橘麗華 前半
「ねえ、美樹は強姦されたことある?」
「ふふ、私もないわよ。いつも兄さんが守ってくれたもの」
いつかの会話が頭をよぎる。麗華の人生は常に兄の庇護下にあった。
麗華の最も古い記憶は公園か遊園地かの帰り道、両親と手を繋いで夕日の方に向かって歩くシーンだ。映画やドラマでも映える場面として使われそうな、そんな幸福な一瞬だ。しかしその両親の顔は思い出せない。
物心ついてからだととにかく虐められている場面しか思い浮かばない。施設員にはあからさまに嫌悪感を向けられ、本来友達となるはずの保護児童には殴られ、無視される。そんな日々が今も鮮明に記憶に残っている。
「こいつの両親、車で人をひき殺した上にその事故で死んだんだぜ」
年長男子の虐め開始の号令はいつもこんな台詞から始まった。後々知ることにはなるが、虐める側の両親も結構な凶悪犯が混じっており、大体率先していじめを始める五歳年上の男児は、父親が幼稚園で園児8名殺害、自宅で妻と息子も手に掛けたが子供の命は助かったという事件、その生き残った息子だった。歳を経て施設を出てもその男児と和解はなかったが、自分に向けられるかもしれない攻撃を事前に余所へ向けて発散させておく意図でもあったのだろうと理解はしていた。
麗華が入ってからの施設内ヒエラルキーが確立し、暴力を伴う虐め自体は減少傾向にあった頃に新たな児童がやってきた。それが藤咲義昭、後に彼女が兄と呼ぶことになる少年だった。
彼は犯罪者遺児ばかりのその施設で、唯一の被害者側孤児だった。両親とも職業は警察官で、事件の際に市民保護の過程で殉職したと言う変わり種だった。両親の知人夫婦に引き取るとの提案があったのだが、それを固辞してここに来たという風説もあった。
義昭は入所前の施設内児童の力関係など知らないため、いつもひとり寂しくしている麗華にも普通に接していた。彼の被害者孤児という肩書に他の児童が扱い方に困惑したが、無視はしないが積極的には接しない、という形で落ち着いた。
「あの、お兄ちゃんって呼んでいいですか?」
小学校入学を控えた麗華が意を決したのはそれなりの訳がある。普段は義昭、麗華、その他全員の一団体と個人ふたりの三団体を形成していた施設では、その他がたまに麗華を虐めに来て彼女が義昭に助けを求めて鎮静化するという時期を経て、麗華が義昭にべったり引っ付くことで表面上は虐めのない二集団と変化していた。それは施設内でのことで、学校へ通うようになればまた他からの虐めが始まるのを麗華は予感したからだ。同じ学校の高学年に通っている兄に校内で助けを求める気はない。ただ苦痛や苦難に耐える心の拠り所として何かが欲しかったのだ。
「好きにしていいよ」
義昭は一瞬煩わしさを見せた気もしたが、特に拒絶もせず受け入れてくれた。予想通り学校でも虐めはあったが、帰れば兄に会える、その一点だけを支えに麗華は耐え抜くことができた。
日々兄への依存度合いを増していた麗華が、その関係を決定的にしたのが施設員による強姦未遂だった。その施設では小学生以下の児童は広間で並んで就寝するのだが、一年生が終わる間近の頃、それは起こった。
すべての施設員は常に麗華への視線は冷たいのだがただひとり、その冷たさに何か他の悪意が混じっている施設員がいた。小太りで中年の男は児童の間でメガネハゲデブの各属性から一文字取って児童の間ではメハブと呼ばれていた。そのメハブが就寝中の麗華を襲ったのだ。その行動の真意はまだ知らない麗華だったが口に何か押し込められ、大人の質量に押し潰されそうな麗華はいつもと違う、もっと危険な虐めだと察して懸命に逃れようとした。爪を立て、嚙みつき、幼女が思いつく自分の最大の武器を駆使して何とか逃れると、麗華は義昭の布団に向かった。
『助けてお兄ちゃん』
恐怖と口の詰め物で声にならない声で義昭にすがると、彼はすぐに目を覚ました。それと同時にメハブのビンタが彼を襲った。
『お前は静かにしてろ』
その一撃で義昭を制圧できたと思ったメハブは麗華のパジャマを剝ごうとした。しかしそれが終わる前に義昭はメハブと麗華の間に割り込み、彼女に覆いかぶさった。
『大人しくしろと言ってるだろ』
メハブは小声で命令すると力の限り義昭の後頭部を平手で何度も叩いた。
『わからん奴だな』
らちが明かないと思ったメハブは義昭の襟首をもって持ち上げると、拳で彼の顔面を殴った。成人男性の視点なら平均以下のパンチだが、相手が小学高学年程度なら話は別だ、義昭は壁まで吹き飛ばされた。
