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分岐の駅  作者: 前田雅峰
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中編

 見てるだけで虫唾の走る様な人間、確かに居ますね。問題はそういう人間が一人居るだけではなく幾つも寄り集まって来る事です。これには本当に我慢が出来ません。でも、外は雪と氷で絶対に逃げられない。そんな中に閉じ込められたら人は何を想うでしょう。何を見出すのでしょう。

「で、今はもうその村は無人。廃屋が何軒か残ってるらしいんだけど、二、三年で皆潰れちゃうわ。雪の重みで、みーんなぺしゃんこよ。こんなに冬の厳しい所、土台農業なんて初めから無理なのにねえ」

 私は何も言わず、表情も一切変えずに女将の話を聴いていた。返事のしようがない。

「生きていくのは大変よねえ。何とか楽して暮らす方法は無いかしらね」

 何も言う気の無かった私であるのに、私の制御を破って返事の言葉がすらすらと口から出てしまった。

「まあ、そう苦にせず出来る仕事を見付ける事だね。それが出来たら、それが楽して暮らすって事だよ」

「そんな仕事、あたし今までに出逢った事が無い」

「俺だって無いね。でもそういう仕事がこの世に絶対に無いって、そんな事は言えんじゃないか。誰だって仕事なんて、たった幾つか経験しただけだろう?」

 女将は返事する代わりに私に振り向き、多少とも疲れた表情でにっと笑った。思えばこれが、私が滞在している間にこの店で女将が見せた一番良い表情だった。人間らしい感情が覗いた。悪いものではない。私は私の喉から胸、腹の上辺りにずっと在った、ずっと緊張し硬直していたものが溶けていく気がしていた。私は意味も無い会話を女将としたくなってきた。

「でも、開拓っていったら、今から何十年も前にやって来た人達なんだろう? 明治とか大正とかの昔に。そんな頃なんて、一体どうやって冬を過ごしてたんだろうな。今みたいに電気も通じてなかっただろうし、ガスだって無かった筈だ」

 女将は横顔でにたりと笑って、しかし矢張私の方を向かずに調理しながら返事した。

「うん、場所によっては(たし)かにそんな昔に入植した村も在るわ。でもね、ここの街の奥地の開拓地はそうじゃないの。昭和になってからなの。それも戦後なのよ。町に住んでて、戦災で家を焼かれた人達だったんだって。だから入って直ぐは大変だったけど、直ぐに電気が点く様になったって聞いたわ」

「ほー、そんなに新しい時代に開拓された土地も在るのか……」

「うん、だからあたし達が想像する様な、本当に原始的な中で生きてた訳じゃない筈よ」

「ふーん、これは一つ勉強になったな」

「でも、要するに作物が出来なかったのね、寒過ぎて。この辺りじゃ麦は絶対に無理。馬鈴薯が出来たら御の字ってところ。勿論牛舎を建てて酪農出来たら一番良いんだけど、あれは原資(もとで)が要るからね、そうそう誰にでも出来やしないのよ。借金して牧場作って、それでお金を返せずに一家でドロンなんて話は幾つかあるわ。この町にだって」

 女将の言う通り、私は自殺などする心算(つもり)はない。今も勿論そうだが、今までの人生で自殺を考えた事など、ただの一度も無かった。これまでの人生、私は絶えず不安と不満の中に生きていた。それは本当だ。運が無いといえば、私程運の無い人も少なかろう。けれども本当に運が無い人は、決してその事で人に不満を述べ立てたりしない。私はそれを知っている。それはそんな事を人前に曝け出し、陳列して観覧に供してみても、結局事態の改善の為に何の役にも立たない事を知り抜いているからだ。真実に不運な者は不平を口に出さない。その代わりに孤独を愛する様になる。そして何ともいえない、本物の無口になるのだ。そしてそうなった時、その人間の頭には自殺の二文字は決して浮かんでこない。もっと、何が何でも生きる、生きる事に執着する、そう、文字通り他人を犠牲にしても自分だけは生き延びるといった、餓鬼の様な感覚に近くなる。他人を一切信用しない事の当然の帰結、それは自分の隣で首を吊っている人間を見ても自分は自殺など絶対にせず、何が何でも生きる。生きる事の外道に堕ちるのだ。それを想うと私は身震いした。

 自分が餓鬼だと知っている人間、最早自分はまともな人間でないと知っている人間、それ以上に恐ろしいものがあろうか。私が両親の居る家を飛び出した時、その頃、私はそんな事を想像もしなかった。これは完全に私が自分一人で生き、生活する様になってから私の中に生まれてきた観念だった。昔、私は人間の基準を、現在からすれば途轍もなく高く設定していた。言い換えれば、人間の堕落の底の底というのが、現在の私に言わせればお話にならないくらい浅かった。今では私はそう思わない。人間が非道くなるのには底が無い。文字通り、底抜けなのだ。そして私はそんな事を知る、そんな事が分かる様になった自分を悲しんだ。これかも知れない。この気持ちが私の中に在ったから、だから私はこうしてこの店に来ているのかも知れない。早速此処(ここ)を逃げ出さないのかも知れない。

