石橋義郎 前半
石橋義郎は恵まれない環境で育った割には挫折と言うものをあまり味わってこなかった。学校で普通に授業を受けていれば成績は常にクラスで五指に入り、その気になれば学年で五指に入るのも難ではなかった。目鼻立ちも整っており運動もそつなくこなす、性格は作っている部分が多いがそれでも近い人間に明るいと評される状態を続けるのに苦はなかった。小中高の彼を知る多くの人は石橋義郎を典型的なリア充だと答えるだろう。事実汚職事件で企業をクビになったとき、昔を知る人としてワイドショーのインタビューに出てきた人は皆まさかあの人が、との感想を述べていた。
実際は高校三年の頃から彼の人生は歪み始めていた。きっかけは生活費をきちんと納めてはいるものの酒乱とDV傾向の父親が癌で急死、その暴力の被害者として寄り添っていたはずの母親はタガが外れ今度は我が子を虐待する側になった。もっとも高三ともなれば極端に内向的でもない限り生活する手段は何とか確保できる。次は母親を避けるため彼女の家に入り浸っていたせいもありその子を妊娠させてしまう。その発覚で彼女の父親に半殺しとまでは行かないものの、トラウマを植え付けられるほどの暴行を受けた。幸いと言っていいのか、泣きついた先の母親が示談からの慰謝料や堕胎手術代など金銭問題は全て解決してくれた。彼女の前でその父親にボコボコに蹴られていた時はもう人生が終わるのではないかとさえ思っていたところ、絶縁の確約と金銭であっさり丸く収まった。この体験が彼に適当に生きていても何とかなるものだという誤った価値観を定着させた。金の出所である父親の保険金が9桁に届いている事実を知ったのも大きかった。
それとは別に教育費の貯蓄もあり、特に悪評が立たないまま高校を卒業、一流と言われる大学に進学する。彼はそこでも三人妊娠させ堕胎させている。それでも普段の明るい性格から立つ悪評はきっとモテ男に対する非モテによる印象操作の虚偽だろうと流され、彼の立ち位置は変わらなかった。
表面上とんとん拍子で進む彼の人生は一流企業での汚職発覚で急減速する。持ち前の作った明るさから社内外での人脈が築けた結果実行、隠匿できた購入機器の口利き、車内備品の横流し売却などがその人脈の裏切りにより発覚する。会社側もそれと同時に露見した談合事件の責任も全て石橋の責任として処理しようとした。
自分で蒔いた種の責任を取らされるのはともかく、他の悪事の責任を取らされるのはたまったものではない。その旨の直訴に上司にしたところ、経営責任者や重役が並ぶ席を設けられた。
そこでの提案はこうだった。会社側の主張を肯定し、懲戒免職を受け入れれば告訴の類はしない。損失補填があったと発表するが石橋側からの金は不要、社の裏金で処理する。表面上退職金は出せないが、特別支援金名目で早期退社の場合に準じる金銭を払う。以降この件に関する全ての口外を禁止。
石橋は今後履歴書に記載すべき懲戒免職と言う文字に結構な破壊力があることは知っている。それでも汚職で蓄えた金、裁判沙汰の回避、全く想定外の退職金とくれば適当に生きていれば何とかなる、の精神が黙っていない。いかにも渋々といった表情を作りつつもその提案を飲んだ。後に小耳に挟んだところによると、談合は創業者に繋がる血縁幹部が指揮をしていたらしく、彼だけは何としても守らねばならなかったらしい。他社も絡み、既に検察が段ボール箱をいくつも運び出す報道が流れていた案件で偽装ができるのか疑問は残ったのだが。
かくして石橋は30手前にして早期引退可能な資産が出来上がったのだ。端場武組へは常連となったキャバクラがその庇護下にあったことで人脈ができ、そのバッジを貰うこととなっていた。
「どどど、どいてください、だってさ~」
「ぎゃははは」
金曜日深夜、石橋とボディーガード、三人のキャバ嬢がいつものプラットホームで一般人をからかって大笑いしている。
「ホント、何が楽しくて生きてんのかねぇ」
石橋がプレミアムビールのロング缶をあおりながら言った。
「だよねぇ。人生楽しまなきゃ」
金払いのいい石橋には店の上位人気がいつも付いてくる。きつめな化粧の美人は二人は毛皮、もう一人は革のコートに毛皮のファー。その裾から三人とも綺麗な足が伸びている。その先のハイヒールも見る人が見たら垂涎もののブランド品だ。ふたりは石橋に、もう一人はボディーガードに体を預けながらそれぞれ好みの酒を飲んでいた。
