西田翔太朗 前半
麗華が学生時代の人との繋がりを断ってから約四年、長かった黒髪は男性と見間違われる程度まで短くし、昼は既に合格している司法試験浪人の勉強、深夜はコンビニバイトという体で生活していた。温和な初老の夫婦がフランチャイズ経営するバイト先は麗華の男装とも言える服装や私生活には特に干渉せず事前申請なら週一で休みも取れる、彼女にとっては理想の職場となっている。
「店長、来週の土曜日、お休みいただけませんか?」
深夜でも頻繁に来客がある店舗ではあるが、その客足が切れたタイミングでバックヤードでうつらうつらしていた店長に麗華が訪ねた。
「来週、ん-、大丈夫、おっけー」
深夜のシフト表は全て麗華で占められている。確認したのはその日に妻が在宅であるかどうかだった。麗華がバイトに入る前の深夜バイトは長続きせず夫婦ふたりで何とか回していた。当時は仮眠と実働を交互にこなす激務をしていただけに、現状の夫婦片方だけが、ほぼ仮眠状態でも仕事を回してくれる麗華はとてもありがたい存在だった。彼女が休みたいと言えば、その日だけ以前の状態に戻るだけである。無論楽な仕事と言うわけではないが、業態に合わないと麗華に辞められることと天秤にかければ楽な選択である。
「司法試験の摸試か何かかな。無理せずに頑張ってね」
「ありがとうございます」
麗華は軽い笑みとともに会釈して仕事に戻った。次の土曜日の深夜、最初の実行日である。
たった一人での復讐を誓った麗華は全ての気力をそれに費やしている。例え役割が見回りだったとしても、兄を殺した事件の実行犯のひとりがたった三年半で出所してきていた。模範囚を装うのはさほど難しくなかったと前科持ちで箔が付く業界の舎弟に自慢げに話す姿をほんの数メートル離れた場所で麗華は聞いていた。過去のトラウマもあり兄が存命中一定程度の護身術は教えてもらっていた。しかし身長168センチ、日々続けている筋トレとその強化目当ての栄養摂取を経ても体重はギリギリ60キロ。街のチンピラと一対一では大体勝てるだろう身体は維持しているが、相手は例え末端付近と言えど指定暴力団員に取り巻きが常に数名、敵うわけもない。元々麗華も面と向かって刃物で刺したり鈍器で殴打なんて手段は考えていない。麗華は普段の昼間は寝ているかトレーニング、そして情報収集である。想定以上に早く出所したひとりの標的もその情報収集時に見つけていた。素行調査を装って探偵業者に依頼したこともあったが、その行動パターンにひとつの定例事項があった。
「彼は毎週土曜日は天の川峠にバイクで走りに行ってるだけですね」
約半年前に出所直後の浮かれた期間を過ぎた頃、やくざの情婦を装って素行調査を依頼、平日は競馬競輪など賭け事に飲み屋の巡回と絵に描いたような生活をしていた。そのルートは常にランダムのようだが、唯一、毎週深夜は舎弟4人と峠に行っているというのだ。麗華はその調査報告をチェーン展開のファミレスで聞いていた。
「ワンボックスに大型バイクを積んで舎弟に走りたい区間を通行止めにさせて好き放題走っている様です」
興信所の担当者が撮った写真を机に並べながら一瞬やれやれと言った表情を見せたが、依頼者が関係者なのを思い出し姿勢を正した。
「毎週かどうかは不明ですが、私共の調査期間では土曜日は二日とも同じ場所に出向いていましたね。元々交通量が少ないところで、近くにバイパスもありますので地元民の苦情もないようです。元々はあったようですが、あの風体ですからね」
調査員は若干の悪態をついたものの、凛とした佇まいは崩さずにプリントアウトされた地図に書き込まれた赤いマーカーを指した。
「ありがとうございました」
麗華は顔が半分隠れるようなロングヘアのウィッグを押さえながら軽く会釈をして所定の額を収めた封筒を机の上を滑らした。調査員は中身を軽く一瞥しただけでしっかりと確認もせず懐に収めた。
「何か不明な点があればまたご用命頂ければ追加で調査いたしますので」
調査員は立って挨拶しようとする麗華を座らせたままにして握手をし、レシートをもって立ち去った。それが彼らのルーティーンなのか、麗華に対して格好を付けたかったのかは不明だが、数ミリの万札を受け取った側がコーヒー一杯を奢ったところでそれがダンディズムに繋がると麗華は思えなかったのだが。
その報告があったのが約一ヶ月前。頻繁に乗っているわけではないが、標的のバイクは常に自宅の前に停めてあった。麗華はその車体を突き止めてすぐにGPSタグを設置、次の土曜日も同様の軌跡を示したことで実行を決意した。事故を偽装して殺そうと。