『手間掛けさせやがって、その分たっぷり可愛がってやる』
やっとお膳立てが整ったとばかりに再び襲い掛かろうとしたメハブ、しかし行動に移る前に義昭が背中から襲い掛かった。右腕を喉に回し、左腕で締め上げる。知ってか知らずか俗にいうチョークスリーパーの形をとると、後頭部にガンガン頭突きを繰り返した。
一連の騒動で大きな声は一切立てていないが、肉や骨のぶつかるような音で児童数名が目を覚ましそうになっていた。
『ちっ、覚えとけ』
何とか義昭の締めを解いたメハブはそう捨て台詞を吐いて去っていった。鼻血塗れに意識がもうろうとしていた義昭はそのまま麗華を包むように抱き抱えると布団を頭から被って寝てしまった。
『ごめんなさいごめんなさい…』
麗華はちょっと苦しいくらいの抱擁、漂う血の臭いに義昭の受けたダメージを察して涙が止まらなかった。
翌朝、児童の間でも不穏な空気もあったが、結局義昭は寝ぼけてトイレに行く途中転び鼻血を出したらしいということで何の事件もなかったこととして扱われた。成人した際も彼の鼻筋が少し曲がっているのはこの事件が原因だった。
それ以降、頻度は高くないが数ヶ月に一度程度のペースでメハブは麗華を襲いにやってきたが、より近くで寝るようにした義昭が毎度満身創痍になりながら彼女を守った。彼が中学生以上の寝室に移る時期、幸いその部屋に空きが出来ず、彼の就寝位置が変わることがなかったのも幸運だった。その別部屋になるのを心待ちにしていたのか、それが果たされないと知ったメハブが一度、麗華を襲う前に寝ている義昭を先に無力化しようと襲い掛かってきたことがあった。当然先手はメハブ取られるのだが中学生に上がる手間まで成長した義昭は逆に返り討ちにした。今まで決め手に欠くメハブが発覚を恐れて去る形で終結していた対戦が、メハブが耐えきれずに逃げ出すという新たな形で決着したのだ。
就寝部屋が分かれることになったのは義昭が中二に上がる時だった。その時には彼がバイトして買った防犯ブザーとおもちゃではあるが短距離間の実用性がある通信機を念のため麗華に渡していた。初回未遂時に比べれば麗華も歳相応に成長しているし、ブザーのストラップを引き抜く時間程度はもがいて稼げるだろうと義昭は考えていた。
麗華と義昭を狙った襲撃は初手で義昭を目標としての襲撃を撃退したのを最後に来ることはなかった。その時は圧倒して勝てたとは言え、意識が完全に覚醒する前に手足を拘束するなど段階を追って攻略されれば、さすがに別室にいる麗華の保護に回れるか定かではないと一定の危機感や緊張感は持っていたが、幸いにもそれは杞憂に終わった。
「一緒に来るか?」
現制度では中学卒業を機に施設の退所が求められる。ブザーを携帯しているとは言え、敵だらけの施設に麗華をひとり放置していくのは気が引けた。兄と慕って懐いている彼女にそれなりの愛情もあったし、ここで捨て置けば今までの苦労が全て水泡に帰すような気がしたのだ。年に一度ほど面会に来ていた義昭を引き取る意思があった夫婦が陰でいろいろ動いてくれたらしく、麗華はその差し伸べられた手を取り、揃って退所することとなった。
身体的に成熟していく時期に苗字の違う未成年男女のふたり暮らしを訝しむ目もあったが、施設出身、両親の離婚で姓が違う、と真偽混ぜ合わせた情報工作で元々希薄な近所づきあいは何とか乗り越えていた。
それ以降も多少の浮き沈みは有ったものの、それまでの人生を思えばふたりは平穏に暮らすことができた。義昭は高卒で警察学校へ進学、麗華は高校から進学校へ、その後義昭のたっての希望もあり大学へと進んだ。義昭は全寮制で必要のなくなった部屋は麗華ひとりのために借り続けることにした。
二人の関係は義兄妹としか捉えていなかった義昭に対して、麗華の方は完全に恋愛対象と見ていた。とは言っても仮に愛の告白が断られた場合、義昭との生活が続けられる自信が全くなかったので鬱陶しくない程度のアピールでの待ちの姿勢を貫いていた。ふとした会話から思い当たる義昭の女性の好みに合わせて髪を伸ばしてみたり、服の色、スタイルも直接的に尋ねたわけではないが、義昭が好きそうなもので統一していた。
その間に義昭に彼女が出来た時期もあったが、家庭環境が難点となっていつも長続きはしなかった。そんなとき麗華は申し訳なく思いつつも安堵の方が大きかった。
