高井伸一 前半
早朝のニュースで標的2の作戦が成功したのを知った日、一週間後が標的3の出所日に決まった。麗華はその日までいつも通りの日々を送った。昼夜逆転のコンビニバイトの日々である。
彼女は接触事故を自ら起こし、その派生で人ひとりを死に至らしめるという行為はバイク事故演出より精神的にダメージを負うと思っていた。しかしその心配は余所に意外にも彼女の心は晴れ晴れとしていた。
人見知りで引っ込み思案、基本いじめられっ子だった麗華が精神的なものだけで肉体的な被害を全く受けなかったのは、通学先が重なることがなかった兄が在学時に築いた威光が効いていた。何かあれば奴の兄が出張ってくる、まことしやかに囁かれる噂が常に麗華を最後の一線で守っていた。進学先が異なった高校では入学時に警官の制服で保護者として同伴した兄がやはり抑止力となった。
兄の庇護下で隠れるように生きてきた麗華は固い決意を持っていたが、まさか自分がここまで復讐の鬼として全く良心の呵責も後悔もなく覚醒できるとは思っていなかった。
標的3は麗華が従来思い抱いていたやくざ者の典型だった。先の懲役刑も再犯であったこともあり想定はしていたが、日々の堅気への暴力行為は当たり前、それをかざしての恐喝、女性の風俗落としとやりたい放題だ。当然多くは刑法で裁ける案件なのだが、大した刑に問えないと厳重注意で流す警官や、賄賂で見逃す場合もあるようだった。
今までのふたりはやっていること自体はやくざチンピラではあったが、曜日のサイクルを守っている不思議な存在だった。年齢や立ち振る舞いを正せば裕福でチャラい大学生に見えなくもない。それゆえ計画自体は立て易かったし成功の大きな要因になっていた。
標的3は文字通り無軌道である。行きつけの店が休日なら激怒し看板を破壊し、気が向けば公営ギャンブルの開催地に出向き大金を摩る。その帰り道で周りに当たり散らすまでがお約束である。バー経営の情婦宅に丸一日しけ込むこともある。そんな日は臨時休業の札は標的3の手下が掛けに行っているようだ。
標的3の観察は半年使く時間を要した。彼は本能や欲望の赴くまま行動をしているのか、緻密な計画の上にはめると言う今までの手段が全く通用しない様な気がしていた。今までのふたりの比べて単独行動の機会が多いように見受けられたので、通り魔的殺人で自ら手を下すことすら頭をもたげたくらいだ。
結局行動監視を始めた当初、真っ先に思い付いた情婦の経営するバーでの毒殺で実行することに落ち着いた。尾行を始めて一ヶ月程度で出ていた案に、それ以降数か月調査をしたのに戻るのは時間を無駄にした気がしないでもないが、それだけ難儀な標的なのだと自ら言い聞かせての決断だった。
情婦のバーは多分麗華の年頃の客層にも受けそうな小洒落た雰囲気を醸し出している。酒も手頃な価格から高級品まで。バーではママと呼ばれている情婦が一人で切り盛りをしているのでカクテルを作るのも彼女だ。その腕は平均以上のようで総合的に判断しても客足の少なさは異様だ。その空き具合を不思議に思う初来店者が理由をスマートフォンに求めると多くが踵を返すこととなる。妖艶なママ、落ち着いた雰囲気、美味しいカクテルなど☆4口コミに混じって粗野な常連が台無しにしているなど、明らかに標的3と鉢合わせが理由だろう☆1以下の評価が散見される。
麗華は変装を駆使して毎回初来店を装いママと雑談したことがある。標的3は無利子で資金融資をしてくれているし、繁盛や利益追求より気に入ったインテリアと音楽で作った理想の店でのんびり過ごすのが好きなので、標的3はいい感じで客を間引いてくれるありがたい存在でもある、とのことだった。
実際後追いと想定外の来店の二度麗華は店内で標的3に遭遇している。特に前者はママとの雑談中だったため肝を冷やしたが、話相手を取られて以降静かに酒を嗜んでいる分には問題行動は起こさなかった。もっとも双方とも冴えないOL風、背伸びした大学生風と共に女性の姿だったのが幸いした可能性も排除してはいないが。