「で、お客さん、何処(どこ)迄行くの?」

 私は自分が妄念の夢の中に漂っているのを破られて、呆然とした様子をしていたに違いない。少し時間がかかったが、私は『天国』とか『幸せの国』とかではない、ちゃんとまともな返答をした。

「名寄迄」

「名寄? あの町に何の用事があるの?」

「何も無いんだ。言っただろ? 『適当に何処(どこ)かに行きたかっただけ』だって」

「そうだったわね。まあいいわ、自殺するんでなければ」

「別に私が自殺するのにしても、女将さんに迷惑は掛けないよ。だから心配してくれなくてもいい」

 私がそう言うと、女将はちらりと半分だけ身体を捩じってこちらを見、悲しげな表情を浮かべた。そして出来上がった二杯目のうどんを私のところに持ってきた。そして、

「お客さん、まだ若いでしょ? あたしはそんな若い人が死ぬのなんて、それだけはイヤなのよ」

と言った。そして私がうどんの方など全然見ずに女将の顔を見詰めているのに気付き、また言った。

「あたしはね、もう四十五十の人間が自殺したって、車に轢き殺されたって、別に何とも思やしません。そんな年齢の人で生きてて嬉しいって顔してる人、あたし見た事ないもの。みんな、何かに()し潰された様な顔してて、生きてるのが大変です、何とかして下さいって、そんな看板を首にかけてるみたいな人ばっかりよ。それなら早い事楽になった方が良いわよね。そう思うの。でもね、若い人や子供が死ぬのだけは嫌なの。そんな話聞いたら、もう夜眠るのが怖いのよ」

「どうして?」

「非道い夢を見るからよ。あたし死ぬのが怖いんじゃなくてね、毎晩嫌な嫌な夢を見るのが怖いの。そんな何の罪も無い子供とか、これから幸せになれるかも知れない若い人が死ぬなんて、夢の中でそんなストーリーが本当に出て来るの。そして夢の途中であたしにそのストーリーが分かってしまうのよ。それ、もう、本当に嫌。夜中にそれで目が覚めても、もう絶対にもう一度眠る事なんて出来ないわ。明け方に目が覚めても、今度は起き上がる事が出来ない」

 私は直ぐに二杯目のうどんを食べ始める事が出来なかった。何だか女将の言葉が深く胸に刺さった感じがしたからだ。夢。そうだ、夢は怖い。私も夢に幾度も苦しめられた。私は自分の中で問答した。

「そうだな。若しも私が死ぬなら、そんなにじたばたしないだろう。そこまで希望があって執着をもつ事の出来る人生じゃない。でも小さな子供やまだ若い奴が死ぬのは我慢出来ないな」

「そうだ。でも御前はここで何をするともなく、名寄に行っても何をするでもなく、いや、毎日働いて住んでいる町でも仕事以外に何をするでもなく、感じる事もなく、ただ毎日蟻か蜂みたいに働いて、そして休みの日には近い場所を歩きに行くだけだ。それは死んでるのと何が違う? 何も違いはしない。生きたまま、死んでるんだ」

「でも、何をしたら良い? それが無い。毎日喰っていく為にする事は山程ある。知っている。だが、生きたまま死んでる様にならない為にする仕事は、私が生きる為の仕事は、一体何を、どうやって……」

「私は女将を何となく可哀想には思う。けれども何をしてやれる訳でもない。それに、それに……、何となくだが、この女将には不自然なところがある。優しい様でいて、でも、それでもどこかが変だ。何が変なのか判らないが、近くに居たくはない……、そんな感じがする」

 突然、

「のびるから、早く食べてよ」

と、女将が言った。だから私は二杯目のきつねうどんを食べ始めた。すると女将は先程とは違った顔と声で喋り出した。顔の方は『先程とは違った顔』としか表現出来ない。だが、声の方はもっと簡単に違いを言い表す事が出来る。もっと、ずっと低い声だった。私は慄然とした。何故だか判らない。表情と声の変化だけで、私は何を感じ取ったのだろうか。それが全然判らないまま、私は座っているのに軽く膝が震え始めた。

「あたしねえ、こんな土地に来て、こんな商売するなんて、露程も想像してなかったわ。あたしは札幌の生まれで、これでも結構な家のお嬢さんだったの。でもね、父親が会社で失敗して、それで駄目になったの。父親は全然優しい人じゃなかったけど、それでもあたしはまだ二十歳前だったから、父親に構ってもらいたかった。弟もそうだったと思う。でも父親は債権者から逃げる為に何処(どこ)か道北の田舎の方に行くと言って出て行ったきり、連絡無し。そして直ぐに母とあたしと弟の三人が暮らしてた家から、あたし達は債権者に追い出されたの。後はお決まり。母が働いてくれたけど、直ぐに身体を壊して駄目になり、あたしは弟と自分の為に働いた。幸い弟は高校を出て、旭川でちゃんと働いて暮らしてるわ。でも、最近、あたしに冷たいのよ。長いこと、支えてあげたのに。きっと女を見付けたんだわ……」

