霊ではないか。
私は旅の初め、この豪雪の雪空の様に重苦しく未来を見通せない、両脚に絡み付く不自由さと一緒に汽車に乗った。私の心は眠ったままだった。けれどもこの店にやって来て見るべきものを見、体験すべきものを体験してみると、嘔吐を催しながらも却って私の心は清澄に澄み切っていった。私の頭脳はこれら徹底的に破滅的で一切希望の無いもの、人間が希望を抱くのをどこまでも邪魔しようとするものを前にして、不思議と静かになってきた。予感や感覚などではなく、まともにそれを見たからか。直接にそれに触れたからか。私は何に触れたのか。私が触れた忌まわしいものとは一体何だったのだ。いや、それは本当に、真実に、『忌まわしいもの』だったのか。それは善くないもののままで、私には、私に対してだけは、非常に価値あるものだったのではないか。私には何も無い。しかし、しかし、せめてまともにものを感じる感覚だけは失くしてはならない。それを無くすと、その先にあるのは……。恐ろしい。それを想うと真実に恐ろしい。
どうしよう。
私は腕時計を見た。車掌が教えてくれた待ち時間の二時間がくるまで、これだけ体験してもまだあと四十分程ある。が、その時不図、戸口のドアに貼ってある駅の発車時刻表が私の目に入った。この大雪では汽車が予定の時刻通りに走る事は無理に決まっている。実際、私が乗ってきた汽車がそうだった。だが、この分岐の駅から別の線に入って、遠いが私の故郷に向かう列車の発車までには、あと二十分……。
(了)
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