西田翔太朗 後半
翔太朗は恵まれている。それは自他ともに認めるところだがそれに感謝をしたことはほとんどなかった。乗っているバイクは父親が一括で買ってくれた。二浪して入った地元の微妙な大学の卒論は父親が賄賂を掴ませてゼミの助手がAI論文に手を加えて体裁を整えた。今は指定暴力団花畑組の構成員を自認しているが、公には数度しか出社していない祖父が興した会社の係長と言うことになっている。組に入った日が浅い割に固定の舎弟を四人引き連れているのは毎月振り込まれるその給料でいろいろと振舞えるところが大きい。
人生で唯一感じた絶体絶命の危機は大学時代にバイクで走行中、地元暴走族に絡まれて袋叩きにあった事件だった。その仲裁に入ってくれたのが端場武組の幹部だった。他人の目から見たら助かりたければ金を持ってこいと言ういかにもな恐喝だったのだが、全治一ヶ月相当の負傷を受けた状態ではその条件を出すヤクザが救世主のように見えたのである。元来金に困窮したことのない翔太朗は二つ返事でその条件を飲み、全快した後に端場武組の門を叩くことになったのだ。
先日新調したタイヤのお陰か、この日の翔太朗は快調にバイクを走らせていた。いつもならリアが滑る前兆を感じるスロットル開度は前輪が持ち上がるような兆しへ、コーナーのアプローチのブレーキも地面に吸い付くような感触でいくつかの縁石にスプレー缶で違法に付けたブレーキングポイントマークのタイミングでは減速しすぎてしまうほどだった。
「もうちょっと突っ込んでみるか」
プロのレーサーでもないライダーのもうちょっとがどの程度調整が効くかは当人も承知の上だが、翔太朗とにかくかつてないほどしっかり乗れている感触があった。
バイクは俗に言う走り屋仕様のチューニングが施されているが、走行性能と全く関係のないチューン、深夜の峠道用として小さなスポットライトを四つ後付けしている。グリップエンドにほぼ真横から前方を照らすもの、フロントカウル外側にそれより前の左右を照らすもの。もし対向車が居たら異様な速さで動く巨大な光源と映っただろう。特にグリップエンド設置のライトは縁石のマーキングを見つけるのにとても有効だった。視線は常に遠方にが基本だが、そのお陰で視界の端にいい感じで毎度マーキングが飛び込んでくるのだ
「あれ?」
今日何度か見たマーキングに今までなかった泥が付いているのに気付いた。麗華が作業中に付けたものだ。彼女はそれを道路工事の際に使ったものだと思っていて翔太朗の視線が配られるものだとは思っていなかった。
いつもより気持ち遅めにしようとしていたブレーキング、今日何度か見たものとの際に気付いて一瞬気がそがれ、新調したタイヤによる普段より速い侵入速度。軽いパニックを起こし翔太朗は初動で思い切りフロントブレーキを握った。しかし今までのような減速Gを感じない。それでもコーナーは迫ってくる。とにかく車体を傾けないと崖下に一直線である。
ドシャ、シャリシャリシャリ…ガシャン、ドサ
麗華は眼前で想定通りの事故が起きるのを見届けた。コーナー手前で転倒したバイクはライダー共々アスファルトの上を滑っていきガードレールを突き破って崖下へと姿を消した。思っていたより発生した音が小さくあっけなさすら感じた。麗華はすぐに道路へ降り、バイクの行方を追った。恐る恐る突き破れたガードレールから身を乗り出すと、バイクはコーナーを折り返した下の峠道付近まで落下していた。エンジンはかかったままらしくアイドリング音を立てたままヘッドライトが地面を照らしている。標的はそれよりかなり上、標高にして10メートル程度落ちていた。直径30センチ程度の幹の樹木に引っ掛かっている。ビルから投身で10メートルと言えばまず致命傷だろうが、ここは峠道の斜面。多くの木や枝がクッションになって標的を守っているかもしれない。念のために持ってきていたオペラグラスをバックパックから取り出し標的を観察してみる。暗視機能はないものの、月明かりに照らされたそれは首と大腿部の二か所から間欠泉のように血を噴き出していた。到着しない始点側の舎弟たちが異変に気付いてやってくるまでおよそ20分、標的を上に引き上げるか、下側の道に降ろすか、とにかく回収するのに30分、発見と同時に緊急通報と回収後に救急車かドクターヘリのアクセス地点までワンボックスを飛ばしてどれくらいかかるだろうか。麗華は例え今現在一命をとりとめていても失血死は免れないだろうと確信した。
「ふーっ」