麗華はいつか義昭と結婚して幸せな家庭を築くという前時代的な夢をずっと持っていたし、それは現在の自分の努力で叶うものだと思っていた。自分は街中でナンパやスカウト受けたこともあるし、少なくとも外観で拒絶されることはない自信はあった。性格や価値観も人生の大半を共に暮らしている中、極端な嫌悪を向けられた記憶もない。もし義昭がグラビアアイドルや極端に年の離れた相手じゃないと受け付けないなど、高望みや偏向嗜好を持っていない限り、自分は彼の優秀なお嫁さん候補だと自認していた。その自信が揺らぎ始めたのは義昭が警察官に正式採用されて働き始めてからだ。
義昭は勤務地が近いのに寮暮らしを続け、たまに帰って来ても学業の進捗、健康や生活での不自由を訊く程度で手土産や差し入れを置いてさっさと帰ってしまう始末。自分が自立できる年齢に近づきつつあるので、今まで面倒見で大変だった義昭が友人や同僚との時間を優先し始めたのだろうと何とか嫉妬を抑えつつも納得しようとしていた。
姿勢変更の決意に至ったのは偶然繁華街で義昭が女性を歩いているのを見たためだ。幸いその女性は3対3の合コン相手のひとりだったが、ほんの少し後を付けて監視した麗華の視点では明らかに義昭狙いの雰囲気を漂わせているのが分かった。幸いその会は義昭たちに緊急招集がかかってそれ以上の進展は見られなかったが、もしかしたらそれ以前に連絡先を交換して何かしら進んだ関係に発展するかも知れない。
危機感を持った麗華の豹変ぶりは義昭が引くくらいだった。
『好きです。結婚を前提に付き合ってください』
初めての恋愛感情の発露は翌日送ったショートメッセージだった。それを合図に麗華は堰が切れたように猛烈にアタックを始めた。連絡の頻度が急増、義昭の仕事の邪魔にならないようにメールやメッセージ主体なのだが、文字に起こされた麗華の濃密な思いは義昭には若干の狂気すら感じられるものだった。そのため何かの暗示かと不穏に感じた義昭が通話で安否を尋ねる事態も起きていた。偶の帰宅には性的な要素も混ぜて迫りもしたが義昭はそれらを避け続けた。結局彼を陥落させたのは泣き落としだった。嫌いならきっぱりと振ってくれ、そうでないなら結婚してくれ。麗華はあまりにも極端すぎる二択を迫り、理想の回答を引き出したのだ。
「俺と結婚しても大して幸せになれんぞ」
「ううん、兄さんと一緒ならどんな災厄があっても絶対幸せですから」
結局麗華がひとりで暮らす時間の方が長かったマンションの一室、ついに折れた義昭の腹回りに抱き着きながら麗華は応えた。
「大体お前の感情は恋愛じゃなくて依存だと思うぞ。幼少期からの刷り込みというか」
義昭は眼下にある麗華の頭を優しく撫でながら言った。
「もしこれが恋愛感情じゃないなら、わたし一生恋愛なんかできなくていい」
大願成就で満悦な麗華は頭をグリグリ義昭の腹に押し付けながら言った。
「まあ先のことはともかく、まずはきちんと大学を卒業しなさい」
義昭はべったり貼り付いた麗華を剥がしながら言った。
「うんわかった」
麗華はそう言うと目を閉じ唇を突き出した。義昭はそれに触れるだけのような口づけを軽くして付け加えた。
「とにかくこういうのは卒業してからだからな」
「頑固パパか」
麗華は軽口を叩くと今度はもたれかかるように義昭に抱き着いた。思えばこの恋愛関係に持ち込むまでの作戦中はこんな穏やかな会話は出来ていなかった。物足りなさがない訳ではないが、麗華は満足していた。見通しが付かなかった義昭との関係に見通しが立ったからだ。後はゆっくり、穏やかにふたりで人生が歩めると確信していた。
了承をした以上、義昭も麗華に対して異性としての魅力を感じてはいるのだが、今まで積み重ねてきた時間が長すぎてやはり妹や家族と言った雰囲気の方がまだ勝っていた。
「頑固というより過保護な気がしてきたよ」
義昭は観念したようでもあり、安堵したようでもあったが、幸福感に満ちていたのは麗華と同じだった。彼は娘を育てあげ、嫁に出す父親の気分はこんなものなのかも知れないと不思議な感覚にも見舞われていた。その嫁に出す先が自分でなければさらにその感覚は強まっただろう。
義昭が事件に巻き込まれて亡くなるのはそれから半年が過ぎた頃だった。
急に準備が必要になった訓練場の宿泊施設に泊まり込みで前準備をひとり任された義昭は、深夜に発生した放火事件に巻き込まれて焼死してしまったのだ。