標的は土曜日の夕方前後に地元を離れ、夜半前から深夜にかけて一定のルートを7~8往復している。GPSタグの解析を詳細に行うとひとつのコーナーの数値が目に留まった。登りでは100メートル弱の直線の後ほぼ直角のコーナー、その後50メートルほどの直線。左側は標高差20メートルほどの崖、下りはその逆である。着目すべきはその速度と加減速度である。登りは時速100キロ近くの速度から急減速、下りに至ってはそこに至る直線は短いものの、高速コーナーをいくつか経てのアプローチのため、最高で時速130キロまで出ている。コーナーの速度はどちらも時速40キロである。ほんの数メートルで時速にして90キロを減速する区間、そこでのスリップ事故を麗華は画策していた。時節は初秋、標高の高い峠では既に紅葉や落ち葉が増えている。麗華は人目、防犯カメラに注意しつつその現場付近に足掛け二週間、軽二輪を飛ばして下準備をしていた。
「しかし兄貴も飽きないっすね」
現場に着いたワンボックスからバイクを降ろす標的を手伝いながら手下1はぼやいた。
「当たり前だろ。ギャンブルにしろバイクにしろ、スリルがなきゃ生きてる意味ねぇわ」
標的はセルを回しエンジン点火、空ぶかしを何度も続けてその反応、爆音に酔っていた。
「自分はスリルはこっちすね」
手下2は私設の通行止め用具と飲食物、暖房器具を降ろしながらスマートフォンのFPSゲームを見せた。
「大体通行止めなんかしなくても通行車両一台も見たことないですよ」
始点用の用具を降ろし終えた手下3が不満そうにぼやいた。
「まあ俺も通行車両も一度酷い目見てるからな。それで少なくとも地元民は土曜の夜はここは使わなくなったが」
ブールにグローブ、インナープロテクターと装具を付けながら標的は続けた。
「事情を知らんよそ者が紛れ込んでくるかも知らんしな」
そう言い終えるとヘルメットを被り顎ひもを締めた。
「転ばぬ先の杖って事っすかね。まあ俺らもダラけてるだけで手当て頂ける楽な仕事ですし」
手下4はワンボックスの運転席から終点側担当の手下3を手招きして助手席に促した。
「んじゃ兄貴、向こう設置終わったら連絡しますんで」
そう告げると二人を乗せたワンボックスはのろのろと峠道を上り始めた。
麗華は目標地点、山側の森の中の暗闇で息を潜めていた。標的のバイク道楽は既に始まっている。平均行われる八往復は始めの二階程度はウォーミングアップの意味もあるのか、速度は低め。最終盤は疲労が蓄積するのか速度は落ちがち。特に時間を計測している訳でもないようで観測した二回とも同じ傾向となっていた。狙うなら3~6回目の下りだ。一度目の登りからイメージトレーニングはしている。そして今、爆音を上げて5度目の登りが通り過ぎて行った。テールランプが見えなくなる前に意を決して動き始める。45リットル入りの無関係な自治体の指定ゴミ袋、その四つにいっぱいに詰められた落ち葉、同じく20リットルの袋10個に詰められた水道水、バックパックには電子機器調査用の急速冷却材が八本。まずは全ての落ち葉を減速区間にまき散らす。何度か実践して上手く、広くまく方法は体得していた。開いた袋は空気を抜き丸めてポケットにねじ込む。続いては水の入った袋を両手にひとつずつ、暗闇の中ほのかな三日月の明かりの下でまいた枯葉の上に満遍なく流す。五往復するうち、偶然とは言え今日が満月に近い月齢だったことに感謝していた。もし新月だと何かしらの暗視装置がないと多分現状の手際は発揮できなかっただろう。
最後は冷却材。水と落ち葉の組み合わせで十分滑りやすくなっている。これを凍らせるのにどの程度滑り易さが追加されるか特に実験はしていない。もしかしたら逆にグリップ力が上がるかも知れないとの危惧もあったが、現在の気温は5℃程度、標的が下りに来る頃はどうせ溶けているだろう。探せば他に狙える機会があるかもしれない。それでも短期間でここまで結末まで描ける手段が簡単に見つかるとは思えない。ここで失敗すれば次はない。その覚悟で挑んでいるのだ。
急冷材の噴霧が雑だったのか、六本で枯葉のじゅうたんエリアは出来上がった。その上を何往復もしたため靴は泥だらけ、身を潜める地点までの足跡を適当に消しながら坂を上る。現場に残す足跡は念のために全世界で定番扱いされているバスケットシューズ、サイズはこの日のためだけに買った2センチのサイズオーバー。つま先に緩衝材を詰めて履いていた。購入時も店舗の防犯カメラには映る前提で男装で買いに行った。
まず第一に殺人事件と疑われないように、第二に疑われても証拠は残さないように、第三に痕跡を察知されても捜査線上で自分への線が切れるように。第一条件が崩れたら怨恨がある自分が早期に容疑者へ名を連ねることは十分承知をしている。それ故の対策だった。
急冷材散布が二本余ったお陰か、今まで何度か実践して計った所要時間の最短を更新して罠の敷設は終わった。平均では後二分強で標的が下ってくる。自分のバイクでぬれ落ち葉の滑りやすさは確認はしている。それはあくまで軽二輪でのことでネットで見る限り標的は最新のハイテク大型バイクである。想定通りに事を運ぶことを祈り、頻繁に時間確認していたスマートウォッチの明かりを消し、木陰に身を潜め、麗華は標的が戻ってくるのを待った。