麗華は大きく深呼吸し、天を仰いだ。到着時にはほぼ直上付近にあった月はもうかなり傾いている。彼女はゆっくりと元居た場所へと歩きだした。念のため足跡が明確に残る数少ない泥の足跡を払いながら山の中に分け入る。水を入れていた袋に両足を突っ込んで口を閉じる。軟弱な地面が多いため気休め程度にしかならないが、それでも足跡が残るのを極力防ぐ。そこから森をかき分け斜度30度ほどの木々の中を進む。20分ほど人が通った跡を残さないように進むとパーキングエリアに着く。バイパスの山頂付近のトイレに街頭があるだけの休憩所だ。下準備のため何度も通ったなじみの場所だ。普通なら二輪用駐車スペースに軽二輪を停めるのだが、さすがに人影のない場所にポツンと実働車が放置されているとイタズラに遭遇する危険も考えられる。軽二輪はトイレの裏の、さらに奥、木の陰に適当に折った枝で偽装して停めておいた。幸い他人に発見された形跡はなかった。念のため見晴らしのいい展望台もどきの高台に上り、再度オペラグラスで事故地点を見下ろしてみる。事故発生から45分は過ぎている。ワンボックスらしいヘッドライトが停まっているのが見える。声は全く聞こえないがその照らす先に人影が右往左往する様子は見て取れる。もう大丈夫だろう、麗華は泥が付いたままのゴミ袋を構わずバックパックに詰め帰り支度に取り掛かった。
パーキングエリアに戻ってから軽二輪を引っ張りだすまで、面するバイパスに車両は一切通らない。ほの暗いオレンジ色の街灯の元、忘れ物は元より滞在の形跡を極力排していることを確認し、ゆっくりと帰路に就いた。
その道中もぬかりない。明らかに遠回りな経路、最初に寄ったコンビニは広い駐車場で防犯カメラの死角に駐車、未使用の分も込みでガス抜きを終えた急冷材缶に携帯ナイフで穴をあけ、分別区分が違うのを申し訳なく思いつつ空き缶入れに投入、その他に職務質問に遭遇した場合、不審に思われそうなものと靴は全てゴミ袋にまとめてコンビニのゴミ箱へと捨てた。唯一引っ掛かりそうな携帯ナイフは軽二輪のツールボックスに収める。麗華はバックパック底面に入れておいた靴に履き替えた。後はコンビニで飲料に携行食と菓子をたんまり買えば若い女性の深夜ツーリングの体は成せるだろう。そもそも声を掛けられなければ細身男性のバイカーにしか見えないのではあるが。
コンビニの白い明りの元へと歩みを進めると身体に気の葉や小枝が数点絡みついているのに気付いた。麗華はそれを丁寧に払い、背中はコンビニのウィンドウに映して確認。森の中に分け入ったような形跡を一掃してから店舗に入った。
自宅ワンルームマンション付近に着く頃はもうすっかり明るくなっている。交通量はまだ少ないものの、部活朝練か何かの中高生をまばらに見掛ける。麗華は今日が日曜日なのを思い出した。バイトは週七で入れても身体的、精神的にも大丈夫な気がしたが、雇用側に不気味がられるのを恐れて日曜から月曜にかけての深夜早朝を週一の休みにしている。つまり40時間強はまだ自由時間である。まだ秋口とは言え標高の高い場所からずっと走行風を浴びてきた。防寒対策は万全のつもりではあったが、体は芯から冷えている。まずは熱いシャワーを浴びよう。そしてコンビニで買ったおにぎりを熱いお茶で流し込み、目覚ましの類は一切かけずに気が済むまで眠ろう。そう考えているうちに自宅駐輪場に着いた。二階建てで横に各五部屋のワンルーム、二階北の端が麗華の部屋だ。
引っ越しの初日に男の振りをして隣と階下に挨拶に行ったがどちらとも会えず、ドアノブに挨拶メモを忍ばせた菓子折りを下げておいた。翌日自分の部屋のドアノブに同様に似た価格帯の菓子折りひとつと多分定価ならそれを上回る市販菓子ファミリーパック詰め合わせが双方メモと共に掛かっていた。部屋はすべて埋まっているらしいが、住人との接触はそれきりで面識自体は一切ない。昼夜逆転の生活サイクルを回している麗華にはありがたいことだった。
静かにドアを開け、部屋に進み入る麗華。シューズボックス上の鏡に目をやると、昨今見なかった晴れやかな表情をした自分が目に飛び込んできた。
枯葉を広げ水を撒く。場所が場所なら腐葉土でも作るのか、子供のいたずらかで済む行動である。しかしつい先ほど、その行動でまだ確定でないが人一人の命を奪ってきたはず麗華である。まさかその後の自分がこんな表情をするとは自身で思っていなかった。清く正しく、強くあった兄。その後ろ姿を見て育った麗華も同様にあろうと常日頃心掛けていた。それが良心の呵責など一切感じていない表情が自然に出るとは思っていなかった。
麗華は改めて自分の精神、神経が壊れているのを痛感し、そんな自分を軽く鼻で笑い飛ばし、乱雑に服を脱ぎ散らかしながらシャワーへと向かった。