「それにね、あたしにだって良い人が居るには居たのよ。でもその(ひと)は会社の都合で滝川から離れる事が出来なかったの。あたし達が札幌を追い出された時、あたし滝川で働きたいって母に言ったんだけど、母が旭川に親戚がやってる工場が在ってそこで働いてほしい、あたしに一緒に旭川に住んでもらいたいって、そう言うもんだから……。それで結局会う事も出来なくなって、自然にお別れ……。どうしようもないものね、本当に」

 私は胸が痛くなってきた。断っておくが、別に女将が私に向かって勝手にべらべらと喋り出した、この絵に描いた様な不幸に同情したためではない。私はこの年齢にして既に、もっともっと深刻で悲劇的な人生の荒海に放り込まれた人間達を知っている。海辺の村でも山村のそれにでも行ってみるがいい。そんな悲劇は車に積み枡で量る程ある。私がその場に猛烈に居辛くなってきたのは、女将が私という人間の置かれている状況を勝手に設定し、それを前提に喋り出したからだ。女将は、私という人間を間違えたのだ。ただ雪で汽車が動かなくなってうどんを食べにやって来ただけの私に女将がべらべらと本気で身上話を始めた、もう私は限界、これでいっぱいいっぱい、今にも奔流が堰を切って溢れ出ますといわんばかりの言動をとった事、(たし)かにそれは悲劇的だ。しかし悪いが私は女将を気遣ってあげる立場にない。その気も起こらない。可哀想ではあるが、それとこれとは違う。私も人生を見失っていたからだ。だから到底女将を本気で可哀想だとは思えなかった。

 女将は忘れていた。いや、故意に見ない様にしていた。私も女将と何も違わないという事を。女将は自分同様道を見失っている人間であるこの私に、自分の不幸を分かってくれ理解してくれとうったえ続け、同情を求めていた。実に切々と。私はそれがつらかった。私はもう二杯目のうどんを食べ終えていたので、少しだけ余分の金を払って出て行こうとした。すると突然、店のドアが開いて客が入ってきた。

「ふーーーっ、何だ、女将、こんな日も店を開けてるのか。感心だな」

 客は二人連れの、地元の人間らしい風体だった。二人共もう壮年というよりは老人らしい雰囲気の人間だった。だが私は女将の顔を見た時、震え上がった。その時の女将の顔には人間が浮かべる事の出来る最大の軽蔑と嫌悪が見えていたからだ。

「いつもの、頼む」

「俺もだ」

 女将は客達に一声もかけず無言で私の前を離れ、カウンタの奥に入っていった。中々出て来ない。そのうち『どすっ』と、何かしらそれなりの重量のあるものを投げ付けた感じの衝撃が床から伝わってきた。女将は余程この二人連れの客が嫌いらしい。そして遂に出て来た女将は眉を寄せ口をへの字にし、少し中空を睨む様にしてウイスキーらしいグラスをどんっと二人の前に置いた。途端に二人は喋り始めた。

「ああ、せめて女房でも居たらなあ、働く意味もあるってもんだろうがな……」

 隣の男が不自然に陽気な表情を浮かべて、そしてこれも不自然に大きな声で言った。

「ない、ない、そんなもの居てみろ、酒の一杯も飲めないぞ。余計に金がかかるだけだ」

「でもよ、女房が居たら、それはそれで張り合いってものがあるだろう? 子供だってもし居たらよ、元気も出ようってもんじゃないか。なっ、そうだろう?」

 話し相手の男は呆れた様な顔をして言った。

「お前な、そんな、どっか良い会社に勤めている人間みたいな、人並な夢をもつもんじゃねえ。俺達が人並か? えっ? 下手したら一週間先だって見えんじゃないか。一年先に()うなってるか、そんな事誰にも判りゃしねえ。だのに、手の届かない夢なんか見てるんじゃねえよ」

「…………」

「身分が違うのよ、身分が。お前もそろそろ弁えた方が良いな。悪い事は言わねえよ」

 そして二人揃って溜息を吐いたかと思うと、何処(どこ)を見ているとも判らぬ呆けた表情をして、今度は金の話をし始めた。女将は、関わらない様にしようとしているのが丸見えだった。この二人の地元客らしいのにしても、ここまで女将にひどい扱いを受けているなら来ないが良かろうと思うが、こんな田舎町だ、おおかた他にそれらしい店も無いのだろう。仕方なく来ているのに違いない。

 更に店のドアが開いた。今度は明らかに労働者風の男がこれも二人、店に入ってきた。

「いらっしゃいませー」

 どうやらこれは地元の人間ではないらしい。私と同じ様に、この吹雪で足止めを喰った列車組なのかも知れない。

「何でもいいから、飯と酒を頼む。二人共だ」

「はいー」

 女将は寧ろ喜んでいる様子で調理を始めた。二人の労働者は、テーブルに差し向かいで座り、石炭ストーブに両脚を向けて炙りながら、不満げな顔付きで話していた。


(下編に続く)

 ブログには他の手紙や小説も掲載しています。(毎日更新)

http://maeda-gaho.blog.jp/

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