実行場所を決めて以降、麗華は手札を着実に集めていた。前時代臭のする裏口はそのドアノブの同型の物を購入し付属のカギを削り出して合鍵を作製。バーを中心に半径200メートル程度の防犯カメラの設置状況とその性能の把握。来店と逃走が必要な場合の経路を代替案含め4通り構築、実際深夜に侵入し防犯対策やバックヤードの配置などの把握、そして混入毒物の精製。後はいつも通り痕跡を残さないための靴と手袋などの準備。
ひとつ気になるのが標的3は酒類は好きなようだがあまり耐性が強くないということだ。普段は高級ウイスキーを水割りで飲んでいるが、味覚に感知されず、致死量を含ませることが難しい点である。無論味見などできないので様々な情報を勘案しての配合量となる。無味無臭を理想とした毒物選択は刺激味無臭の物質となった。そもそも複数の素材を合成して作っている。手元にあるその粉末状にした物質が正しく目的の物へ化学変化したかすら確かめていない。冷静に考えれば金魚など安いペットや野良猫にでも盛って致死性を確認すべきなのだろうが、麗華の思考は死ぬべきは標的の八人だけでそれ以外を害すると言う選択肢には思い至らないのだ。
麗華は標的3の後追いでバーを訪れた。彼はギャンブルで勝った時に必ずそこを訪れる。昨今は負け続きだったため決意後かなり待たされたが、やっと最終確認ができることとなった。標的3のギャンブルの勝敗は後ろ姿で簡単に判別できる。明らかに足取りが違うので連日の尾行はそれぞれ賭場を去る時点で終了となっていた。久しぶりな長丁場の調査に身が引き締まっていた。
今回の設定は冴えない男子大学生がネットに頼らない洒落たデートコースの開拓だ。女性客として訪れたら無難な標的3が男性客にどう反応するか見たかったのだ。ここに来て冒険を犯す意味があるとは思っていなかったが、違う環境下で新たな情報が得られるかもしれないと言う観点での判断だった。
設定に見合った服装に着替えて麗華がバーを訪れると標的3とママがカウンターを挟んで対面でいい雰囲気を醸し出している。入店した麗華を標的3は一瞥すると舌打ちしてあからさまに不機嫌な表情をした。
「これ、お願いします」
麗華はメニューの以前飲んだことのあるカクテルを指して低い声でママに伝えた。
「はい。ここは初めて?」
ママは麗華に背を向けて準備を始めながら訪ねた。
「はい、彼女とのデートの下見を。ネットであまり紹介されてないけど洒落たお店をさがしてて」
麗華はそう応えながらチラチラ周りを見配してスマートフォンに文字を打ち込んでいる。立派に挙動不審の陰キャを演じている。
「はいどうぞ。ねえ高井さん、この子デートコースの下見ですって」
ママはカクテル静かに麗華の前に滑らせるとそう言いながら標的3の相手に戻っていった。
「そうかそうか。どうだここは、雰囲気のいい店だろう」
標的3は席を寄せては来なかったが上機嫌で声を荒げた。入店時に見せた顔とはまるで別人のように破顔していた。標的3が元なる悪評はママに色目を使わない限り発生しないのかも知れないと麗華は安堵した。その後もママとの談笑の合間にしばしば話を振ってきたが、設定したキャラのお陰でキョドりながら相槌を打つだけで難なく乗り越えられた。視線を標的3に不自然さもなく向けられたのも幸運だった。目の前に置かれているウィスキーのボトル、その残量の確認。元々客が少ないせいか、ずらりと並ぶボトルにキープの名札が付いているものがない。既に普段置いている位置や銘柄は押さえているが、水割り数杯で致死量を摂取できる程度に劇物を混入する予定のボトルである。ミスは絶対あってはならない。
麗華はお勧めを訊いてそれを二杯目として注文した。ふたりの視線に注意しながら一杯目グラスの指紋を拭き取るのを怠らない。
麗華はアルコールに強かった。実際は限界まで飲んだことがないので許容量自体を把握しているわけではないが、保健関係の機関が推奨する一日の量の倍程度では吐くことも意識が飛ぶこともない。となりで頻繁に水を飲みながら、そしてトイレにも行く標的3と飲み比べたら多分余裕で勝てるだろう。
「おいなんだこれは」
そろそろ撤収を考えていた麗華の耳に標的3の怒声が飛び込んできた。
「え、ごめんなさい。そういえば苦手だったわね」
ママがおどおどしながら標的3に供された皿を下げていた。
「苦手なんかじゃねぇ。毒なんだよ」