「次が最後かな」
この悪趣味な遊戯は元々キャバ嬢の一人がこの人並みに突き飛ばされてヒールを折ったことに端を発している。その嬢はただ単に新しいヒールをねだるつもりだったのだが、石橋が格好いいところを見せようと犯人捜しを提案。当然見つかるはずもなくその悪意をその時間帯の乗客全てに向けると言う愚行に至ったのである。終電で帰る一行が遊べる人波は次に来る一本手前でお開きとなる。
「ねえ、うちに泊まっていかないの?」
石橋に寄り添っているキャバ嬢が人差し指で彼の胸を押しながら甘えた声で言った。
「うちの組長は厳しくてな。こう見えてもムショ帰りなんだぜ」
そう誇らしげに言うと石橋はゲラゲラ笑った。
「出所後一年は禊の意味で自由時間が制限されてるんだよ。来年になったら、な」
石橋は甘えるキャバ嬢にディープキスした。
「あ、ずるーい。あーしはー?」
もう片方が拗ねた口調で石橋に詰め寄る。
「わかってるわかってる、まとめて面倒見てやるよ」
深夜のプラットフォームに石破氏の下品な笑い声が響いている。そこには彼ら以外に乗客はおろか、駅員の一人もいないのだが。
「先週のホームドアのおっさん、面白かったよね」
石橋に右側にいるキャバ嬢がけらけらと笑いながら言った。
「なにそれ、あーし先週お呼ばれしてないんですけどー」
左キャバ嬢が頬を膨らませ可愛さをアピールしつつ尋ねた。
「バシさんがね、ホームドアの壁に座ってたの。そしたら急いだおっさんがバシさんの足に触ってさー」
「そうそう、んで突き落とすつもりか、殺人未遂の現行犯だ、警察呼べって俺が言ったら」
右キャバ嬢の言葉尻に石橋が説明を付け加えた。
「即土下座したよね、あのおっさん」
右キャバ嬢が腹を抱えて笑い出した。
「で、医者料はどれくらい搾り取ったの?」
左キャバ嬢が訪ねた。
「ダメダメ、あれ見てみ」
石橋は親指で天井を指した。その先には監視カメラがゆっくり首を回している。
「多分あのおっさんも知っててやったんだと思うけど、こちらから下手に手を出したりカツアゲなんかしたらしょっ引かれるのはこっちだからね」
石橋は全てを見透かした有能な指揮官のように振舞った。
「この愉快な遊び場を使い続けるにはこの程度の圧が丁度いいんだよ」
そう言うと石橋はいつもやっているようにひょいとホームドア設置用の壁に腰かけて見せた。180センチ近い身長のお陰もあるが、並の跳躍力では届かないところに腰を一発で載せるのは彼の身体能力の高さもあってのことだった。
「でも、それ危ないから止めた方がいいよ」
ボディガードに寄り添っているキャバ嬢が大人しめの口調でたしなめた。
「大丈夫大丈夫、電車が来る前には降りるよ」
「邪魔」
話の輪の外から野太い声が聞こえた。それと同時にボディーガードがよろめきホームドア方面に倒れかけた。
「あ」
ボディーガード以外のキャバ嬢三人が口を揃えた。転倒回避のため支えを手探りした結果、ボディーガードは石橋を突き落とす形で立位を保っていたのだ。
「石橋さん」
ボディーガードが身を乗り出して線路上を確認すると同時にカーブを終えて駅での停車に向けて減速している電車のライトが目に飛び込んできた。
「石橋さん、下、ホーム下か向こう、向こうの線路、早く退避してください」
ボディーガードはライトに照らされている石橋に大声で呼びかけた。キャバ嬢三人は突然の出来事に完全に凍り付いている。電車の運転手も進行方向の異物に気付いたのか、電車は急ブレーキをかけたよう音と挙動を示した。
「石橋さん」
電車がホームに入るギリギリまでボディーガードは叫び続けた。石橋の顔は電車の進行方向を向いて倒れているので後頭部が照らされているだけで表情も見えなければ微動だにしない。
ギギギギギ
電車はぎくしゃくしながら所定位置から5メートルほど後ろで止まった。その後微速で位置調整してドアがぴったり重なる位置に動いた。ドアが開くといつも通り時間帯にそぐわない人数が一斉に降りてくる。ボディーガードはずっと石橋を呼んでいる。キャバ嬢三人はその背中にすがり付いている。
「お前ら邪魔だ、駅員呼んで来い」
ボディーガードは傍若無人にわめきたてるが目立つ背格好、迷惑行為を目撃したことがある人の方が多い乗り換え客、誰もが小走りに面倒事を避けるように逃げて行った。