若干落ち着きを取り戻した標的3は不機嫌さを残しつつも音量を下げて応えた。麗華はその毒と言う単語にすぐ反応した。ママが下げている皿、サラダが盛られているようだがエビのが載っているのが見て取れる。
『甲殻類アレルギーか』
この瞬間をもって緻密に積み上げた作戦はすべて破棄することとなった。今、この時に実行する計画を早急に練り始めた。
元々毒殺は苦渋の選択だった。今の警察機構なら死因のそれを発見するのは難しくないだろうし、状況を見れば明らかに他殺だ。容疑者筆頭はまずママが挙がるだろうが、何をどうひっくり返しても彼女を実行犯に仕立てるのは無理だろう。標的3自体はいろいろな場所で悪意を持たれているだろうから怨恨の線の容疑者は結構な数に上るだろうが、全く形跡を残さず実行できそうな知能犯が含まれているだろうか。
今までの件で全て事故死を装ったのは警察に追及されるのを回避するためだ。他殺となれば時効はないし調べる方も例え被害者が反社であっても威信が掛かってくる。捜査範囲が広がれば麗華までその手が伸びるのも想像に難くない。例えこの件で犯人認定されずとも、まだ標的は半分以上残っている。次への重すぎる足枷になるだろう。
そこに事故死を装えるネタを標的が自ら暴露してくれたのだ。何と言う僥倖。麗華は現在自分が根暗学生を演じているこを危うく忘れて素に戻るところだった。
麗華はアナフィラキシーショックに対する知識は軽くかじった程度にしか知らない。それでもその僅かな記憶を辿って出来得る手段を数分で頭に思い描いた。
目の前にある三杯目のカクテルグラスの指紋は拭き取り済み。半分以上残っているのでまだ滞在することを示している。ふたりの目を盗んでカウンターなど指紋が残っていそうな場所も同様だ。入店の際のドアノブはシャツの袖を使って握っている。もしかしたら毛髪の類が落ちているかも知れないが、それは破棄した作戦でもあった危険性だ。特に気にはしなかった。彼女は既にビニールの手袋を身に着けている。多分事故死現場として検証が入るだろうこのバー。他に若い男がいたと証言するだろうママ、しかしその形跡は一切ない。警察はその謎の男と、データベースにない指紋が残る第三者の男性客なら、当然前者に事件性を見出す可能性があるだろう。それでも麗華は指紋が警察にわたることの回避を優先した。事故性を最大限強調すれば謎の男にかまける暇はないと踏んだのだ。
「ちょっとトーイーレ」
標的3が麗華が見ている間で三回目のトイレへと席を立った。カウンター向こうには下げたサラダが辛うじて見えている。ママの視線を注視しつつ、標的3側の奥、トイレの扉が閉まりきる前に麗華は腰を上げた。
「ごめんなさい、わたしもちょっと」
ママの振り返るきっかけを察知した麗華はだるまさんが転んだ風味に落ち着いて座っている姿勢に戻していた。
「あ、はいどうぞ」
若干の動揺があったのか、あ、の発音で女性の地声が出たがすぐに修正できた。今日演じているキャラなら特に不自然には聞こえないだろう。短慮で決めた今日のキャラ設定は絶妙にマッチしていた。
麗華は音を立てず立ち上がり、身を乗り出しで茹でエビを一本だけ取り上げる。全く来客がないバーではあるが、もし目撃されたらつまみ食いをしていると悪びれる予定だ。幸いそんな事態も起きず凶器は無事麗華の手に収まった。サラダボウルはよく見ると豪勢でふんだんにエビが使われていた。一切れなくなっている程度の差異は気付きにくいだろう。彼女は尻尾を掴んで身を標的3のグラスに浸す。その後尻尾を取り水割りを含んだエビをそのグラスの上で思い切り握りつぶす。垂れる汁は数滴だと思っていたが1㏄に迫るような勢いで小指の隙間から零れ落ちた。甲殻類と言うくらいだから殻っぽい尻尾も一緒に潰すべきと事前には考えたが、握りつぶした破片がグラスに混入する可能性を考慮して既にポケットの中に廃棄済みだ。
その握った手の人差し指でグラスの中の氷をかき混ぜ、指紋を拭いたハンカチの中にエビの残骸を収め、両手のビニール手袋をきれいに拭う。ハンカチを尻尾と同じポケットに突っ込んで任務終了である。標的3もママも戻ってくるまで約1分の猶予があった。その間麗華は軽く深呼吸をし、高まった動悸を抑えて何もなかった風を装いつつグラスに口を付けた。